【同人誌サンプル】旅路は野薔薇に彩られ




<サンプル1>
 Chapter. 1「ファースト・エイド」

    ◆

 サンランド地方北東部に広がる砂礫の地に、強い風が吹きすさぶ。
 夜明け前の薄明かりの下、慣れない砂地に足を取られながら歩くのは二人の旅人。そのうち前を歩くのは薬師のアーフェンだ。彼は今、必死になって前方に広がる山脈を目指していた。
 後ろを歩く、もうひとりの仲間の存在を気に留めながら。
(……すげぇ、ハードな出会いだったよな)
 共に砂地を黙々と歩いているのは踊子プリムロゼ。アーフェンがリバーランド地方を出て最初に辿り着いた町、砂漠の歓楽街サンシェイドで出会った女性だ。
 砂風に舞う豊かな鳶色の髪、エメラルドグリーンの瞳煌く整った顔立ちに、身に纏う真紅の薔薇のような衣装と、どこからどう見ても『美しい』というより外にない――そして、まさか自分のような人間が旅路を共にするとは思えない――そういう人だった。
 だが、そんな見た目の美しさとは裏腹に、彼女との出会い、そして彼女の背負った運命は苛烈なものだった。
 父を殺された復讐の為に、プリムロゼは八年間踊子に身をやつしていたのだという。“支配人”とやらから日々浴びせられる屈辱に耐えてまで。仇の男が酒場に訪れる機会を掴み、その身に短剣を突き立てるその為に。
 そんな中でプリムロゼの数少ない心の支えだったのが、友人の踊子ユースファだった。しかし、纏っていた青い衣装は支配人ヘルゲニシュの手で赤く染められ、その瞳が砂漠の空を映すことはもうない。
(……ちくしょう)
 もう寂しくないや、と呟いた彼女の声が忘れられない。失った命の重さが無力感に形を変えてアーフェンにのしかかる。支配人がユースファに与えた傷は致命的で、薬師としてはまだまだ駆け出しの彼には手の施しようがなかった。
 もしも、あの場にいたのがいつか自分を救ってくれた恩人さん≠セったら、彼女の命を死の門へ見送ることもなかったのだろうか。本当は、自分にも何かできたのではないか。悔しさがあとからあとから湧いて、砂漠を歩む足を鈍らせる。
 砂漠の昼の気候は旅に向かない。だから、夜明けまでにどうにかハイランド地方に入っておく、というのが今夜の段取りだった。だが、既に東の空には曙光が覗き始めていて、涼しい時間帯はもう長くない。
 旅慣れない彼女の為にも、早く進まなければ――アーフェンがそう気を取り直した時、ずしゃ、と軽い擦過音が聞こえた。
「プリムロゼっ?」
 振り向くと、転倒したプリムロゼが砂地に手をついていた。気づけば、彼女はもう十歩も後ろにいたのだった。
「どうしたよ!?」
 慌ててアーフェンが駆け寄ると、プリムロゼはしっかりした声で「なんでもないわ」と首を振った。しかし薬師としてのアーフェンは、すぐ彼女の足に起きていた異変に気付いた。
「おまっ……足怪我してたのか」
「……」
 看破されたプリムロゼが気まずそうに押し黙る。彼女の額には脂汗が浮いていた。足首は曙光の薄明かりでも分かるほど、紫色に染まって腫れ上がってしまっている。この分では、プリムロゼは随分長いこと我慢していたのではないか。
「いつからだ?」
「……二時間ほど、前かしら」
「……あ〜〜」
 返ってきた答えにアーフェンは頭を掻いた。これは、彼女の足がこんな状態になるまで気づけなかった自分の失態だ。
「わりい、気づけなくて……」
「……別に、隠してたのは私よ? 謝るのは私の方じゃない」
 意外そうにプリムロゼが首を傾げる。けれどアーフェンにとってはそうはいかなかった。
「いや、俺としたことが……確かにちっとペース落ちたなとは思ってたんだ……」
 ちゃんと声かけりゃあ良かったんだ、とアーフェンは悔しげに呟く。思うように進まない足取りにアーフェンは気づいていた。気づいていながら、彼女を気遣う声をかけることすらできていなかった。
 薬師が気に掛けるべきは、失ってしまった命のことよりも、今生きている命のことなのに。
 アーフェンはプリムロゼの前に跪いて、尋ねた。
「本当、悪かった。今手当すっから……足診せてくれるか?」
 プリムロゼはおとなしく腫れた足首をアーフェンに差し出す。すると、足先から脱げかけていたサンダルが落ちた。


