小説 | ナノ




 しなだれた体が音もなく悲鳴をあげているのが見て取れて、僕は声を掛けるよりも先に呆れによる溜め息を吐いた。
 なんのことは無い、ただ今日も今日とて無茶な戦闘を挑んだ彼が、うっかり自分の攻撃の反動で周囲に散らばっていた鉄工に体をぶつけ、負った擦り傷に呻いているというだけのこと。曰く、戦闘相手から負った傷ではない、という事実が彼にとっての美意識とポリシーを象徴するものらしいが僕にとっては等しくくだらない言い分でしかない。
 律儀に適当な相槌を打ち、更にはその治療まで請け負ってやったと言うのに、礼はおろか「痛え…」と床に寝転んだまま地を這うような声で時折漏らすだけの背中。その姿はまるで地に張り付けられた不貞腐れる犬のようだった。

「無様だね」

 本音を、彼にとって最も腹立たしいだろう言い方でそのまま口にすると、ぎろりと反論したげな視線を寄越される。釈明をする気も毛頭無かったので、ぱたんと音を立て救急箱を閉じ「もう帰ろう。そんなに痛むなら、送っていこうか」と同情ではなく治療した身としての義務感から声を掛けると、への字に曲げられていた唇が今度はツンと尖った。

「…なんだい」

 立ち上がってコートを肩に掛け、きみに選択権は無いのだと言外に諭しても、足元に転がったそれは応じるどころかぼんやりと僕を見上げ、おもむろにちょいちょいと手招きをして見せた。まるで主人が飼い犬にするようなその仕草が気に食わなくて、思わず眉を顰める。(犬に犬扱いをされるなんてたまったものじゃない。)しかし足元のそれは黙ったまま、再度手を強く引く。厭な予感しかしないのに、こんな子どもらしくない眼と仕草で子どもみたいな駄々を捏ねる彼に、結局僕の方から折れてしまうのも常のことだった。
 少し悩んで、横たわる彼の横に膝をつく。ロングコートの裾がぺしゃりと床に雪崩れるのを直そうと試みた腕が、あっさりと掴まれ引き寄せられれば、厭な予感通り真っ直ぐ彼の頭上へ導かれた。重力に抗うのも辛い体制だが、少しでも気を緩めれば鼻先が触れ合ってしまう距離。

「…何だ」

 意図を嗜めるように、態とワントーン低く囁くと「お前って奴はさあ…空気読めよ」なんてからかうように言う、その顔が憎たらしい。つい先刻まで痛みに呻いていた情けない横顔の面影が、もうそこには無かった。
 癪だと思いながら、顎を指で掴み、望み通り半笑いで歪む唇に触れるだけのキスを落とす。と、よしよしとこれまた犬にするように頭を掻き撫でられた。

「…満足かい?」
「ん。微妙」
「それは何よりだ。さあ、もう帰る」

 よ。と言いかけた口に、今度は噛み付くような勢いで口付けを寄越される。無遠慮に這い上がってきた舌に、抵抗する間も無くこちらの舌も引きずり出され、彼の頭の両脇についた腕が崩れ落ちそうになった。
 不安定な体制のせいか、時折互いの歯が当たってガチガチと音を立てる。体を引こうとすれば絡みついた腕が阻止し、乾いた舌が追いかけてくる。事態を諦めるのにさほど時間は掛からなかった。食い返すように舌を絡ませてやると、先に甘い吐息を漏らしたのは彼の方だった。

「…犬のくせに」
「っあ?なに」
「別に、何も」

 彼に対する本音を零すことの無意味さには二つの理由があって、一つは、言ったところで彼は僕の言うことなんて聞きやしないこと。もう一つはそもそも言葉の意味を理解されないということ。
 元より頭の出来が違うのは言わずもがな、彼にとっての「理解」は正しく直感によってのみくだされる。僕が思考を何巡もして漸く得られた答えを、嗅覚と勘だけで容易く見つけてしまったり、或いはそこに何かがあると気付くことも無かったり、極端だ。どちらに振れるかは、目の前に獲物を転がしてみるまでわからない。彼の思考は六面の猶予を許されるサイコロではなく、表と裏の二つしか答えの無いコインのようで、それは小さな子どもが漠然と、正義と悪の対比を必然なものと信じるある種の浅はかさに似ている。
 だからきみの思考に発見されない何かを得られた瞬間は、それを確信出来た瞬間だけは、言いようの無い快感が込み上げる。けれど同時に、妙な焦燥感もぽつりと胸の内に浮かんで、ゆっくりと燻り始める。

「…こんなに生温いのは、きみらしくないなと思ってね」

 挑発するように頬を撫でて言えば、ひく、と苛立ったようにその口元が歪んだ。次の瞬間には乱暴に体制をひっくり返されて、餌を貪るような口付けが僕を襲う。濡れた舌が、完全に火の灯った眼が、本能のままに蠢く手が、たまらなく不快な筈なのに何処か安心したりする。

 僕の思考はきみのそれと違って、きっとルーレットの目の数にも及ばないくらいの着地点を持っている。コインを投げるだけのきみの手が、容易にその答えに辿り着いて良い筈が無い。慈しむようなやさしいキスなんてきみらしくない。きみはただ飢えた獣のように、自ら答えを差し出す僕を本能のままに貪ってくれれば良い。僕がまた思考の海に飛び込んで、僕らにとって絶望でしかない新しい答えを見つけてしまわないように。


(だからもっと、猟奇的なキスを私にして
(このくだらない夢の最後まで離さないで
















人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -