少年Mの苦悩


「今日から臨時で数学を教えることになりました。苗字名前です、よろしくね!」


にこりとやけに懐かし味を帯びた笑みを浮かべて、その臨時教師の苗字先生は黒板に自分の字を書いた。女の人の文字って感じで、綺麗な字だ。

そのときは誰かと先生が重なって見えた気がしたけれど、僕は「気のせいだろう」とすぐに頭からその人物をかき消す。

近所のお姉さんで、僕の初恋だった人。

名前姉さんはヒーロー好きで、大学を出た後にヒーローになったらしい。よく家にお邪魔してはヒーローのフィギュアで遊んだり、録画したヒーロー特番をスナック菓子を食べながらソファに寄りかかって一緒に見たり。

僕が中学に上がると同時に東京に引っ越してしまったらしい名前姉さんとの音沙汰はあれからなかったが、もしかしたら……なんて、そんな漫画みたいな偶然あるわけないよなあ。

でも名前っていう名前は一緒だ、でも苗字が違う。……やっぱり、別人だよなあ。そうは思ってもやはりどことなく雰囲気が懐かしくて、僕はやや首を傾げながら皆が質問していく中で、終始ずっと1人考えていた。

あの頃と同じ、玲瓏たる声。
緊張しているのか分からないけど、緊張すると顎を頻繁に触るという名前姉さんと同じ癖。

……結構共通点はあるんだけどなあ、あっそれとも結婚したのかな……なんか、やだなあ。でもチラリと盗み見た薬指に指輪はない。いや外してる可能性もあるし……やっぱり、違う人なのかな。

確証が持てない中、苗字先生は皆の勢いに戸惑ったような苦笑いで皆の質問に答えた後、授業を開始した。結局、悶々とそのことばかりを考えているせいで授業が耳に入ってこなかった。



「おい緑谷! 臨時の苗字先生、すっげえ美人だったよな!? しかも胸でかいし!」
「ちょっ峰田くん……!」


苗字先生が「じゃあねえー」と手を振って教室から去った後、すぐに峰田くんからのいつものお喋りが始まった。

ちょっ、本当にやめて……! 女子が、女子が睨んでるから! 気づいて峰田くん!!

「まぁでも……」まあ胸についてはノーコメントだけれど、峰田くんの"すっげえ美人"には大いに賛同する。「先生、きれいな人だったね」

そしてまた「名前姉さんがもっと成長するとあんな感じなのかな……」なんて考えてしまう。……っていうかあれ? 僕今日苗字先生のことしか考えてないぞ!? きっ気をつけないとな……次はヒーロー基礎学だから……。


「緑谷またブツブツ言ってんぞ」
「いつもの事でしょ」
「もはや芸だろ」



結局ヒーロー基礎学ではいつもの実力を出し切れず、さらに"個性"の調節がうまくいかなくて右腕が粉砕してしまった。結構簡単に言うけど、はっきり言って死ぬほど痛い。

そして僕は腕が折れたな、と分かった瞬間に意識を失って倒れた。それからの事は記憶にない。

こうして目覚めたら保健室の天井が見えて、ああまたリカバリーガールにお世話になっちゃったんだ……って溜め息を吐いた。きっとまた怒られると言うか絶対怒られる。僕のためだってことくらいは分かってる……分かってるんだけど……。

包帯がぐるぐる巻きにされた右腕はもう傷が完全に治っている。手のひらをぐっぱーぐっぱーと開いて確認しても、痛くないしちゃんと動く。やっぱリカバリーガールってすごい……!

とりあえず起きたことをリカバリーガールに知らせるためにベッドから降りて側に置いてあったスニーカーを履く。そして閉まりきって隔離されたような雰囲気のカーテンを開けると同時に、視界が肌色に染まった。ガチンと頭同士がぶつかる3秒前で何とか後ろに上体を逸らし、右足一歩後ろに下がる。

「あっ!」玲瓏な声が、シンとした保健室には良く響いた。その驚いたような様子に、もしかして本当に名前姉さんなのか? と一瞬期待するも「リカバリーガールから言われてね、ちょっと席外すからって。ベッドにいる患者を見てろって言われたの、様子を見に来たんだけど……もう起きたんだね!」と笑う彼女に隠れて溜め息を吐いた。


「もう腕は動くの? 大丈夫?」


包帯ぐるぐる巻きにされてるけど……、と言って僕の包帯によって膨張した右腕を見つめながら苦笑いする彼女。


「はい、リカバリーガールのおかげで……」
「そっかあ、よかった! リカバリーガール先生は本当に凄いよね、ちょっとした怪我じゃなくても骨折も治癒出来てしまうんですもの! 先生が誰かを治すところを見るたびに、ああ私も回復みたいな個性が良かったなあって毎回思っちゃうの。まあどのヒーローにもそうなんだけどね!!」
「……は、はあ」


このマシンガントーク。


「あっ……ご、ごめんね私昔からヒーローが大好きで、興奮するとついつい饒舌になっちゃうの……」


やっぱり名前姉さんだ、賭けてもいい!

