茜色に染まる教室で、教え子が薄汚れた教卓を撫でるのを、黙って見ていた。
愛おしげな指先は縁をなぞり、フッと微笑んだ顔はぺたりと机上にくっ付いてしまい、表情は伺えない。

透明な雫がぽたりと落ちた。

夕日混じりのそれは汚れを浄化するような神秘的な輝きを放っていて、俺はその儚さに開き掛けた口を噤み、目を背けた。

心臓が痛くて、身動きが取れない。






昨日のことは夢か幻だったんじゃないかと疑う程、土方はいつも通りだった。
体育の授業でサッカーをしている他クラスの生徒の騒ぐ声に目を細め、校庭を眺めている。
暫く授業そっちのけで土方を観察していた俺は、ふわふわと風に揺れるカーテンの中にその姿が消えたのを視界に入れた瞬間、声を張り上げていた。

「土方!」

教室が静まり返った。
普段滅多に怒らない俺の態度に生徒達は目を丸くして驚いている。
勿論それは土方も例外ではなくて、カーテンから急いで抜け出すとすいません、と頭を下げた。

「あ、いや…違ぇんだよ。お前が、消えちまったかと思って」

自分でも可笑しなことを言ったと思っている。
しかし真っ白に遮断された世界はまるで異世界で、カーテンを開けたらそこに土方が居ないような気がしてならなかった。

「あっはっは!なに言ってんだよ銀ぱっつぁん!トシがそんな儚いタマかぁ?なぁ?」
「あ、ああ…全くだ」

しどろもどろに返す土方の顔はうっすらとピンク色に染まっていて、俺は昨日からきりきりと忙しなく痛む心臓を抑えるので精一杯だった。






テスト前、部活も休みに入ると国語科準備室は生徒の溜まり場となる。
一応仮にも教職に就いている以上、苦手分野はあれど基本の五教科位なら教えられるせいか、国語に限らず他教科の質問に大勢の生徒が押し掛けるのだ。
お陰で学校でのテスト問題の作成は不可能で、毎日寝不足な訳だが受験を間近に控えた三年のこいつらを無碍にすることも出来ず、受け入れていたら毎回押し掛けるようになってしまった。

「おーい、銀ぱっつぁん!お茶くれ、熱いやつ」
「テメェふざけんなよゴリラ!ここは喫茶店じゃねぇぞ!」
「そんなゴリラは放っておいて、早く教えて頂けません?」
「お前も偉そうだな、志村姉。で、どれだ?」
「これです」
「お前これ、音楽とかは無理だから!つーかね、銀さん国語の先生なの。出来れば国語にしてくんない?」
「…チッ…じゃあ英語でいいです」
「舌打ちすんな!俺国語って言ったよね?無視?無視なの?」
「同じ文系ですから、何も問題ないでしょう?」

にっこりと貼り付いた笑みは偽物以外の何者でもない。
俺は溜め息をついて英語の教科書を開いた。

俺は国語の教師だが、授業以外で個人的に国語を教えることは極端に少ない。
そもそも国語、特に現国の場合は古文や漢文と違い、その文章に隠された真意を如何に読み取ることが出来るかが問題であり、必要なのは読解力だ。よく読めば必ず答えが載っている、言いようによっては最も点数が稼げる教科であり、勉強して何とかなるのは漢字位なのだから大して教えることは無いのが現実だったりする。

「だからここはifから始まるから…」

仕方無く英語を教えていた俺は室内を見渡し、ある異変に気付いた。

「なあ、お前ら…土方は?」

3Zの生徒はほぼ全員集まっている中で、土方の姿だけが無い。一際目を引く整った顔をしているから見落としているなんてことは絶対に無い筈だ。

「トシなら今日は日直だから教室で日誌書いてる」
「ああ、そうか」

真面目なやつだと思う。
日誌なんてものは有って無いような物だ。
3Zの生徒の中できちんと日誌を書くのは土方だけだった。
毎日国語科準備室に持ち込まれる日誌を読めば、今日は天気がいいだとか、腹が減ったなどとどうでもいい一言メッセージが書かれているのに対し、土方が書いた日誌は一目見れば分かるほど達筆で、一日の出来事が事細かに記されている。
だからだろう、自然と俺のコメントも枠一杯書くようにになっていた。
土方がそれを読んでいるかは不明だが、ただ単純に土方が一生懸命書いてくれてることが、俺は嬉しかったのだ。

