# 07 「ときおみ……ああ、おまえがあたらしき ししですね。うじやすのなに、どろをぬることのないように」 「そうやって過去を懐かしむのも結構ですが、今現在から目を離されれば掬われるのは貴方様の足許かと」 またしても苦無が飛んだ。足下に突き刺さる鋭い其れと、あまりに見え透いた殺気に、名前はうっそりと笑む。 一押しは大成功と言うわけだ。 「謙信さまに向かってそのような!この、無礼者が!!」 金色の髪をした忍の露出の多さに時臣は心の内で面食らう。お嬢さん、随分と刺激的な格好だが、身体を冷やしてしまうんじゃないかい? それ以前に……いやいや、関係ない関係ない。相手はそう、全く縁の無い女である。 余りの衝撃に半ば思考を飛ばしながら、それでも時臣は表情を変えない。それどころか笑みを深め、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。 「まあ……此方としては好都合ですので、お気になさらず」 「貴様!!」 「おちつきなさい、うつくしきつるぎ。ただのちょうはつです」 飛び出しかけた女の動きを、謙信は静かな声ひとつがピタリと止めさせた。予想はしていたので舌打ちすら出ない。 清廉な純白が、其れで終わりなのかとでも言うように時臣を見つめた。時臣はわざとらしく肩を竦める。 「流石に一筋縄ではいきませんね。残念です」 「おまえはおもいのほか しょうわるですね」 「私が思うに……皆さんが必要以上に正しすぎるんですよ、ねえ―――小太郎?」 「うわっ!!?」 「つるぎ、」 突風に煽られて主と離された忍びの側に現れた小太郎が矢継ぎ早に攻撃を加える。さしもの軍神とて、小太郎の速さに追いつくことは出来なかったようだ。 謙信の視線が己の従者を追う。僅かに出来た隙を目掛けて、時臣はすかさず距離を詰めた。 懐に飛び込む勢いのまま、振り抜いた刀は当たり前のように捌かれる。 それとて予測の内だ。一瞬たりとも動きを止めずに切り返した時臣の剣先が謙信の白い装束を掠める。 仄かに目を丸くした謙信の瞳が僅かながら愉しげな色を帯びたことに時臣は密かに安堵した。 「軍神殿。勝手ながらお相手仕ります」 「……そうですか。ならば、そうそう よそみはできませんね」 謙信は流した目線で遠く離れた己の忍を確認するが、両者の間でひたすらに瞬く剣閃は謙信をこの場へ押し留める。 「しんいのない ことばあそびはこのためですか、ときおみ」 「言葉遊びと言うには些か品がありませんでしたね、謝罪致しましょう」 「ふ……あやまることはありません。かたなにて、おまえのこころをみさだめましょう」 雲の上から声をかけられた心地だ。柔らかな言葉には、先ほどから殆ど変わらない涼しげな微笑みと、余裕と言うには慈愛に溢れた眼差しが付随している。 胸に沸き上がるのはけして苛立ちでは無いが、 何処かもどかしさには似ている。 信玄の放つ熱を帯びた威圧感とは全く別の、底冷えするような警戒感。 まるで敵うとは思えない。この刃がその身に届くとは思えないーーそんな思いを抱かせるのは、冷たい湖の如く静かな瞳。 脳裏に描かれた、薄氷の下で藻掻く愚かな己を振り払うように刀を振るう。素早い剣技に全て追い付かずとも良い。腕が間に合わずとも反応さえ出来れば、蠢く黒が剣先を拾い上げ、凍える縹色は闇色の霧が防ぐ。 一太刀入れようと思えば大仕事だが、そうでないなら其ほど難しいことでも無い。時臣の身体が出来上がった今となれば恐れることはなかった。 なにも、時臣が軍神に勝つ必要など無いのだから――― 「謙信様ーー!!武田がっ信濃に向け進軍をーーー!!」 「な、何だと……あいつらっ!?」 上杉兵を包むざわめきの中、小太郎の攻撃を捌くのに必死な女忍びが焦りと苛立ちを込めて叫ぶ。 「信玄公の準備が整ったようですね。貴方の本当のお相手がお呼びですよ……義理も十分に果たしたでしょう」 「こてさきの わざばかり。 きめてにかけるとは おもいましたが、やはりわざと……ときおみ……さいしょから、これがねらいでしたか」 まさか本当に攻めてくるとは思っていなかっただろうーー武田は西方の守りに手一杯……と偽の情報を掴まされ続けていたのだから。 ――甲斐に攻めこんだ軍は、今川忍による幻である。武田に向けていた軍勢を此方に寄越してしまったのが運の尽き。 今川もうずうずしていた事だろう。立ち往生している援軍の後ろから、武田に呼応する形で本隊の増援が向かってきている筈だ。 獅子亡き小田原を落とすにこれほど時間がかかるとも思わなかったのだろう。将はともかく雑兵の士気は既にガタガタ。大軍であるほどその統率は取りづらい。 「流石に軍神を相手にして、時間稼ぎ以上のことが出来るとは思いませんよ」 「おまえのほんきも、みてみたいものですが……そのきは なさそうですね」 「そうですね、それがお望みなら、私も川中島へお邪魔しましょうか」 「ふ……いじのはりあいは、やめておきましょう。しんげんがわたくしをまっているというのなら、こばむりゆうはありません」 きん、高い音を立てて刀が鞘に収まった。 事態を把握し攻勢を弱めた小太郎が時臣の側へ、対抗して女忍びも跳ねるように謙信の下へ戻る。 速やかに撤退の指示を出した謙信は去り際、相も変わらず静かに時臣を見つめた。 「ときおみ。おまえのいだくやみは おまえがおもうほど よこしまなるものではありませんよ」 ぴくり、側に控える小太郎しか分からないほど、小さく時臣の肩が跳ねた。声の出ない時臣に向けていることは確かだろう。視線はずっと重なっている。 ただ、まるで独り言のように聞こえるのはその姿に人ならざる神聖さを感じさせられるからか。 懐刀であるらしい女忍びも不思議そうに主の様子を窺っているが、その視線の先にいる謙信はそのまま続ける。 「おまえが、よくあろうとするきもちはとうときものですが。やみは すべてあしきものですか。 よるがやさしいとおもったことはありませんか」 「……貴方の目には何が映っているのでしょう」 「おまえももう、わかっているのでしょう。 ーーーおまえよりも、おまえのそばにあるもののほうが、よくわかっているようですね 」 御仏の化身を肯定するような笑みの余韻と共に、微かに白檀の薫りを残して。 「"刀にて、見定める"……か」 己の振るう刀に何を見たというのか。 きらり、引き抜けば輝く刃には、痛みを堪えるような面持ちの時臣だけが映っていた。 |