小説 | ナノ




『あの二人は、あの二人にしかわからないことがあるのよ、きっと』

僕ら二人をそう評したのは京さんだった。彼女らしい、他人事のようでいてあまりに的確過ぎる分析に、大輔くんは不服そうな顔をしていた。残念ながら、当人である僕はドアの向こう側でそのやり取りを聞いていたし、安っぽいガラス越しにその表情も見ていた。偶然の効力であって、決して意図的なものじゃあない。だからその後は、態とらしく新しい声色を作ってドアを開けた。「おはよう」特に、事態を展開させることもなく済んだ。

僕ら二人には、僕ら二人にしかわからないことが、きっとあった。
少なくとも、二度目の冒険が始まるまでは、そうだった。
同じ目線の高さであの世界を、あの時間を、見て、過ごしたのは、僕にとっては彼女が唯一の人だったし、彼女にとってもそうだった。首が痛くなるほど、ひたすら見上げて、声を張り上げて居なければならなかったし、それをせずに済んだのはパートナーと対峙する瞬間だけだった。
最初の冒険が終わって、幼いなりに僕は無知の怖さを噛み締めた。だって、僕らの背丈で受け止めていた恐怖って、可視領域の質と量を考えてもやっぱり僕らの間でしか共有することが出来ない。だから、僕にとって彼女が特別な存在になるのは、至極当然のこと。兄と太一さんが互いに特別な存在であるという事実と同じように。
いや、或いはそれ以上に。
二度目の冒険が終わって、暫く経って、『僕ら二人にしかわからないこと』が、いつしか薄まってもう手に握れないくらいまで濾過されていることに気付いた。


学校の帰り道、「今日は遅くなるから、」母の言葉を思い出して、家までの直帰コースを逸れてコーヒーショップに入った。秋の新作を、ホイップ少なめで注文して、店内のソファに座り借りたばかりの本を開く。昔から、ゲームと同じくらい絵本が好きだった。最初の冒険が終わったくらいから、余暇時間の比率はどんどん本に、文字に傾いた。
最近はこうして自宅でも図書室でもない場所で本を開くことが多くて、それを兄に話したら「マセてるじゃねえか」と笑われた。中学生になったばかりでスタジオに入り浸っていた兄も、同じようなものだろうに。秋の新作は、去年のものより甘ったるさが増した気がした。読書中の脳は糖分を欲するけど、こんなにはいらない。



京さんと大輔くんのやり取りを思い出したのは、今朝見た夢のせいだった。
一度目の冒険で見ていた景色の片隅で、僕の手は誰かの手を、強く握っていた。
その手の小ささと感触だけ、起きても暫く残っていて、あれは誰だっただろう?なんて、呆けていた。家を出る頃に漸く思い出した。あれは紛れもない、彼女の手だった。(だって、あの頃の僕にとっての「小さい手」は、唯一。)

「うわ、やっぱタケルじゃねーか。何してんだよ、1人で」

反芻を切り裂いたのは懐かしい声だった。
反射的に顔を上げると、そこには先程思い出していたばかりの懐かしい顔があった。

「大輔くん。…久しぶり」
「久しぶり、って言うほどでもねーよ。先月逢ったばっかだし」
「そっか、そうだね。部活は?」
「明日補習だから帰らされたんだよ。お前こそ、部活じゃねーの?まさか補習ってことは無いだろうし」
「体育館、ワックス掛けで使用禁止だから、休みだったんだ」

大輔くんはふうん、とつまらなそうに相槌を打って、当たり前のように僕の向かいの椅子をひいた。「何読んでんの?」「アガサ・クリスティーだよ」「…ワッカンネー」そしてどかりと腰を下ろすやいなや、「あっ、注文してくる」と言ってそそくさに空白を抱えた椅子と僕を置いてレジへと走っていった。
やっぱり秋の新作をトレーに乗せて戻ってきた彼の、制服とホイップとコーヒーと彼自身のミスマッチ感に、思わず笑ってしまった。彼は不服そうな顔をした。ごめんごめん、と締まらない頬をそのままに僕は本にしおりを挟んで閉じた。