 + + +


<サンプル2>
 Chapter. 2「カクテルはまだ命の味がするか」

    ◆

「はい、どうぞ」
「お、おう……」
 エールでなみなみと満たされたマグを、踊子プリムロゼが微笑みと共に供してくれる。酒場のカウンター席で、彼女と隣り合って座ったアーフェンがぎこちなくマグを受け取ると、これまたぎこちない口ぶりで言った。
「じゃ、じゃあ……今日はお疲れさん、ってことで……?」
「ええ、乾杯ね」
 かつん、とマグとプリムロゼのグラスがぶつかる。ええい儘よと、アーフェンは一気にエールを飲み干した。
「あら、いい飲みっぷりね」
 と言って、プリムロゼがすかさず手元の瓶から次のエールを注いでくれる。
 雪国のエールは舌にうまく、その上お酌をしてくれるのは艶然と微笑む美女なのだから目にも嬉しい。
 そう、確かにプリムロゼは綺麗な女性だ。そんなこと、初めて出会った時からずっと思っていたし、何なら面と向かって言ったこともある。だから『美女はここにもいるでしょ』と言われたとき、ただ頷くことしかできなかった。
 あの時のプリムロゼは、娼館がどんな場所かをもちろん知っていて、そしてアーフェンが知らなかったということも分かっていただろう。
 それらを全部飲み込んだ上で、プリムロゼはあんな台詞を詩ってみせたのだ。その時の彼女の心中を思えば、今この状況下で手放しに酒の味と美女の微笑みを楽しめることなどできようか。それほどアーフェンの神経は図太くできていない。
 だから、プリムロゼがこう言い出した時彼は驚いたのだ。
「……今日はありがと、アーフェン」
「へ?」
 何のことだっけと真剣に思い出そうとしたアーフェンの腕を、プリムロゼの細い指がつついた。
「洞窟を歩いてた時、私が戦わないで済むようにって、ずっと前に立ってくれてたでしょ? おかげで助かったわ」
「……あ、ああ、そんなの」
 当たり前だろそんなもん、と言いかけたところに、プリムロゼが言葉を続ける。
「それに、それだけじゃないわよね。黒曜館の連中の足止めをしてくれたり、魔法で受けた傷を治してくれたり……いろいろ。
 だから、これはほんのお礼。……もう怒ってないわよ、あの時のことも」
「っ……」
 アーフェンは思わずごくりと喉を鳴らしてしまう。
 旅の仲間が八人になってからますます実感したことだが、プリムロゼは本当に人の機微を察することに長けている。そうして周りを気遣い、茶目っ気のある言動や行動で、一行が気持ち良く旅ができるように整えてくれているのだ。
 良く言えば真っ直ぐ、悪く言えば不器用な性格の自分にはとても真似できないことだった。
(敵わねえなあ)
 心の中だけで苦笑して、アーフェンは素直に謝った。
「……おう、悪かったよ、マジで」
「分かればいいわ。……でも、あなたがいてくれて感謝してるのは本当よ」
 そう言いながら、プリムロゼが再びエールを注ごうと瓶を手に取る。さりげない気遣いにマグで応じながらも、アーフェンは気づいた。
「なあプリムロゼ、あんた全然飲んでねぇんじゃねえか?」
 彼女のグラスには、確か蜂蜜酒で作ったカクテルが入っていたはずだ。しかし、アーフェンの見たところまったく量が減っていないように見える。指摘されたプリムロゼは、なんだそんなこと、と言いながら髪を掻き上げた。
「私のことは気にしないでいいのよ? 好きな時に飲むから」
「つってもよ……まさか、本当は具合わりいんじゃ」
「そんなことないわよ」
「だったら、あんたもちゃんと楽しめよ。せっかく一緒に飲んでんだからよ」
「……」
 プリムロゼは一瞬躊躇うように手元のグラスを見つめたが、すぐに細い指でグラスを取り、唇をつけた。
「……おいしい」
 一口飲んで、プリムロゼはほっと息をつくように呟く。
「そりゃ良かった」
 彼女に浮かんだ微笑みは、さっきまで自分に向けていた艶然としたものとは違って、どこか力が抜けたような自然な笑顔だった。本当に美味しいと思っているのだろう、そんな彼女の表情に嬉しくなったアーフェンは、またごくりと大きな口でエールを飲んだ。
 プリムロゼが、再び蜂蜜酒のカクテルを飲んで言う。
「……よかった、ちゃんとお酒の味がする」
「そりゃそうだ。小せえ村だけどこの酒場は評判だって、村の連中も言ってたろ」
「ふふ、それはそうね。……でも、そういうことじゃないの」
「じゃなんだって?」
 聞き返したアーフェンに、プリムロゼは低い声で答えた。
「昔サンシェイドにいた時、聞いたことがあったの。人を殺し過ぎると、お酒を飲んでも血の味しかしないんだそうよ」
「……え?」
 剣呑な話に、アーフェンはエールを飲む手を止めた。プリムロゼの方を振り返れば、彼女のエメラルドグリーンの瞳には影が落ちているのが見える。


