「私ね、婚約者がいるの」
グラスに注がれたシャンパンを口内に流し込み、なんの前触れもなく言った。 私の両親の関係は一流企業の社長と秘書だ。親がどんな企業に勤めていようと関係ない。昔はそう思っていた。けれど、私が大きくなるにつれ後継者の話が囁かれるようになると当然、嫌でも私の名前が出てくるわけで。正直、会社を継ぐのは悪くない。むしろ、両親の背中を目で追っていた分、やりがいのある仕事だとは感じている。 問題なのは婚約者だ。一流ともなると世間の目を気にしてか、結婚する相手もそれなりに条件の良い人を選ばなければならない。そんな中、両親が見つけた男は私から見ると面白くもかっこよくもない、ただのお堅い人物。 今この時、本来なら商談を約束している時間だが、あんな退屈な空間にわざわざ自分から出向くのが嫌だった。
「結婚、したくないなー」 「だったらしなくてもいいんじゃないのか? 無理にするもんじゃないだろ」
薬指にはまる、いかにも高価な婚約指輪を眺めていると、隣に座るバーテン服の男がようやく声を出した。男はちらりと私の婚約指輪に目をやるとすぐに逸らし、自分のグラスに入ったカクテルに口をつける。
「それなりの理由がないと破棄できない仕組み。知ってた? 私、これでもけっこうなご令嬢なんだよ?」 「……自分で言うな」
茶化すように意地悪く笑ってみると面倒そうにあしらわれた。ひっどいなぁ。わざとらしく振舞ってることくらい見破ってくれたらいいのに。本当は私だって全部捨てて逃げ出したい。どうせ今結婚したところで私とあの人じゃお金にしか目がいかないから。そんな人生って退屈すぎる。
「……やっぱ私、帰りたくないな〜」
相手の表情を伺いながら言葉を探る。素直に引き止めて、なんて言えるほど甘い女じゃない。駆け引きはどちらかというと苦手だ。意見を発するのも正直苦手。だからこんな面倒事に巻き込まれる。そんな自分が大嫌いだった。ああ、なんだか泣きそう。もう嫌だ、カッコ悪い。
「そろそろ行かないと――」
なんだか急に情けなくなって早くひとりになりたくて逃げ出そうと立ち上がる。立ち上がったはずなのに動けなかった。いつの間にか腕を引かれ、すっぽりと腕の中に収まる私の体。離れようと胸板を押してみてもびくともしない。 今はダメだ。今、優しくされるとどんな人でもすがってしまう。弱音なんて人に見せるもんじゃない。強く、ならなくちゃいけないんだ。
「言いたいことがあるなら言え」 「でも……」 「いいから!」 「……もうやだ。なんで私なの? 興味のない仕事やらされて、笑顔作って好きでもない人と結婚させられて! こんなの何が楽しいのか分かんないよ!」
堰(せき)を切ったように溢れ出す不満。私が生まれてから今日までずっと一人で背負い込んできたものは自分が想像していたよりずっと重くて。やっぱりひとりで溜め込むのは耐えられないと思った。自然と涙が溢れ出してきて視界が歪む。
「だったら、自分のやりたいようにやってみたらどうだ? 一回くらいわがまま言っても誰も怒るやついねーだろ」 「……あいかわらず優しいなー、静雄さんは」 「はあ? おま、なまえ。もしかして酔ってるか?」 「今日は酔うほど飲んでない。前からずっと思ってた。静雄さんみたいな人が彼氏だったら、私も幸せだったのかなーって。だから……」
首筋に自らの腕を絡め、そっと唇に触れるだけのキスをする。驚きのあまり目を見開いた静雄さんは、ただ呆然と私の顔を見つめていた。あー、こんな恥ずかしいこと、人生で一度きりにしてほしいものだ。我ながらよくできた。情緒って思ってたよりずっと怖い。
「ねえ、奪ってよ……」
すべての束縛から逃れるように絞り出した言葉は私が想像していたものよりずっと小さかったけれど、少しでも私の気持ちがあなたに届いたのなら今はそれだけでも十分な進歩かなって、そう思えた。
赤い糸が邪魔なのよ (運命だって越えられる)
2012.10.28 title:狸華
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