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 翌朝、冷たい空気に目を覚ます。シャワーを浴び、支度をして外に出ると、フェンリルさんがロビーの椅子に座っていた。目を閉じている、眠っているのかもしれない。
足音を立てないようにそっと彼に近寄った。
「――ん」
 長い睫が揺れ、群青の瞳が見えた。私は慌てて離れぺこりと一礼する。
「おはようございます」
「ああ、お早う。少し眠っていたようだ」
 その言葉とは裏腹に、少しも眠そうなそぶりを見せず、彼はすっと立ち上がった。長い前髪が、さらりと揺れる。
「フレイムとエコーの宿に行こう。あいつらも起こして朝食だ」
先に立って歩きながらフェンリルさんが言う。
夜のフルスとは違い、朝の怜悧な空気が肌に触れる。心地いいと感じるようになったという事は、私も寒さに慣れて来たのだろうか。
二人の泊まっていた宿に入ると、頭を抱えるエコーさんと、あきれ顔のフレイムさんがロビーに立っていた。
「お前、本当にさ、自覚ってもんが無いのかよ」
「いってて、だってさーテンション上がっちゃって……あ、イリスちゃんおはよう!」
 ひらひらと手を振るエコーさんに私は会釈した。フェンリルさんが進み出て、エコーさんを睨み付ける。
「まったく、お前って奴は……一度きっちり灸を据えねばならないか」
「いややめて勘弁して!」
「……仕方ない奴だ」
 フェンリルさんがエコーさんと話し始めると、フレイムさんが私の方に来て、済まないなと苦笑する。
「昨日はよく眠れたか?」
「はい。フレイムさんは?」
「俺もまあまあだ。何もなかったならよかった」
 フレイムさんは安心したように微笑む。私も微笑み返した。
 私たちはそのまま宿の食堂で朝食を摂り――決して不味くはないのだが残念かな美味とも言えなかった――お腹を満たし、ついに雪山、トゥルム雪山に向かった。
 フリッシュに近づくにつれて、どんどんと寒気が増してくる。トゥルム雪山が入口になっているらしく、その門を潜った瞬間にびゅうと吹雪が吹き付けてきた。バオアーにいた時の寒さとは比べ物にならない冷気が身体を包み込む。
 生まれて初めて見る雪は、白く冷たく凶暴で、しかし手に触れるとすぐに溶ける儚さも併せ持っていた。風に乗って吹き付ける雪は、私たちのコートを即座に白で彩っていく。
「す、ごい……」
 自然とは、かくも恐ろしく、そして美しい。私がその場に立ち尽くしているとフレイムさんが叫んだ。
「イリス! 行くぞ!」
「――はい!」
 私は慣れない雪道をざくりざくりと歩いて行く。フレイムさん、エコーさん、フェンリルさんが代わる代わる私の手を握って歩いてくれたおかげで道に迷わず済んだ。
 吹雪のせいで視界がかなり悪く、手を放すと何処に行けばいいかわからなくなりそうだ。
睫毛が凍ってしまったのか、瞬きするのすら重みを感じる。寒いという感覚よりもずっと、痛いという感覚の方が近くなってきた。
 その時、影が動いた。驚いてエコーさんの手を引く。
「どした?」
「あの、あそこ、何か動きました……」
「え?」
 木々をかき分けて出て来たのは、数匹の灰色の体毛のオオカミのような生き物だった。凶暴な光を赤い目に宿し、低いうなり声を上げている。
「きゃ、」
「スノーウルフ……! イリスちゃん、こっち!」
 エコーさんに手を引かれ、私はもたつきながら後ろに下がる。
 フレイムさんが剣を抜こうとするのを、フェンリルさんが片手で制した。
「いや、フレイム、待ってくれ」
「なに?」
「俺が話を付ける」
 そう言うと、フェンリルさんはスノーウルフたちの前に進み出た。そして、ただ、じっと彼らの目を見つめる。唸り声を上げているウルフたちは、少しの間フェンリルさんを見ていたが、お互いに顔を見合わせると背を向けて去っていった。