 + + +


<サンプル3>
 Chapter. 5「命の物差しを当てたなら」

    ◆

 その夜、セントブリッジの宿屋には深更を過ぎても明かりが灯っていた。主人すら引き上げ静まり返った宿の待合場所で、何人かの旅人たちがじっと座って時を待っている。
 彼らはどれほど待っただろうか。じゅっ、と音を立ててランプの炎が途切れる。しかし、もはや誰も点け直そうとはしなかった。窓硝子から差し込む薄明かりで、ランプの必要もないほどだったからだ。そして、ついに――
 ちりん、と扉に付けられた鈴が鳴った。それを聞きつけて、旅人たちのひとり、踊子プリムロゼがいち早く立ち上がる。
「アーフェン……!」
 曙光の薄明かりに大きな影を作ったのは、やっと宿屋に帰ってきた薬師の青年、アーフェンだった。彼は宿の中に座っていた連れを見回して、疲れたような笑みを浮かべた。
「んだよ、皆待ってたのか……?」
 答えたのは本を片手にした学者サイラスだった。
「全員ではないよ。私とテリオン君、それにプリムロゼ君だけだ。あとのみんなはそろそろ起きる頃じゃないかな」
「そっか。……ったく、んな気遣うことなかったのによ」
「……治療は済んだのか」
 奥まった影から、盗賊テリオンがアーフェンに訊く。すると薬師は軽く胸を叩いてみせた。
「おう、峠は過ぎたぜ。もうティムは心配ねえよ」
「そうか、それは良かった。お疲れ様、アーフェン君」
 サイラスが整った顔に柔らかな笑みを浮かべて薬師を労う。プリムロゼが一歩歩み寄って尋ねた。
「明日……もう今日ね。朝食はどうする? ハンイットが作ってくれるって言っているけれど」
「……。んー、それは、いいや」
 少し迷ってから、アーフェンは小さく首を振った。
「わりいけど、明日は放っといてくんねえかな。……さすがにちと、疲れたわ」
「……分かったわ」
 頷いたプリムロゼに、アーフェンは再び力のない笑みを作る。
「待っててくれて、ありがとな」
 彼女の肩をぽん、と叩き、重い足取りでアーフェンは部屋の方へ去っていった。憔悴しきって丸くなった背中を、旅の連れの三人は何も言えないまま見送る。
 本当は、もっと何かかけるべき言葉があったはずだった。
 けれど、どんな言葉が最善なのか、誰にも分からなかった。