「中学生が1人でスタバ来んなよな」
「大輔くんだって、来たじゃないか」
「前通り掛かったらタケルっぽいのが見えたから、入ってみたらほんとに居たんだよ」
「へー、じゃあ僕とお茶したくてわざわざ来てくれたってこと?」
「べっつに。暇だっただけだし」

少し機嫌を損ねたままの大輔くんはじゅう、と音をたててストローを吸った。僕は自分のカップに口をつけた。恐らく中身は同じものだ。キャラメルの甘い香りがする。
それから暫く他愛もない話をした。お互いのクラスのこととか、部活のこととか、まだぼんやりとしてはいるけれど、進路のこととか。合間に大輔くんはデジモン達やあの冒険のことも話題として交えた。それらに僕はひたすら相槌を打って、脳の何処かで今朝見た夢の内容を想起していた。ある意味、とてもタイムリーだったのだ。この思い出の反芻と、大輔くんとの遭遇は。しかし大輔くんの語り口は僕をひたすらセンチメンタルな世界へ置き去りにすることはしない。それが何処か少し、心地悪くもあった。
(だって大輔くんは誰とでも共有出来るんだもの、僕らの冒険も、それ以外のことも)
(少なくとも、僕や彼女にとっては、好きとか嫌いとか以前によくわからない感覚なんだ、それは)
(だって、僕らは僕らの間でしか、共有出来ないものがたくさんあったから)
(だから、それ以外の人と共有する思い出に、背中を引っ張られることなんて、あってはならない)

コーヒーショップを出ると辺りはもう真っ暗だった。いつの間にか完全に、今年の夏は終わっていた。
川辺の歩道を二人並んで歩く。他愛ない話は店内から引き続いていたが、ふと話題が途切れて、大輔くんは珍しく神妙そうな顔で言った。

「タケル。なんか、悩みでもあんのか?」
「え?…別に、何も無いけど。なんで?」
「あー、いや…俺も、別に、何も無いけど」
「悩んでる風に見えた?」
「や、そうでもないんだけど、なんつーか…」

大輔くんは少し俯いてがしがしと頭を掻きながら暫く唸っていた。僕は笑ってそれを聞いていた。夕暮れのオレンジと、BGMはすぐ傍の車道で、車が絶え間なく通り過ぎてくエンジン音。昔はよくみんなで歩いた道だ。

「俺ら、あんだけ一緒に居た筈なのに、何考えてんのかイマイチわかんねーんだもん、お前」
「…えー、なんだよ、急に」
「笑うなよ!…わかんねーんだけど、わかんねーなりになんか今日違うな、とか思う時もあんの。今日思ったの。そんだけ」

途中から少し自棄糞みたいに言って、大輔くんは少しすっきりしたような表情になった。
なるほどね。なんて、心の中で上目線な相槌を打った。こういう、変なとこ聡くて、馬鹿みたいに真っ直ぐなとこ、たぶん大輔くんはこれからも変わらないんだろう。伊達に世界救ってない。

「…んー、そうだねえ。ちょっと、失望してたのかもしれない」
「失望?」
「うん。人と思い出を共有することとか、今までしてきたこととか、いろいろ、考えてたらさ。僕はほんとは、誰とも共有することも、出来てたことも、無いんじゃないかって」

(彼女以外の誰とも、)
(或いは、彼女とすらも、)
その中身も、なんなら外見すらも、正しく伝わらなければいいと思いながら吐き出した言葉を、隣で大輔くんは相変わらず神妙な顔でひとつずつ拾ってくれているようだった。
吐き出しながら、僕はその吐き出した言葉にこそ失望していた。なんだこれ、こんなことを考えて思い出を反芻していた筈じゃないのに、おかしいな。車はどんどん僕らの隣を通り過ぎ、追い越して走ってゆく。

