# 09 自分の馬鹿さ加減に呆れる。 ただでさえ興味を持たれているのだ。元々の興味の対象が神条時臣ではなく"相模の若獅子"であるとは言え、その符号は己を意味している。 だからこそ下手な関わりは控えたかったと言うのに。 先を考えると甚だ以て憂鬱だ。 上手いこと昨日のことを忘れたい。何とも妙な夢であったと思いたい。 忘却は何の解決にもなりはしないが、心の平穏に繋がるであろうことだけは確かだ。 取り敢えずは一振り一振りに記憶を込めて吹き飛ばしたい。 「ふ…っ」 そんな思いで振り下ろされる刀にはどう考えても邪心しか込められていないだろう。 神聖な稽古場を汚すのもどうなのか。否、雑念を振り払うにはやはり鍛錬だ。 この冷たく静かな場が己を癒し、研ぎ澄ませてくれる。 しかし清々しい空気には容赦なく何者かの気配が混じり込んだ。 「こんな朝っぱらから精が出るねぇ、若獅子の旦那〜」 「ああああああ……!」 「ぅおっ!?」 間の悪い上にわざわざそう呼ぶとは。 勢いよく顔を向けた先にある、飾り気の無い稽古場には場違いな迷彩色を睨め付けた。 八つ当たり上等。 据わった目つきで見遣れば、その弾みで辺りが闇色に満ちる。 「え、ええ〜?何々、らしくないじゃない」 とてもじゃないが忍べるとは思えない、蜜柑色と形容したくなる明るい茶髪――の持ち主である忍びは、それこそらしくなく口角を引き攣らせた。 情けない、というほど崩れている訳ではないが何となく溜飲が下がった。次第に薄まっていく闇の匂いに、猿飛がへらりと笑う。 「……おはよう御座います、猿飛殿」 「うんそうだね触れない方が良さそうだよね」 「何の御用でしょう」 早口で言った猿飛はさり気なく一歩引きつつ、懐から何かを取り出した。 「お館様から北条の爺さんにお手紙さ。あんた通した方が確実かなって」 「それはどうかと……まぁ、氏政様も既に起きていらっしゃるでしょうしね。ご一緒します。……細」 「はい」 俺の呼びかけで、静かな返事とともにその場に黒い人影が現れる。 猿飛は茶色い目をぱちくりさせて細を見た。 「あんた何処にいたの!?書簡届けて直ぐ帰ったじゃん!」 武田に書簡を届けた関係で顔見知りなのだろう。 細は猿飛には目もくれず、真っ直ぐに俺を見たままだ。 「俺の居場所は時臣様のお側に他なりません」 「細は私の影ですからね」 「光栄です……!」 感極まった声色にも関わらず、表情が変わらないのに猿飛があんぐりと口を開けた。 「細。彼を連れて向かいますから、先に氏政様に知らせて下さい」 「御意」 頷いたかと思えば、次の瞬間には音もなく消え去る。 猿飛はやれやれとでも言うように肩を竦めた。 「北条には何匹バケモンがいるのさ……」 「細は戦には向きませんし、大体武田には絶対言われたくないです」 「この話題は平行線を辿りそうだから却下」 「同意しておきます」 書簡は中身は今川の到着に対するものだろう。流石は対応が早い。 感心していると、やっぱ爺さんは朝が早いねー、などと猿飛が口を滑らせたので頭をはたく。 恨みがましげに此方を見る目の奥はやはり何処か仄暗い。 会話をしているだけで量られているような気がしてくるのは彼の役柄上仕方のない事なのだろう。こういうのも職業病と言うのだろうか。 いや、数年の付き合い……拙い探り合いでそうそう本質を見抜けるとは思えないし、生来そういった性質があるのかどうかも分からないのだが。 「神条の旦那って、結構乱暴だよねー」 「そう。気になっていたのですけれど、私を指してそう呼ぶのは止めて下さいますか」 「は?」 乱れた着物を直す俺の横で、腕を組んだ猿飛が目を丸くする。 「神条を継ぐのは兄上ですので」 「……神経質だねー」 「あと旦那、と言う呼び名も少々気になりますね。私は神条の当主でも貴方の主人でもありませんし、特別地位が高い訳でもありません」 つらつらと理由を並べ立てていくと、猿飛は呆れ顔でぽかりと口を開けた。 