婆娑羅ゆめ | ナノ
 12

霧の中、周辺に残っていた敵兵をものの数歩で切り伏せた時臣は、二人の消えた先にある闇をじっと見つめていた。

黒い闇で出来た糸を仏の垂らす蜘蛛の糸になぞらえるなど、明智光秀とは実に悪趣味な男である。
愉しそうに獅子だ獣だと言っていた割に 最終的には蜘蛛にされた時臣は暫しの間、表情を消してぼんやり立ち竦んでいたが、仄かに唇を歪ませ小さく囁く。


ブラフだ、馬鹿め。


あの程度では気付かれてしまう事など、時臣は分かっていた。
自らも闇を持ち、瞳に理性の光を宿らせている内は冷静そうな光秀に向け、解りやすく繋いだ糸はただの囮なのだ。
本命は蘭丸……婆娑羅が闇では無く、また感情的で周りの見えていない、幼い子供に仕掛けられている。
其れはずっと精密で、繊細で、秘めやかで……巧妙に隠されながら、今も時臣に自らの居場所を教え続けているのだ。

時臣は漸く、この霧の中で闇を扱う要領を得ていた。気付いたのは、光秀の鎌に纏わり付く闇と比べた事で、霧の本質を見抜いた時。
闇の婆娑羅である以上、時臣の闇とも似た力である霧を、無理に拒絶して征服するには時臣側に出力が足りなかったのだ。
深く、重く、縋り付く闇。その存在を認め、許容し、僅かなーー殆ど無いに等しいーー隙間に己の闇を滑り込ませる。
一寸先の闇に自ら片足を突っ込んだような、身を乗り出して深淵を覗き込むような、今にも引き摺り込まれそうな賭けだ。

そして、時臣は賭けに勝った。

「そろそろ行くか……」

背に突き刺さる視線。
この付近の生き残り……狂乱の軍勢に下手に応戦せず落ち着いて立ち回っていた者、利口にも光秀や蘭丸から距離を取り様子を見ていた者たちだ。
冷静さがある分、さして取り乱している訳でも無いが、それでも抗えない恐怖が詰まっていた。時臣は恐怖の感情を向けられるのには慣れている。それも飽き飽きするほどにーーそんな時臣としては、騒ぎ立てていないだけでも十分だった。

「無尽蔵に兵が出て来る訳もありませんが、十分に警戒を。万一霧が晴れたら直ちに撤退を始めて下さい。義元公は必ずお助けします」
「神条殿。どうか義元様を御守り下さい……!」
「矮小の身なれど、退き口は死守してみせます!」

時臣は思いの外まともな返事が多かった事に一度目を丸くして「どちらにしても無理はしないように、退き際を心得よ」と告げてから足を踏み出す。
何も見えぬほどの霧の中、身体に纏わり付く闇を掻い潜るように時臣を導いた。篠突く雨はいつの間にか止んでいた。





「わざわざ弱っちい奴ら庇ったりして、バッカみてー!さっさと諦めろよな!」

随分と興奮したような声が聞こえる。此処だと確信した時臣が霧を擦り抜けると、幾らか開けた場所に出た。予想通りの面々が距離を置いて向かい合っている。
手傷を負った様子の女性を庇うように蘭丸、光秀が並び、向かいには今川義元と少し手前に小太郎、その後ろには数名の今川兵が光に囲まれ、地には両軍取り交ぜ十数人が伏せていた。
やけに遠くまで様子が分かった所で、妙に霧が薄いことに気付く。時臣は小太郎の風や義元の光の婆娑羅による影響であろうと目星を付ける。
分かっていた事だが、やはりこの霧は婆娑羅なのだ。このような広範囲に、このような強力な力を使う。つまり、まだ相当な力量を持つ婆娑羅者が控えている。

「誰!?」

パッと此方を振り向いた美しい女性が、息荒く声を上げる。手に持っているのは拳銃だ。
……拳銃!?
時臣は思わず二度見するが、気を取り直して義元と小太郎の側へ駆け寄る。

「小太郎、良く守った」
「……」
「若獅子!助太刀大儀でおじゃー!」

大袈裟に喜んで見せる義元の後ろでは、常は口元しか見えない小太郎までもが何処かホッとした顔をしている。
義元の元へ辿り着いたは良いものの、帰り路は閉ざされた。霧に阻まれ、更に敵が現れ。出来るのはここで戦線を維持し、総大将である義元を守るだけだったのだ。
小太郎は時臣の後ろ頭をじっと見つめた。熱っぽいものではない。兜に隠されどんな色をしているか到底伺えないが、信頼の滲む、澄んだ目だった。

「な、なんでアイツここにいるんだよ!光秀、お前ウソついたな!」
「お市殿の言では、闇を撒き終えた後は最早織田軍しか霧を通れない筈でしたが……さて」
「無視すんな!!」
「……これで振り出しに戻ったわね」

敵方は困惑に溢れているようだが、相手をする義理も無い。時臣を睨み付ける織田勢を他所に、時臣は横目で自らや今川兵を守る光を見やった。

「器用な事なさってますね、義元公」
「にょほ。若獅子のようにはいかぬがの……まるで曲芸ぞよ」
「そう簡単にモノにされても困りますよ。その曲芸、十年は続けているので」
「そちはほんに化け物じみてるでおじゃるなぁ」