「…えっと、ごめん、わかんねえ」
「あはは。いいよ、僕も正直、あんまりよくわかってないし」

音を上げる大輔くんを笑いながら、本当は僕こそ、僕自身を笑っていた。
「でも、」と続けた大輔くんを見た。少し冷たい風が吹いている。そろそろマフラーやコートも引っ張り出さないといけない季節だ。

「共有、とかさ、よくわかんねえけど。タケルが言いたいのは、デジタルワールドのこととかさ、そういうでっけえ思い出とか、そういうのかもしんねえけど。でもさっきたまたま逢って、フラペ飲んでたこととか、少なくとも俺はお前と一緒だったって思ってるし、今だってそうだし、それとおんなじで、あの頃のことだってそうだぜ?タケルも含めて、みんなであそこに居たなーとか、みんなであれ見たなーとか」
「…」
「そりゃタケルにしかわかんねーことはたくさんあるだろうけど、その分ちゃんと俺とか、俺らで見てたものもいっぱいあるからさ。だからそんな、いつまで経ってもひとりぼっちみたいな顔してんなよ。かっこつけてねーでさ」

気付けば思わず歩を止めて聞き入ってしまっていた。大輔くんは序盤には目線を逸らして、頬を指で掻きながら言葉をぽつぽつと紡いでいた。
こういう、大輔くんの変に聡くて馬鹿みたいに真っ直ぐなとこ、嫌いじゃないけど時々胸に刺さって、痛くなる。ダイレクトに捻じ開けられたわけでもなく、かと言って適当に聞き流すことも出来ないこのむず痒さは一体何だろう。
(『共有できないもの』としてラベリングしたものを心の中に永遠にしまっておきたかった。それこそが、僕らがあの夏精一杯生きていた証の一つなのだと、信じていたから)
(信じていたかったから)
(きみはいとも簡単にその藁を断ち切らせてしまうね、いつもいつも)

「…かっこつけないで、はこっちの台詞だよ」
「なに?ってか、笑うなよ、マジで」
「ごめんって。でも、ありがとう。ちょっとすっきりしたかも」
「ほんとか?」
「うん。大輔くんってほんと凄いなって思った。今度お礼にスタバ奢るよ」
「…そこまで言われたら逆にこえーよ。何か企んでやがるな!」
「ひどいなあー」

それからはいつもの大輔くんと、いつもの僕だった。
デジモン達を抱えていないのと、ヒカリちゃん達が居ないのと、着ている服が中学校の制服ってことくらいで、いつの間にか数十段も大人になったような気がしていたのだけど、案外まだあの頃のままで居られた。それは隣に居るのが大輔くんだったから?わからないけど、帰り道の風景はあの頃と同じオレンジで塗りたくられていた。




『あの二人は、あの二人にしかわからないことがあるのよ、きっと』

大輔くんは、あの時の京さんの言葉を覚えていただろうか。
もし覚えているなら今も、その言葉に不服そうな顔を浮かべる彼なのだろうか。
時が経ち濾過された事実は思い出ばかりを透き通らせて、そこに浮き出るのは誇張と意地ばかり。その事実に、僕は失望していた。特別な思い出を抱えて生きていくことの難しさと、その難しさに酔いしれてる自分の浅はかさと。みんな、どうやって克服していったんだろう。そもそもみんな、この失望を抱えていたんだろうか、果たして。

ねえヒカリちゃん。僕は今になってヒカリちゃんが一層特別で大切な存在だと思い直してしまったけれど、それを君に押し付けてはいけないと、きちんと理解出来るくらいには大人にもなれたようだ。そしてきみの居ないところで僕は新しい思い出を誰かと共有したし、きっとこうしてたくさんの思い出が増えて、いつしか濾過された思い出と混ざって、また砂時計のように上から下へ、循環を繰り返す。今日みたいな、まっさらで曖昧で他愛無い、それでいて思わず歩を止めざるをえなくなる思い出がこの先たくさん増えたら、僕はもう僕や僕らに失望することも無くなるだろうか。ねえ、きみはどう思ってる?



















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