短編 | ナノ


もう三年も前に衝動買いしてしまった黒い椅子に腰掛けながらカタカタと規則的なキーボードの音だけをシンと冷ややかに静まったリビングに響かせていると、丁度enterキーをカタリと押したところでぐう、と腹の虫が鳴いた。
黒いキーボードから指を離し斜め上にある高校の卒業祝いに姉から貰った時計へと視線を向ける。時計の短針が12の文字を指し長針がそれを少し過ぎた頃で、もうそんなに時間が経ったのかと小さく溜め息を吐いた。

今日は朝からリビングとトイレを行き来して、パソコンに張り付いていた。それもこれも締め切り間近の仕事があるからで、何故今まで溜めていたのかと云うくらいに、面倒な仕事であった。
耳を澄ませば窓の外から蝉の鳴く声が聞こえ、季節はもう夏なのだと嫌と言うくらいにわかる。24時間365日エアコンを付け、引き込もってばかりな自分には季節など興味は無いのだが、用事で外に出る度じんわりと額に浮かぶ汗や、しっとりと湿る服が苦手だったりするので、夏はあまり好きではない。

「…腹減ったなあ。」

はて、最後に食事を何時だっただろうか?確か昼前に担当の者が差し入れをしてくれた気がしたのだが、何せ締め切りまで時間の無い仕事だった故に食事の時間を削りながら仕事をしていた。ああそうだ、担当の者が差し入れしてくれたお握りを二つと、淹れていたブラックコーヒーを胃に入れたのだ。
そこで漸く最後に何を食べたか思い出し一人で納得する。
担当の者は名を確か田中と云い、何処にでも有り触れた名字故に、覚えるのが難しかったような、難しくなかったような、そんな曖昧なことが思い浮かぶ。田中も今年で30だと言っており、5つも年下の翻訳家に振り回されて可哀相だな、早く結婚すればいいのに。なんて思ってもみないことを呟いてみるのだけれど、依然として空腹は満たされないのでこれ以上無駄に体力を消費するのは止めることにする。

椅子から重たい腰を上げ、ぐっと背伸びをするとこの年ではバキバキと聞きたくもないような重たい音が鳴り長時間同じ体勢でいるのはよくないな、と思いつつはあ、と深い溜め息を吐く。
基本的に冷蔵庫の中には食品は置かない性格であるし、此処はお世辞にも都心寄りの場所とは言えないため深夜のデリバリーも無ければ、コンビニだって付近には無い。ああ、どうしてこんなところに引っ越して来てしまったのだろうか。今更ながら後悔をする。いやまて、引っ越して来たと云うには少々語弊があるかもしれない。
自然豊かで川には水黽が居て、夏休みの醍醐味と言えば昆虫採集や山を探検であったり、幼稚園児は朝顔をペットボトルに入れ色水を作ったり、おやつは花の蜜であったり、回覧板を回すだけで随分と時間を食ったり、たまに見知らぬお年寄りからお菓子を貰ったり、ゲームなんて必要がなく、みんな真っ暗に日焼けしていたり、そんなのが当たり前であったこの田舎で、自身は生まれ育ったのだ。
中学1年生の頃、親の都合で都心に行かねばならなくなった時は随分と悲しんだ。大切な親友や友人と滅多に会えなくなり、暖かいこの土地から離れ敵ばかりの都心に行くと云うことは、思春期男子からしたら相当辛いことであった。特に自身はあまり社交的な性格ではなかったし、この小さな庭でしか生きたことがないので、酷く焦燥した。
実際に、新しい学校ではなかなか馴染めず浮いた存在になり、こんがりと焼けていた肌も白くなり慣れ親しんだ自身をよく理解してくれる仲間も居ないこの環境で、自身はすっかりと捻くれた性格になってしまった。
それから高校に進学し、幼い頃からの夢であった海外留学をし、向こうで大学も卒業し、留学経験を生かした仕事をするため日本に戻って、大好きだったこの場所に移り住み、もう二年。漸く仲間に会えると思っていれば、自身が住んでいた頃よりも自然はなくなり、マンションがちらほらと建ち、通った駄菓子屋も潰れ、なんだか違う場所に居るような気にもなった。

──プルルルルルッ

不意にリビングに鳴り響いた電子音にはっと意識を戻し携帯電話を開けば其処にはここ最近全くに連絡を取って居なかった親友である土井半助と云う文字が液晶画面に表示されていた。
どうしたのだろうかと首を傾げながらも通話ボタンを押し耳元に聞き口をあてる。