「そろそろ終わる頃だろうし、俺が呼んで来やしょうかぃ?」
「いや、沖田君に行かせたら土方どうなるか分かんないからね?大人しく英文解いてなさいよ」

勉強しなければならない程頭が悪いわけでは無い沖田君には少し難しい長文を渡す。と言うかこの子は普通に頭が良い部類に入る子だからそんなに勉強する必要は無い筈なんだが。

今、教室には誰も足を踏み入れてはいけない気がした。

昨日の土方はなにかとても神聖なものに感じて、誰にも知られてはいけないと思った。否、誰にも知って欲しくない。
俺だけが知っていたかった。


「なぁなぁ、銀ぱっつぁん」
「何だよ。つーかお前一問も解けてねーじゃねぇか!ぶっ飛ばすぞ」
「まあまあ。それでさ、銀ぱっつぁんの彼女ってどんな人?」

ニヤニヤと中学生らしからぬ笑みを浮かべる近藤に、俺は意味が分からず首を傾げた。
そもそもそんな話をした覚えは無いし、そんなものが存在するならこっちが聞きたい位だ。

「なんの話だ?」
「とぼけんなって!その首のリング、何時も肌身離さず付けてるじゃねぇかよー」
「ああ、これは…」

俺の大切な人がくれたもの。
それは間違いなく事実だ。しかし、彼女とかそんな色気のある話ではなく、どちらかと言えばもっと血生臭い話だろう。
今も首元で揺れる銀色の輪っかは、俺にとってどんな金属よりも重い、言うなれば戒めだった。

「怪しいよなってトシと話してたんだよ」
「…土方と?」

何かが俺の中で確実に形成されていく。
土方はここには来ない、そう確信出来た。俺が行かなければ、喉で魚の骨が突っかかったようなこのムズ痒さからは一生解放されないだろう。
今行かなければ答えが出ないまま終わりそうな気がした。

「悪りぃ。ちょっと用事思い出したから、お前ら今日はもう帰れ」
「え、銀ぱっつぁん?」
「じゃーな。ちゃんと勉強しろよ?」

生徒達の不満な声をBGMに、俺は国語科準備室を後にした。

「どうしたんだろうな、銀ぱっつぁん」
「鈍いんでさぁ、お互いに」





全力疾走なんて何年振りだろうか。
俺は荒くなる呼吸を整え、静かに教室を覗き込んだ。

「………」

案の定土方はまだ教室に居て、窓際の一番後ろの席で日誌を書いていた。
かりかりとシャーペンの動く音が教室に木霊する。
シャーペンの音が止まり、土方は書き終えた日誌を確認すると一息吐き、日誌を閉じた。
しかし、閉じた日誌はまた土方の手によってペラペラとページを捲っていき、やがて一つのページで止まる。

「意外と律儀、だよな」

問いかけられたと思った言葉は土方の独り言で、思わず開きそうになった口を閉じる。
土方は自嘲気味に笑うと日誌の右下の辺りを昨日と同じように愛おしそうに撫でた。
そこは担任からのメッセージを書く欄で、柄にも無く枠をはみ出して書いたメッセージは記憶に新しい。
何度も往復する白い指先に釘付けになっていた俺は、そこに落ちた雫に居ても立ってもいられず、重い一歩を踏み出した。

「……土方」
「せ、んせ?」

昨日と同じ夕暮れ。だけど昨日とは確実になにかが違う。歯車は動き出してしまった。

「あ、あの…日誌、書き終わったんで…」
「うん」
「…あ、俺…帰ります」
「待って」

鞄を持って立ち上がった土方の腕を掴む。
はらはらと零れる涙が床に落ちていくのを勿体無いと思った。

「そんなもの、撫でるだけで満足?」
「え?」
「俺はここに居るのに。有りもしないことに怯えて、俺の影を追うだけで。土方はそれで満足なの?」

ビクリと震えた肩と量を増した涙に疑念が確信に変わった。

「これ、土方にならあげてもいいよ」
「あんた、何…言ってんだ」

首に掛かった銀色をツイと引っ張ると、土方は濡れた赤い目をキッと釣り上げて声を荒げた。

「大切な、ものなんだろ!?」
「確かにこれは大切なものだけど、今はもっと大切なものが出来ちゃったから。もう、いいんだ」
「もっと…大切な、もの?」
「そう、お前」

涙でぐしゃぐしゃな顔を覗き込み、目尻に溜まった涙を舐めとる。
土方は鳩が豆鉄砲食らったような顔をすると、次の瞬間、綺麗に耳まで朱色に染め上げた。

「くく、可愛いの」

ああ、そうか。
この感情の名は、


(いとしい、いとしい、と云う心)

首の鎖がやたらと軽くなったような気がした。





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