ふらふらと生気の抜けた足取りでエレベーターに乗り込み、半自動的に行く先のボタンを押して、3号室に向かう。ノックもせずに部屋の中に倒れこむようにドアを開けて彼女の姿を探す。

「…あれ、なまえじゃん。どした?」

聞こえるべきでない予想を裏切った声が耳に届く。訝しげに顔を上げると、風呂にでも行く最中だったのだろうか服を脱ぎかけのやけに人よりも黒い肌の色が目に飛び込んできた。状況を理解できずに、目をパチパチと瞬かせ、掴みっ放しのドアノブを危うく離しかける。…部屋、間違えた?


「ししし、失礼しましたっ!」
バタン!と大きな音を立てて後ずさるように部屋を後にして閉まった扉の冷たい感触を額に感じて途方も無い後悔が全身を包む。ふう、と深呼吸をして、さっきの勢いを取り戻してUターン、行き止まりでない方の道へ駆け出した。何で間違えたんだよおおおおお自分!
今度こそ正しいであろう部屋の前にたどり着いて、さっきとは違いコンコンと戸を叩いて返事が来るのを待つ。

「はい、ただいま…ってなまえ?」
「野ーばらーあ」

ぐでーんと酔っぱらいが絡んでいるような態勢で愚図りながら彼女に抱きつく。宥めるように私を引き剥がして今日おかしいわよとソファを勧めた。お言葉に甘えて上質なソファにダイブすると大体気持ちも落ち着いて、予め準備されていたらしい紅茶のカップに手をつける。

「今日のなまえおかしいわよ、ドアはノックするし…」
ベタベタするのはいつものことだったかしらねと嘆息する姿に頬を膨らませる。ドアをノックして何が悪いんだ、そりゃいつもはしないけどさ!

「そうだよ!聞いてよ!ていうか野ばら部屋変わったでしょ!」
「ああ、そういえば前になまえが来たときにはまだあっちだったかも」

「おかげで部屋に駆け込んだら間違えたんだよ!反ノ塚さんと…」

なるほどね、と納得した様子だったのでそれ以上の説明は省いた。紅茶を啜る姿はやけに上品でその容姿にも見合っているのだけど、彼女は例えその中身が炭酸飲料だったとしても同じ顔をして飲むのだろうから何となく寂しい(そんな彼女に言わせれば不健康そうな飲み物を飲むかどうかはいささか疑問だが)。

「反ノ塚は別にそんなこと気にしないわよ」
「私が気にするの!あんまり面識ないんだからさ」

あっそ、とどうでも良さ気にそこで話題を切り上げてさっさと飲み終えてしまったティーカップを机に置いて窓のほうに歩いていく。体操すわりでその様子を目だけで追い、ベランダに出たところで私も立ち上がって後ろについた。

「そういえば私此処のベランダ出るの始めてかも」
「…夜に来ることは少ないものね」
「今日泊まってって良い?」
「仕方ないわね」

苦笑する横顔が綺麗で、さも月でも見上げているようなフリで彼女を盗み見た。スーツ姿とは打って変わって、それに比べると露出のあるラフな格好から覗く張りのある白い肌は、隙の無い美しさを醸し出している。女の私が見惚れるくらいに野ばらは綺麗なのに、女の子に興味があって自分に頓着しない姿はいつ見ても勿体無いと思ってしまう。着飾らない、頓着しないからこその美しさがそこに存在しているのかもしれないが。

「風邪引くわよ」
「もうちょっといる」

遠回しに部屋の中に入るのを勧めてくれたのが分かったけど、駄々を捏ねるように反抗する。もう少しここにいたいのだと。呆れたように目尻を下げても、仕方ないなんて愚痴りながらも、それでも私の我が儘を許してくれる彼女がいるから、私は此処に来るのをやめられない。きっぱりサバサバした性格に見えるのに本当は野ばらが押しに弱いのを知っている。


「また失恋でもしたの」
「んー、まあね」何で分かったのって言うと調子に乗るから言ってやらない。それに此処に来るときは大抵そうだって自覚しているくらいだから。

「懲りないわねえ、アンタも」

全くもってその通りである。仰るとおり。降参の意を示すように噤んだ口の端から息を少しだけ吐き出す。
恋多き女と彼女は私を称したけど、私から言わせて貰えば彼女なんて逆に恋無き女だといってやりたい。女の子は恋をして可愛くなるというけれど、彼女は恋をしないくせに恋ばかりしている私よりも可愛いんだから、世の中という奴は不公平に出来ているし、神様という奴に不満をぶつけずにいられない。


「野ばらはそういうの無いよね」
学生の頃から、ずっと。
昔話をする気は無いのでそこは飲み込んだ。

「そうねえ」

遠くを見るような目つきは私との距離を感じさせるから嫌いだ。ふい、と顔を背けて欠けはじめる一歩手前の月を睨む。

「女の子が好きってワケでもないんでしょ?」
「いえ、大好物だけど」

即答ですか。くすっと笑って、すぐにまた表情を戻す。
野ばらの女の子(女体)好きは後天性のものだ。中学校のときはどこか澄ましていて、何にも興味を持たないような、そんな大人しい子だった。こんな風になったのがいつだったか、もう覚えていないけど、メゾンド章樫に入った後だと思う。私への態度は変わらないけれど、野ばらは変わった。明るくなったような、生き生きしているような。変わる前の野ばらも、変わった後の野ばらも変わらず好きだけれど、彼女を変えたのはきっと恋の力だと思う。それは決して私が恋愛至上主義だからではなく。でも恋を知っているから、彼女の変化が恋によるものだと分かる。誰が彼女を変えたのかすごく興味があるけれど、私はまだずっとそれを聞けずにいる。
くしゅん、と小さくくしゃみをする。やっぱり薄着過ぎたかもしれない。

「入ろっか、寒い。風邪引く」
「だから言ったのに」

私の愚痴が終わって睡魔が襲ってきたのは、野ばらのルーチンを大幅に過ぎた日付を越えて短針が二と三の間を指した頃だった。