「なんて呼べば良いってのさ……」 「それはまぁ何とでも」 「文句付けた割に投げるねー、時臣サマ?」 「恭しい敬称は必要ありません。……貴方とは比較的良い友人になれそうな気がしたのですが」 何だかんだ言って本心だ。 友人らしい友人がいない中、年も距離も近い位置にあると思っている。 一度敵という前提が覆ってしまえば、いっそ懐に入れてしまいたくなる程度には。 兄上は何処まで行ったって兄だし、細も殆ど家族のようなもの。家臣は皆家の者、という認識だ。 小太郎は……そういう括りにおけるほど、俺の中で定まっていない。きっと細のように家族と近いけれど、このドロドロとした独占欲は家族に向けるものなのだろうか。 ぼんやり思考しながら目線をやれば、表情を作るのが大得意な筈の猿飛が細もびっくりの仏頂面をしていた。 「立派なお武家様がたかが忍び相手に友人っておかしいでしょ」 「おかしいですか」 ついさっきまで、その猿飛が言うところの"たかが忍び"を家族と思っていた所だ。 どうにも不本意で聞き返せば、猿飛はわざとらしく溜め息をついた。 「おかしいね。前々から思ってたけど、あんたって変だ」 「はぁ」 「礼儀正しいのはお武家の作法なのかも知れないけど?それにしちゃ慇懃で見下すような事も無いし。無礼を働いたって逆上する事も無い。罰の一つも持ち出さない」 「猿飛殿は年上ですしねぇ。氏政様も亀の甲より年の功と日頃良く仰っていますよ」 「あのね。俺の話聞いてなかっただろ、貴賤の問題だよ」 此方を睨め付ける暗い目に苦笑する。 今日は随分と頑なだ。 「自分の手柄でもない素姓だけで偉ぶるようなのは屑です」 「……あんたそんなこと言って大丈夫なの。北条でしょ」 「氏政様は偉大なご先祖様の功績を誉れにしていますが、ご自身も名に相応しくあるべきと努力していらっしゃいますよ。大体この程度で憤るような人は図星なんでしょう。北条軍であってもク、」 「止めて待ってそれ以上言うの禁止!聞いてるこっちが怖いから!」 殆ど叫ぶような声を上げた猿飛は随分と青褪めている。 周囲に人がいないのは気配で分かるだろうに、橙色を振り乱して素早く周りを見渡した。 「これは失礼」 「やっぱ俺様あんた怖いわ……」 「とにかく私は忍びが賤しいなどとは思いませんね。所詮同じ穴の狢ですし」 「は?」 間の抜けた音の出所である猿飛に薄く笑う。 「実際やる事は大して変わりません。武士道だなんだと申しますが、戦場ではただの人殺しです。皆さんそうは仰らないだけで」 暗殺毒殺離間に諜報、結局のところ汚れ仕事を与えるのは主だ。忍びは求められて叶えるだけ。嫌な例えだが道具というのは存外分かりやすい。 実際に賤しいのは使う者の心根だろう。俺も含めて。 嘆息混じりの俺の言葉に、猿飛の暗い目が細まった。 「こりゃ驚いた。あんたはもう少し明るいとこで生きてるかと思ってたよ」 「心外です。私は十二分に明るい場所で生きておりますよ」 「どうだかね。全くおっかないこって」 猿飛は吐き捨てて、二の句が継げないとばかりに黙り込む。 ふて腐れたような仕草は大分年相応だ。 「話がずれましたね。私の考えなんてどうでも良いんです」 「……どうでも良いってこたないだろ」 「本題は別じゃありませんか。そうですね、折角なので時臣と呼んで下さい佐助殿」 「は?」 二度目。 不意打ちだったのか、ぽかんと開いた口は先刻よりも間抜けに見える。 「貴方だけに押し付けては不公平かなと。駄目ですか」 「駄目、とか、良いとかじゃないし……ってか敬称付いてるけど」 「亀の甲より」 「それはもういいから!」 「大事なことです」 「北条の爺さん曰く、だろ」 佐助は顰め面でふん、と鼻を鳴らした。 その双眸には"こんなのおかしい"、"気に入らない"と明白に書いてあった。 「時臣!これで満足!?」 「ええ、至極」 にこりと笑めば、むっすりした顔を向けられる。 「でもどう考えたっておかしいし普段は若獅子って呼んでやるから」 「おや。では蜜柑殿ですね」 「だーっもう、好きに呼べばぁ!?」 |