# 04 「負けを認め、直ぐさま兵を退くならば良しッ!」 「ま、まだ負けてはおらぬ!」 「ふむ、武士として潔く散るならばそれも良しッ!!」 「ヒィ!いや、しかし……っ」 喧騒の中を駆け抜ければまだ少し先、やはり本陣から聞こえる声。 此方の大将は婆裟羅者じゃない。由緒正しい北条の臣も誇りはあろうが、喧嘩を買う相手は選んで欲しいところだ。 そのまま陣へ駆け込んで、大将の前に飛び出す。 驚く北条方の将を庇うような立ち位置を維持しているのにも関わらず、敢えて其れを見過ごすのは明らかに故意だ。 威厳ある姿、そして余裕の溢れる立ち振る舞い。 重々しく、そのまま地に押さえ付けてくるような強烈な威圧感は父上の比では無い。 ごくりと唾を飲み込んだ。 これが甲斐の虎、武田信玄公。 だが……何故二頭の馬に仁王立ち……何故、其処に誰も何も言わないのか。 何も言わない、つまり何もおかしい事は無いからだ。つまりつまり、俺も気にしてはいけないのだ、きっと。 現(うつ)し世とは、難解な事ばかりで御座りますね。しかし現実逃避をしている暇もない。 居た堪れなくて静かに馬から降りると、馬上から視線が向けられる。続けて重い音を立てながら地に足を付けた信玄公がカッ!と目を見開いた。 「我が身を呈し大将を守るおぬしが忠心、まこと天晴れよ!」 余りに大きな声は身体の芯に轟き臓腑にまで響く心地だ。更に背後には炎まで見えた。 彼についてはその豪快な人柄までも聞き及んでいたけれど、実際に相対するとやはり圧倒される。 「……貴殿は武田の総大将、武田信玄公とお見受け致しました」 「儂が甲斐の虎と知りながら立ちはだかるか、その心意気や良しッ!若きよ、おぬしも名を名乗れい!」 「これは失礼を。私は北条氏政様が配下、神条晴臣が息、神条時臣と申します」 信玄公は見開いていた目をすっと細めた。 今までとは違う、ビリビリと肌を突き刺す圧力に包まれながら、臍に力を篭め、足を踏み締める。 いつでも刀を抜けるよう、重心を低く、軽く腰を落として柄に手をかけた。 「神条よ!そのおなごが如き細腕で以て、儂の相手をすると申すか!」 「はい。確かに私は元服したての青二才、我が身は未熟なれど、其れでも武士に御座います」 信玄公は楽しげに唇の端を吊り上げた。 俺に死ぬ気は無いが、信玄公には討ち死に覚悟くらいに見えているだろう。 元服したと言っても十やそこらの殆ど子供が、甲斐の虎相手に刀を抜こうというのだ。 背後で狼狽える北条方の将兵にすら馬鹿と思われるだろう。 死にたい訳じゃなくて、貴方達が逃げる時間を稼ぎたいんだよ! 「っ……!」 俺は急激に近付いてくる気配に警戒を強める。一人逃したか……と言う事は、かなりの手練れだ。 現れたのは茶よりも橙色といった風の鮮やかな髪に、迷彩柄の装束の、 「ちょっと大将!本気で馬乗ったままあの山って言うか殆ど崖みたいなとこ下っちゃったの!?」 「おお、佐助か」 「気付いたら本当に消えてるし俺様すっごく焦っちゃったんですけど!」 ……忍び?なのか、恐らく。派手だが。 取り敢えず見たことの無い風体だ。出身の郷で決められた装束だったりするのだろうか。 そして口調や態度振る舞いがかなり軽い。しかも良く喋る。 この信玄公、まさか影武者だったりして……いやいや。 「向こうの大将さっさとやっちゃえば良いんじゃないのって言ったの俺だけどさー!其処はあれでしょ?忍びがちゃちゃっと行ってくるもんでしょ!」 「それが出来そうに無かったゆえ儂がじゃな」 「だってこっちの忍びが次々消されるんだもの!酷いよアレ!」 なるほどコタロウは随分と良い仕事をしたらしい。 だが、わぁわぁと喚く橙色は、コタロウと対峙してこうして生きているのか。 無事だろうか、怪我は無いだろうか。 「いやー北条にあんな腕の良い忍びがいるとはね。上手いこと押し付けて来ちゃったけどー」 「片付けては来れなんだか」 「あんなのまともに相手にしてたら日が暮れちゃうよ!」 「左様な相手、佐助以外で持つのか?」 「……ま、時間くらいは稼いで貰わないとねー」 しかしまぁ、この忍びが此方に向ける笑顔の、なんと殺気溢れる事か。 「でさ、大将……なぁに、この餓鬼。邪魔なんでしょ?俺様が殺っちゃう?」 あの信玄公と向かい合っている時点で既に分が悪かったが、まぁこれこそ絶体絶命という奴なのだろうな、と人事のように思えるのはやはり正真正銘その通りだからなのだろう。 |