 その日の午後、プリムロゼはセントブリッジの庶民街で旅に入用な物の仕入れに出ていた。昨晩寝ずの治療にあたっていたアーフェンを一日休ませて、明日には街を出ていく、その準備のためだ。
「じゃあ、ブドウとプラムをこれだけと、劇物の素材をお願いできるかしら?」
 道具屋で、プリムロゼはてきぱきと必要な品を注文する。道具屋の主人は彼女を片目で見やると、唇を硬く結んだ。手早く品をまとめ、硬い表情のままプリムロゼに押し付ける。
「……もう他にはないか? あんた方には早いところ出ていってもらいたいんだがな」
「……」
 主人の目が言わんとすることを察して、胸の奥がざわついたプリムロゼだったが、彼女は敢えて極上の笑顔とともに品を受け取った。
「ご心配なさらないで、明日には出発する予定ですから。手厚い歓迎、感謝するわ」
 呆気に取られる主人を尻目に、プリムロゼは優雅に踊子の衣装の裾を捌いて道具屋を出て行く。
 まったく、ご挨拶ね。扉の外でプリムロゼは内心毒づいた。道を過ぎる人々の中にも、道具屋の主人と同じような視線を彼女に向ける者がある。なぜこんな扱いを受けるいわれがあるのか、プリムロゼには分かっていた。
 つい昨日、子供をさらい身代金を受け取ろうとした、傭兵崩れの男ミゲル。もともと街の自警団に追われて瀕死状態だったその男を治療したのが、自分の旅の連れである薬師アーフェンだからだ。彼と、彼に同行する旅人一行を、街の事情を知る者たちは疫病神か何かとでも思っているらしい。
 ――アーフェンは、何も悪いことなどしていないのに!
 プリムロゼは理不尽に歯噛みする。ミゲル本人はリヴィエラの森で死亡しているのが確認された。傭兵に襲われた子供だって、アーフェンの手で無事に命を取り留めた。だというのに、これ以上彼が責められなければならない理由があるのか。
(そうよ、アーフェンは何も悪いことなんかしてない。彼は彼の思う通り……信じる道を貫いただけよ)
 大陸中の病める人々を救う。それは聞く人が聞けば甘いとか、大それていると断じるだろう。けれど七人の仲間は、アーフェンのそういう心意気に惹かれて旅路を共にしているのだ。甘い理想を本気で信じて、当たり前のように追い続ける彼の姿勢は、七人にとって導きの灯となっている。旅の初めから、ずっとそうだった。
 だからこそ彼らは――私はアーフェンの選択を信じた。この街に逗留しているもうひとりの薬師、オーゲンの警告があったにもかかわらず。
 だが、おそらくはそれが最大の間違いだった。
(……そう、私には分かってた。あの男は″繰り返す″って)
 目は口ほどにものを言う。初めからプリムロゼはあの傭兵崩れの男の瞳に濁った色を見ていた。そして薬師オーゲンの悲しそうな瞳。あの時、オーゲンが治療に向かおうとするアーフェンに『やめておけ』と言ったのは、きっとアーフェンの甘さをあげつらう為ではなかった。彼には彼なりの思いがあって、ミゲルの治療を止めたのだろう、アーフェンが自分と同じ轍を踏むことを防ぎたかったのだ。今ならはっきりとそう思える。
 この結末への示唆はいくつもあった。ああいう輩は口先だけ従っておいて必ず繰り返すものだとプリムロゼには分かっていた。経験則や本人の様子から、たとえばテリオンやサイラスだって同じように思っていただろう。
(私たちが、気をつけていれば……)
 ひとりで寝ずの治療にあたっていたアーフェンの代わりに、誰かがミゲルの様子を窺うくらいしていれば、傭兵の凶行を止めることができただろう。けれど旅人たちはそうしなかった。
 ――困った時には助け合うが、お互いの事情には必要以上に踏み込まないこと。
 ――相談には乗るけれど、当人が決めたことに対して必要以上の口出しはしないこと。
 旅人たちの間で暗黙のうちにできた決まり事はこの二つ。ミゲルを治療すると決めたアーフェンを誰も咎めなかったのは、主にこの決まり事があったからだが、それ以上に、プリムロゼは信じたかったのだ。
 ミゲルの言葉を信じたアーフェンの選択は、間違っていないのだと。
 持つ人が誰であれ、命は救われるべきものだと。
 だけど彼の選択は結局間違っていた。だから、街の人々はあれほど無垢に憎しみのまなざしを私たちに向ける。
「……」
 宿に向かうプリムロゼの足は、いつしか止まっていた。
 命には、救う価値のあるものとないものがある。薬師オーゲンは彼なりの物差しで、その価値を量っていた。その物差しで傭兵ミゲルは″繰り返す″と判断して、彼はその両手を遣うのを止めた。――ならば、私は?
 身に着けている短剣が冷たく硬く脚に触っていることに、彼女は気がついていた。


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<サンプル4>

    ◆

 『日陰』の街がシンボルとする大岩が落とす、影の中。
 砂漠の日射しの下で見るとは思えない、真っ白な頬をして。
 夜露に濡れた葉の色をした瞳で、鋭く研ぎ上げた短剣を見つめている。
 そんな彼女の姿を、彼はずっと後になっても忘れられなかった。
 
「おいあんた、どっか具合悪いのか?」

 彼女は弾かれたように顔を上げ、薔薇の色をした唇を開いた。
 それが、すべての始まりだった。
 彼にとっても、彼女にとっても。

 ――『信じるもの』の確かさを、再び信じられるようになる為の。
 ――『信じるもの』を貫いた、その先の光景を見つけにいく為の。

 そして、二人がそれぞれの旅路の果てで手を取り合うまでの。
 これがすべての、始まりだった。



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