 緊迫した空気が溶けると、フェンリルさんがふうと一つ溜息を吐いた。
「普段は大人しい奴らなんだが」
「フェンリルさん、動物とお話が出来るんですか……!」
「ああ、まあな。幼い頃からこの国に住んでいるから、ここは庭みたいなものだ。言葉を交わせこそしないが、気持ちは伝わっていると思っている」
 確か、エントさんも同じようなことを言っていた。森で育てば草花を知り、山で育てば動物を知る。
 私は今まで、何を知って来ただろう。小さな家の中に閉じ込められて、異形の子として罵られ、砂漠の暑さも知らず。教会で世界の全ては大精霊様のお恵みと教わり、享受にかまけ、温かな布団で眠って。
 私はこれまで、何一つ自分で知ろうと思わなかった。
 フレイムさんの手をぎゅっと握る。彼は何も言わず、ただその手を握り返してくれた。
「ちょっと待て」
 フェンリルさんの声が吹雪をかき分け聞こえて来た。目を上げると、そこには森があった。なんだか、其れは酷く――そう、不自然に。
「……イリス、動くな」
 フレイムさんの声は緊張の色をはらんでいる。私は慌てて、彼の後ろに隠れた。
 ――ああ、まただ。また私は何もできない。
 不意に、木々が騒めき出した。いや、動いたのだ。
「な、何、あれっ……!」
 枝葉は手足のようにしなり、幹からは先刻のスノーウルフと同じ赤い目が爛々と光を放っている。
「スノートレント……でかいな。最近はあんな大きさが主流なのか?」
「いや、残念ながら俺も初めてお目にかかる」
 フレイムさんの言葉にフェンリルさんが返す。スノートレント、というのか、あれは。
「あれもモンスターなんですか」
「ああ。トゥルム雪山のモンスターは、普段はあまり人を襲わないはずなんだけどな」
「ここは俺とフレイムでやる。使えない弓使いは下がっていろ」
「解ってるよ、いちいち言うなッて! 今回はイリスちゃん守護隊長として頑張るからいいの!」
 エコーさんが私の手を引いた。振り返ると、いつもと変わらない笑顔がある。
「イリスちゃん、もっと下がって。俺様があっためてあげるからねー」
「えっ」
 くいっと腕を引かれ、また彼の腕の中に収まる。長いブラウンの髪が鼻先をかすめた。
「ここは弓じゃあちょっと不利だからね。奴らに任せておけば大丈夫だから、イリスちゃんは俺と居よう?」
 エコーさんは誇らしげな笑みを湛え、二人の後ろ姿を見ている。その笑顔が、本当に信頼する仲間に向けるそれだと気が付いたのは、彼らが剣を抜いたその時だった。
 フェンリルさんは細く鋭いそれ。フレイムさんはいつものあの大きな剣。二人が構えると、空気が変わったようにすら感じた。冷気の中に混ざる熱。それは、間違いなく彼らから発せられている。
「エコー、イリスを頼む」
「任せて」
 言うや否や、二人が走り出した。雪の上だなんてとても思えない身軽さで、トレントが巨体をゆすりながら放つ雪玉を避けて行く。落ちたそれは、人の頭くらいの大きさに見えた。当たったらひとたまりもないだろう。
 フェンリルさんの正面に投げつけられたそれを、彼は軽々と一刀両断して見せた。
「あれも相当硬いのに、さっすがー。当たったら痛いだろうなー」
 まるで心配などしていない口調でエコーさんは言う。あの細身の剣にそんな強度があるだなんて、とても信じられない。
「はッ」
 フェンリルさんはトレントに剣先が届きそうな距離まで来ると、真白の大地を蹴って、天高く跳躍した。そのまま雪玉を作っている枝先を一度に4,5本切り落とし、手を失ったトレントは地面を揺るがす悲鳴ににも似た奇声を上げた。
 フレイムさんは、下にいた。フェンリルさんに気を取られているトレントの巨体を、大剣で切り付けた。ど、という鈍い音がして、剣が弾かれる。
「っく、硬いな……ッ」
 トレントは、二人との距離が近いと解ると、攻撃のパターンを変えたように見えた。太い枝を振り回し、とてもじゃないが近づけそうにない。