名前姉さんの部屋で2人で饒舌に語っていたあの頃が、今の苗字先生と重なったのだ。何故苗字が違うのかは、きっと結婚したんだろう。まあ20代だし当たり前といえば当たり前何だけれど、初恋の人が結婚したって聞いたときはきっと素直に喜べないものだろう。

だって、その時点で失恋が確定したんだから。

心の中で自虐に笑って、僕は意を決して「名前姉さん!」と確認の意味を込めて呼んでみた。すると一瞬驚いたような表情で「え……」と面喰らう苗字先生。


「私に生き別れの弟がいたの……!?」
「……ぷっあはは!! やっぱり名前姉さんだね。そのボケ、昔初めて"名前姉さん"って呼んだ時にも聞いたよ?」
「お、覚えてるのね……」


まあ、久しぶりだよねえ。すごく。

あははーと照れたように笑う苗字先生……名前姉さんの笑顔は昔と何ら変わりないもので、この笑顔は当時自分にしか向けられない笑顔だと錯覚していたんだ。でも今はちゃんと現実を見てる。だって彼女の中には心に決めた人がもういるんだ……。

涙が込み上げそうになった。ツーンとした鼻をぐっと抑えて、僕と名前姉さんは一旦カーテンの中から出ることにした。


「出久くん、いつから私のこと"名前姉さん"だって確信してたの?」
「まあ、初めから思ってたよ」
「うっそすごいね記憶力! 私は一発じゃ分かんなかったよー、というか生徒皆の名前とか顔をとりあえず覚えるのに必死で……あはは」
「……でも」
「でも?」


「苗字変わってから分からなかった」今の僕は泣いてないかな、目が潤んでないかな、どんな表情を……してるんだろうか。自分でも分からなかった。「結婚したんだね、おめでとう」

なんで祝福の言葉が出たのか。


「……結婚?」
「うん、だって苗字違うじゃん。前は館下だったよね。相手はどんな人? 姉さんは今ヒーローやってるんでしょ? やっぱ、相手もヒーローなの? 有名?」
「え、おいおいちょっと待って……? ストップストップ、一旦整理しよう!」
「ん?」


多分何故この話題で途端に饒舌になれたのかは、どこか自分でちゃんと分かっていた。きっと何かをずっと話していなきゃ泣いてしまうからだ。


「まず、大前提として……私は独身だよ?」
「……え?」
「苗字が変わったのは、親が離婚したから。さすがにまだこの年では結婚しないかなぁー」
「…………え?」
「勘違いしちゃった? あはは、ごめんねえややこしくて。つか旧姓覚えてたんだ」
「…………」


なんもいえねえ。

え、え、え!? ってことは、名前姉さんが結婚してたって言うのは、ただの僕の思い込みで実際は独身であって……まだ結婚する気はない……両親が離婚したせいで苗字が変わって……えっ離婚!?

まあつまり、全部僕の勘違い?


「……穴があったら入りたい」
「あはは、まあまあ勘違いは誰にだってあるさ。と言うか出久くん私に結婚してて欲しかったの?」
「そんなわけ!!」
「……え、何で?」
「…………あー、あの」


ボロだしたああ!!

これでも初恋を抱いてから5〜6年間ずっと隠し通してきたのに、今になってボロが出た! くそ、油断した!! 僕のバカ!!

こんなこと言ったら名前姉さんだって困るに決まってる、というかこれほぼ告白じゃ……!?


「……えーと、つまり告白って捉えていい?」
「うっうん!!(うおおおあああ何素直に答えてんの僕ううううもうやめてえええこれ以上悲劇を塗り重ねないでええ)」


僕の内心がとてつもなく荒ぶる中(顔だけは真剣)、名前姉さんはうーんと暫く唸った後で、にこりと笑った。


「告白なら私、ちゃんとしたのが聞きたいな」
「……はえ?」
「ほらほら、好きっていいなよ!」
「それ漫画!!」
「ほらほら、カモン! セイ!」
「う、あううああ(マイク先生か!)」
「逆だと思う」


やっぱまだ出久くんに告白は無理かー、なんて言いたげな表情でツッコむ名前姉さんに「あ……」って思った。

ここで言わなきゃだめだ。

ここで言わなきゃ、次いつこんな放課後2人きりで、密室で、他に誰もいない絶好の告白チャンスなんてきっともう訪れないかもしれない!!


「え、と……あの、ですね」


変な汗がだらだら垂れる。思わずぎゅっと拳を握ると、いかに自分が手汗をかいていたのかを思い知る。でももうだめだ、覚悟決めろ僕。


「名前姉さん!!」
「は、はい!」
「……き、です!」
「え? 聞こえな……」
「うあああの、好きです!」


もう、吹っ切れた。


「小さい頃から好きでした、気持ち悪いって思うかもしれないけど、高校で先生と生徒で会えたのも『運命だ』って舞い上がった……! 名前さんに、その気がないのは百も承知です」


なので……潔くフッてください。

多分、名前さんと話してて1番いい笑顔ができた気がする。笑えてなかったかもしれない、けれど……笑えてるって信じて。


「……困ったなあ」
「や、やっぱり……」
「いやね? フるっていうか……まあ自分から「告白して!」って言っといてアレなんだけど、教師の私が生徒の君と付き合ってるばれたらクビ飛ぶんだよねえ」
「……あ」


そうだった、僕、名前さんの事情も考えずに……!!


反射的に謝ろうとしたけど、それは名前さんに「すぐ謝るの、昔から癖だよね」と微笑まれて静止させられた。

「だからまあつまりね……卒業して、私が『かっこいい!』って思うようなヒーローになったら付き合おう。在校中はさすがに無理だからね」
「…………!!」


その後、名前さんはぽかんと口を開けて真っ赤になって立ちすくむ僕の頬にキスをして、最後にいたずらが成功して嬉しい子供のような顔をして笑った。

バッと頬に目をやって、再び視線を彼女に戻すと、彼女は「在校中、他に気になる女の子つくんないでよー。この学校可愛い子多いから」とニヤニヤ笑う。


「そっそんなわけ!!」
「……ないんだ、そっか。あはは」
「〜っ」


いつの間に優しい天使だった名前さんは、小悪魔になってしまったんだろう?


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