あなたの腕の中で優しい夢を


十時間近くに及ぶ大手術。神経を研ぎ澄ませ、感覚を鈍らせない。無事に手術が成功したと同時に、身体にはどっと疲れが伸し掛かる。

休憩室でコーヒー片手に一息ついていると「降谷先生、お疲れ様でした」と私が研修医時代から此処の病院を支えている看護師長に声を掛けられた。菩薩のような表情に頬が緩む。


「ここ数日、立て続けに手術が入っていてお疲れではありませんか?」
「少し、きてます」
「明日はお休みですよね?ゆっくり休んでくださいね」


その言葉に返事をすると、看護師長は軽く頭を下げ忙しなく姿を消した。正直、医師は万年人手不足だ。休日だからといって、一日休めるほうが少なく、大抵は急患や急変により呼び出しを食らう。

白衣を脱ぎ、そそくさと帰宅準備をしているとスマホが小さく震えた。ディスプレイに映し出される『着信 沖矢昴』その文字に心が踊る。


「もしもし?」
『そろそろ終わった頃ですよね?迎えに行きます』
「なんで分かったの?」
『貴女の事で分からない事があると思いますか?』


気難しそうだとか何だとかよく言われるけれど、実際の私は恐ろしく単純だと思う。ただ、表情に出にくいのだ。だって、今の私はこんなにも喜びに満ち溢れているのだから。

病院入り口前で待つ事十分。気付けば、見慣れてしまった可愛らしい車が私の前で停まった。「お待たせしました」そう言って顔を出したのは眼鏡を掛けた優男。


「そうだね。随分と待ったよ」
「それは…。これでも急いで来たのですが」


眉を下げ困ったように返事をする。こんな表情は、この姿でしか見る事が出来ない。くすくすと笑いながら助手席に乗り込む。偶然居合わせた看護師が私を見て頭を下げる。


「次出勤したときには質問攻めかな」
「きちんと彼氏だと言ってくださいね」
「もちろん」


緩くアクセルを踏み、車は静かに動き出す。季節は夏を迎えようとしている。病院を囲む立派な木々には青々とした葉で覆われている。


「名前さんの家で良いですよね」
「その言い方だと決定事項に聞こえるけど」
「気のせいですよ」


眼鏡の下の細い瞳は真っ直ぐと道路を見ている。その時、スマホのバイブが震えバッグから取り出す。名前を確認し通話ボタンを押す。すると『久し振りだな』と特徴のある声が聞こえた。


「零から電話なんてどうしたの?クビにでもなった?」
『な訳ないだろう。夕方から時間が出来たから、久し振りに一緒にディナーでもどうかと思ってな』
「今日は彼氏と過ごすから無理。じゃあね」
『っ、ちょ!待て!名前っ、』


ツーツーと機械音が聞こえてくる。すると隣でくすくすと笑い声が聞こえ「お兄さんをそんな扱いして良いんですか?」と言われた。その言葉を聞きながらスマホをバッグにしまい込む。


「お兄さんなんて言っても、そんの数分の差でしょ。双子に上も下も無いから」


私の双子の兄弟は警察庁の公安部で働いている。どんな働きをしているのかは詳しくは知らないけれど、たまに会うと傷を作っているから想像より危険な事をしているのだろう。





マンションの一室。それが私の家だ。ふぅ、と息を吐くとメリメリと、言葉通り化けの皮を剥がす。そこから出て来たのは見慣れた本当の姿。緑の瞳に黒い髪。私より酷い隈。これが私の彼氏の姿だ。


「コーヒーを淹れてやるから、シャワーでも浴びてこい」
「ありがとう。じゃあ、ちょっと行ってくるね」


適当な着替えを持ち、風呂場へ向かう。夜勤明けのクタクタな体では浴槽に浸かったらそのまま寝てしまいそうだ。髪の毛、体。至るところを丁寧に洗っていく。

髪の毛をタオルで拭きながらリビングへ向かうと、鼻腔を掠める心地良い香りが広がった。テーブルにはティーカップが二つ。そこから緩やかな煙が上がっている。


「まだ髪の毛が濡れているぞ」
「乾かすの面倒だし」
「…こっち来い」


そう言われ手を引かれて、私はカーペットの上に座った。私の真後ろ、ソファーに彼――秀一が座ると頭に被せたタオルでガシガシと髪の毛を拭き始めた。


「…想像では、優しく拭いてくれると思ったんたけど」
「降谷君と双子とは思えないな。もっと推理力を磨いた方が良い」
「こんな事に推理も何もないでしょ」


そう言って秀一の顔を見上げようとしたとき、私の首元に血管の浮き出る筋肉質な腕が絡んだ。頭にはタオル越しに、呼吸が掛かる。


「何?もしかして会えなくて寂しかったとか?」


いつも余裕しゃくしゃくな秀一に限ってそんな事があるわけ無い。そう思っての発言だったのに「…悪いか」なんて小さく聞こえてきて、心臓が止まるかと思った。秀一の顔が見えないのがとても残念だ。


「この歳になってもまだ、好きな女に毎日会いたいと思うのは気持ちが悪いか?」
「そんなこと無い。私も会いたかったよ」


首元にある腕を、ぎゅ、と指で優しく握る。すると名前を呼ばれる。それが心地良くて、私はリップノイズと共に唇を落とした。


「でもこうしてたまに会うからこそ、愛って更に深くなると思わない?」
「その通りだな。今夜は寝させてあげられそうに無い」
「それならコーヒーが冷める前に飲んで、少し寝よう。暖かい抱き枕があると安心して寝られるから」


ただただゆったりと流れる穏やかな時間が愛しくて仕方が無い。こんなにも愛しい人と出会えた私は、この世で一番の幸せ者だろう。


2018/07/09
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