軽口を叩きながらも、扇を持つ手には汗が滲んでいる。壁となっていた光は消しても、それまでに消耗した力は直ぐには戻らない。
時臣がそっと手を伸ばすと、深い濃紺色のような仄暗い光が宿った。ぼんやりと揺らめく指先が義元に触れ、ふわりと消える。
僅かに暖かい光は時臣の生命の輝きだ。息を落ち着かせた義元は目を丸くして時臣を見やってから、極自然に微笑んだ。

「今川忍びは奇襲で壊滅。得意の幻術も使えぬ……まさに八方塞がりよ。万事休す、かの」
「大敗であろうと、御身が無事であれば再起は難しくありません」
「この状態では撤退とて儘ならぬぞよ……若獅子が如何にして此処まで辿り着いたか知らぬが、生半可な芸当では無かろ?」

確かに、先ほどの時臣の所業をもう一度再現するには条件も何もかもが足りない。時臣は織田の婆娑羅者たちへ警戒を強めつつ、考えを巡らせた。

「……とは言っても、選択肢が少ないな」
「若獅子?」
「小太郎、周囲の霧を吹き飛ばせ。遠慮は要らん、お前の身は俺が守るゆえ、全力でやってくれ」

そっと囁くような声でも、小太郎は瞬時に姿を消した。気配は時臣の傍に在るままだ。音も立てず時臣の背後に陣取った小太郎を中心として、無色の風がゆるゆると渦巻く。

「……忍びが敵を呼んでくる前に、光秀はあの男をーー黒獅子を始末なさい」
「フフ……御夫婦揃って人使いの荒い…」
「濃姫様!蘭丸も行きます!」
「蘭丸くんは私と一緒に今川義元を討つのよ」
「はいっ!」

時臣の指示が聞こえずとも、不審な動きを見咎める事は出来る。小太郎が消えたことで増援を予感しただろう。涼しい顔で現れた時臣のせいで、既に霧の効力には信憑性が無くなっているのだ。
戦力に不安があったのか、それとも負傷による迷いか、それでも漸く強引に話を纏めたのは良いが、その時にはーー小太郎の身の内に、風が収束しきっていた。

「……!」

限界まで溜め込まれた婆娑羅が爆発し、炸裂する。
吹き荒れる暴風が霧を巻き込み、掻き回した。黒い霧が掻き乱され千切れゆく様はまるでか細い悲鳴のようだった。

「うわ!何だよこの風、目が、開けられなっ……!」
「蘭丸くん……こっちに……!」

風は霧との境界線をぶち壊しながら、竜巻のように渦を巻いて襲いかかる。女に抱えられているだけの幼い子供など、一度地面から足を離したら吹き飛ばされそうだ。

折り目正しいというか、規則正しいというべきか、些か人間味が無いくらい完璧な制御で練られた風ではあるが、其れによって巻き上がった葉や枝はただの自然の猛威だ。
時臣は闇の婆娑羅と己が身体で皆を後ろ手に庇いながら義元を流し見た。

「早に撤退を。私が殿軍を務めます」
「……何を言うでおじゃ……時臣もまろと共に逃げてたも!」
「勿論逃げます。しかしこれは敵に背後を向ける危険な戦なのです。甚大な被害が出ます」
「ゆえにならぬ!危険におじゃる!」
「道を私の力で塞ぎ、幾らか時間を稼ぎます。幾重にも重ねれば、婆裟羅者であろうと簡単には突破出来ない筈です」
「若獅子!」
「義元公。最善とは言わないが、何が次善か。貴方にはもう分かっている筈。俺より遙かに利口な頭なんですから」
「……」

未だ収まらぬ風の中、時臣は落ち着いた顔つきでそっと刀を掲げる。その黒い刀に、何かが弾かれた。

「話は纏まりましたか?」

ゆらり、風に揺らされて、白い死に神がニヤつきながら鎌を持ち上げている。

「小太郎、義元公を頼む」
「……」
「義元公を生かせば此方のもの。この局地戦じゃ勝ちの一手だ。俺の代わりはお前にしか任せられないよ。俺の風」
「……!」

逡巡するような動きを見せていた小太郎が、すっと跪き頭を垂れる。立ち上がった時には既に義元を抱えていた。
肩に担がれた形になって目を丸くする義元は顔を顰め、小太郎は無言で唇を噛み締めた。

「義元公!」

はっと顔を上げ慌てて時臣を見るが、もう後ろ姿しか見えない。だが、義元には何故かはっきりと分かった。時臣は笑顔で声を張り上げている。

「矢も弾も槍の切っ先も、鼠も糸屑も水滴の一粒すら、通しは致しません」

自信の篭った声色は力強く、剣戟の音が響く。二撃目を凌いだのだろう。

「日ノ本一、逃げやすい退却戦にして差し上げましょう!」

走る小太郎とは後ろ向きの義元の目の前が、混じり気ひとつ無い黒に染まった。



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