「もしもし。」
「ああ、良かった起きてたみたいだな。夜遅くに悪い。」
「いや、大丈夫。久しぶりだな。最近どうだった?」
「はは、普段通りだよ。ああ、きり丸がお前に会いたいと言っていたかな。」
「きり丸が?」
「ああ。最後に来たのはもう半年も前だ。」
「そんなにか?」
「そんなにだよ。」
「そうか、じゃあ仕事が終わったら会いに行くよ。」
「助かるよ。きり丸も喜ぶ。」
「なんてことないさ。俺も久しぶりにきり丸に会いたいし。」

そこで途切れた会話。
シンと冷たく静まりかえったリビングには電話口から聞こえる僅かな呼吸音と外で鳴く蝉の声だけが、唯一の音。

「あのさ、」
「なんだ?」
「…先生たちは元気か?」
「…ああ、元気だよ。乱太郎やしんべヱも元気だ。最近は山田先生の息子さんの利吉くんもよく学園に来るよ。おばちゃんの味も変わってない。」
「そうか、良かった。」

自然と緩んだ口元に手をあて、窓の外に視線を遣る。
マンションが建ち、コンビニが出来たりしていても、ここは田舎に変わりなく、この時間帯になれば街灯を除いた明かりなんて滅多に無いしあったとしてもそれは直ぐに消えてしまう。
変わったような町並みや人も、蓋を開ければ変わってなんていない。
あの暖かい場所も、少し怖い場所も、全て変わってなんかいなくて、変わっていたのは俺なのかもしれない。

「最近どうなんだ?仕事、捗ってるか?」
「今日が〆切で焦って終わらせていたところだよ。そっちこそ胃は大丈夫か?」
「はは、相変わらずだな。」
「まぁな。」

織り込まれた笑い。
あの頃のように憎まれ口を叩きながらも楽しく、自然にするすると喉を通る音。

「まだまだ子供なんだよ、俺だって。」
「もう25だぞ?」
「男って云うのは死ぬまで子供なんだよ。純粋な少年の心を捨てきれない。学園長がいい例さ。」
「はは、納得だな。」

少しばかり、いや、かなり子供っぽい自身等の恩師を思い浮かべ、今度こそ声を上げて笑う。
ああ、こんなに大きな声を上げて笑ったのは何時ぶりだろうか?

「今さ、フランスの童話を翻訳してんだ。」
「…へえ、お前が。」
「俺が童話してたら変かよ。」
「いや、お前はどちらかと言えば童話よりも哲学的なことを翻訳してる方がイメージしやすいから。」
「俺だってまだ純粋な少年なんだよばーか。」
「そう云うところは変わらないな。」
「…ああ。変わらないよ。」

電話口の向こうにいる彼奴がどんな表情をしているのか、どんな気持ちなのか。そんなことは皆目見当も付かないけれど、ただ今この瞬間が昔のように暖かく眩しい。
本当は多分もう純粋なんかじゃない。汚いこともわかって、綺麗なことだけじゃ生きてなんて行けない。昔のようなままじゃ生きてなんて行けない。
けれど、今この瞬間一つ一つを大切に過ごしていれば、あの頃のように綺麗な思い出を作ることだって出来るような気がする。

物語の主人公は一人。
しかし、それは本から見た主人公。あの世界に主人公なんて存在しない。一人一人が主人公で、一人一人が大切な存在なんだ。
誰か一人でも欠けてしまったら物語は進まない。
一人一人が大切な螺で、螺が足りなければ歯車は動かない。世界が歯車であり、その他は皆螺。平等な存在。平等に重役を任されている。

「本が出来たら、最初に読ませてやるから。」
「私にか?」
「お前ときり丸。あと乱太郎としんべヱ。」
「喜ぶよ。」
「俺が選んだ童話だ。喜ばない筈がない。」
「大した自信だな。」
「昔からだろ?」
「…ああ。」

嬉しそうに笑う声が電話口から耳に入る。こんなに自信を持つのはあの頃以来か。何処か懐かしくて恥ずかしい、けれど、とても暖かい。

「半助、ありがとう。」
「なにがだ?」
「なんでもねぇよ。」
「はは、そうか。」



いつだって童話は子供の為にある



コイツとだけは、ずっと親友でいたいなんて、らしくないことを願ってみる。






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