「あー、寒い寒い」
うだるような暑さをもたらした夏も気づけば通り過ぎ、季節は間もなく冬を迎えようとしている。日没は幾分と早くなり、気温も徐々に下がり始めてきた。日が暮れるこの時間帯には、大した風もないくせに外気に触れる部分がやけに冷たく感じる。 そんな寒さから逃れようと足早に帰宅し、着用していた新調したばかりのコートを脱ぎ捨てる。 明かりのついたリビングルームに入れば、すっかりこの空間に溶け込んだ一人の青年がなまえの目に留まった。人の家であるのも気に留めず、なんのためらいもなくソファに腰かけ新聞を手にしている彼は、私の帰宅を横目で確認するとそれをたたんでテーブルの上へ放り投げた。
「お疲れ。どう? 調子は」 「異常なし。今日も変わらず平和でした、と」
テーブルに置かれたティーカップが空であることを確認し、それを回収する。カップをさっと水で流してから再びお湯を注ぎ、そこにティーバッグを入れ臨也の目の前に置いた。次に食器棚から自分のカップを取り出し、先程と同じ手順で紅茶を作る。
「なに見てんの?」
用意を終えリビングに戻ると真っ先に電源を入れられたテレビが目に留まった。 私がいつも帰宅する時間に放送される番組といえば大半がニュース番組だ。当然、臨也が今見ているそれもニュース番組。普段なら“その程度か”と馬鹿にしているにもかかわらず、なぜだか今日は画面を食い入るように見つめ、わずかに口角をつりあげている。
「……平和だったのは俺達だけかもしれないよ?」 「どういうこと?」 「ほら、見てみなよ」
臨也に促されテレビを見る。画面には駅のホームで倒れている人と、何らかの指示を出しながら彼らを担架に乗せている救助隊員の姿が映し出されていた。
「うわ……なにこれ?」 「誰かが毒薬でも撒き散らしたんだろうね。こんなところにばら撒こうだなんて普通は考えないだろうけど……まあ、警備が手薄だったことを考えて、犯人は命拾いしたね」
折原臨也は冷酷だった。数百、下手をしたら千人近い人が倒れている映像を見たところで残酷だという感想は沸いてこない。この状況を客観的に分析し、加えて犯人の身を案じるような発言までしている。こういう男なのだ、この人は。 他人の不幸は蜜の味、とはまさしくこの男のためにあるような言葉だろう。
「で――…どうだった?」 「なにが?」 「なまえでしょ? ――こ、れ」
確認するように映し出された事件現場を指差しながら臨也が微笑む。馬鹿にするわけでも咎めるわけでもない。それはこの男にとってただの興味本位の言葉だ。 臨也から好奇の目を向けられているなまえは、彼とは対照的に眉間にしわを寄せ、不快な顔をしてみせる。
「べつに、面白くもなんともなかったけど」 「そう、それは残念だね」
短く言葉を交わすと臨也は何事もなかったかのように再び画面に視線を戻した。 あくまで自分の興味に貪欲な臨也は、その興味を失ったものにはどこまでも淡白だ。 あっさり切られた話題と、絡むことのない視線を不甲斐なく感じ、なまえは強く拳を握ると震える声で小さく言葉を吐いた。
「――――…い、の」 「ん?」 「なんで、何も言ってくれないの……? ねえ、なんでよ! ずっと一緒にいるのに……っ」
溢れ出そうになる涙を必死にこらえ、縋りつくように臨也の服の裾を握り締める。 彼の興味の矛先は少し変わった事件や、なにか裏のある人に多い。だが、なまえにはそんな稀なものと密接な関係はない。しいてあげるならこの男一人くらいだろう。幼い頃から親交のあるただの一人の人間。それでも臨也にとって彼女は、世界のどこにでも腐るほどにたくさんいる、ありふれた人間のひとりでしかない。
「わかってるよ! 臨也にとれば私なんてごみくず同然の存在でしかないんでしょ!? でもね、それでも私は……ずっと……」 「なまえ」 「いらない! そんな適当な同情なんてほしくない!」
差し伸べられた手を振り払いながら顔を背ける、子供のような仕草。 最悪だった。今までなんのために、何も言わずにただ笑って彼の隣に並んでいたのだろう。つまらない関係と言われようとも、自分が彼に近い場所に立つためにこらえてきた本音を、まさか自分の行いで崩すことになるなんて。 流れる沈黙に耐え切れず、静かに横目で様子を窺う。臨也はというと、心底めんどくさそうにため息をつきながら、宙に払われた手を彷徨わせている。
「……ああ、もう。めんどくさいなあ」
みてくれだけでも十二分に分かることを口に出されるのはさすがに傷つく。キリキリと鈍い痛みを与えてくる自分の胸元に手を当て、服にしわを寄せるように握りこむ。
「そんなの、自分が一番わ、かっ……て……」
口元に、なにか生温かいものが触れた気がした。気のせいかと思うくらいに短く、後に何も残さないような、そんなキス。 ふと、顔を上げれば、自嘲したような笑みを浮かべた臨也が何も言わずに私を見下ろしているのが目に入る。 その目が、私に何を告げているのか、容易く理解できた。
「大丈夫だよ。私は逃げないから」 「……一応、聞いてあげるけど……自分の選択に後悔はない?」 「うん、全然」
今日一番の、否、ここ最近で一番といえるくらいにからっとした笑みを臨也に向ける。どこか幸せそうな顔にも見えるなまえだが、本当に彼女は自分の置かれている状況を認識できているのだろうか。――この男から明日が自分の最期だと、告げられているのに。
「逃げないでね」 「……なんで俺が逃げることになるのさ」 「んーん。ちゃんと見送って、って意味」
上機嫌に足元を弾ませながらなまえがベランダへと足を運んだ。そっと、空を仰ぐ。大きく、幻想的な満月が、静かにあたりを妖しく照らしていた。
罰が欲しくて罪を犯した (私はただ ―――― あなたの手で、殺めてほしかった)
2011.12.17 TITLE:狸華
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