「フレイム、斬れそうか?」
「いや、厳しいな」
 先程より激しく暴れまわるトレントに、二人は連撃を繰り返す。しかし、まったく堪える様子はなかった。
はらはらしていると、フェンリルさんとフレイムさんがいったん引いた。
「っち、埒が明かん。……フレイム」
「やるしかないか……」
 何をするつもりなのだろう。彼らは目くばせすると、トレントから距離を取ったまま叫んだ。
「エコー!」
 フェンリルさんの声だ。エコーさんは手を一度振り、ふっと後ろを振り返った。
「イリスちゃん! こっち見て、熊がいるッ!」
「えっ?!」
 トレントの次は熊……! 私は慌てて後ろを見た。だが、そこには何もいない。辺りを見回しても、ただ白が広がっているだけ。足跡もない。私たち以外の人もいない。
「エコーさん、熊、いないですけど、」
 瞬間、背後からすさまじい轟音が響いた。爆発音にも似たそれに、私は驚いて振り返った。
 立ち込める煙が二人のいた場所を包み込んでいて、何が起こったのか把握することが出来ない。混乱する私に、エコーさんが声を掛ける。
「いこ、イリスちゃん」
「行こうって、あの、熊は……」
「ん? ああ、あれ、もう大丈夫。俺の見間違いだったみたい。二人と合流しよ」
 にこにこと笑うエコーさんに手を引かれ、思考が全くまとまらない儘に歩き出した。煙は雪風に吹かれ、徐々に晴れて行く。見えたのは、今まで戦っていたトレントが真っ二つに切断され、その前に立っている二人の無事な姿だった。
「よ! おっつかれさまー!」
「ああ、手間取って悪いな。フェンリルも、動かせて申し訳ない」
「フレイムのフォローがあってこそ、この速さで片付いたんだ。これがそこのボンクラだったら、もっと長引いていただろうよ」
「ちょっ酷くない?! イリスちゃんの護衛としての仕事は果たしたっしょ?!」
「へらへら笑ってただけだろうが」
「フェンリルはいっつも俺のこと馬鹿にしてー!」
 最早定例になりつつある喧嘩を始めた二人に溜息を吐いて、フレイムさんが私の方を向いた。その頬には一筋の切り傷。赤の血が伝っていた。
「大丈夫か、イリス。怪我してないか?」
「私は大丈夫です、フレイムさんこそっ」
「俺は大丈夫だ。お前が無事ならよかった」
 フレイムさんは笑ってくれたが、その表情には疲れが滲む。後ろに見えるトレントの体には、何故か焼け焦げたような跡が残っていた。
「これ……」
「その痕が気になるのか」
 さっきまでエコーさんと話していたフェンリルさんがいつのまにか隣に来ていた。私は頷いた。
「イリスも知っていると思うが、フレイムは力技が得意な剣士だ。斬る時に擦れて熱が発生したんだろう」
「でも、凄すぎます……音も大きかったし、吃驚して……」
 もっと近くで見てみたい。そう思って前に進もうとすると、エコーさんがひょいと顔を出した。
「俺だってこの位できるって。今度二人っきりになったら見せてあげるからねー?」
「お前では無理だ」
 また言い争いを始めそうな二人を制し、フレイムさんが私の背を押した。
「そこまで。思わぬ時間を食った、先を急ごう」
「正論だ。下らないおしゃべりに費やす時間は無い」
「てっめ……自分の事棚に上げやがって。いつかその前髪切り落としてぱっつんにしてやるかんな……!」
 そしてまた、私たちは歩き始めた。振り返るも、トレントの死骸は雪に隠れて見えなくなっている。疑問は残るが、気にしてもしょうがない。この場は凌いだのだ。
 私は頭の靄をかき消して、次の足場の確保に神経を集中させることにした。


 
Flish Episode3
【Sneak attack】






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