この空間に足を踏み込んで、一つ感じたことがある。

「主、ここから早く退散したほうがいい」

近侍として付いてきてくれた石切丸も同じだったようで、一通り探索が済んだ頃ひっそりと声をかけてきた。変なアイドルや生真面目な医者から気づかれぬように距離を取り、潜めた言葉の意味を視線で問う。

無口な翁は目でものを語ることが多い。

自衛官あがりの岸壁をも破壊してしまいそうな睨みに慣れきっている刀剣は物怖じせずに一つ息を大きく吸う。漂う空気すら不浄だと言いたげにすぐ吐き捨ててしまったが。

「この本丸には汚れが立ちこめている。正直、私はあの政府の者達が言っていたように此処はただならぬ状況に染まりきっていると考えてるんだ。頼まれごととはいえ、君が怪我やそれに準じる出来事に巻き込まれるのは私の本意じゃない。何食わぬ顔で帰ろう」

軽率な発言ではなく、純粋に主を案じた故の提案だった。

紫陽花、という審神者と初めて相対した瞬間、異変を感じ取った。

隣の近侍から漂う空気が濁っていて此処にくるまでの自分の甘さを恥じた。どうせ、大したことはないだろうと楽観視していた自分が隠れていた。

そいつは顔を気まずそうに覗かせ、失態を隠すように、まるで自分の警戒心の薄さを怒鳴るように―――姿を消してしまったのだが。

とにかく魔の巣窟に入り込んでしまった後で「あの時気づいていれば」という後悔は瞬時に成りを潜めた。

代わりに今度は「どう自分の主を無事に連れ帰るか」のみを真剣に考えはじめる。

元自衛官で身体を鍛えている主でも、身体は人間だ。刀剣である石切丸達とは勝手が違う。手入れをすれば治るであろう傷だって、彼らは何倍もの時間を掛けて癒やしていかねばならない。

主君を護るために顕在している身としては、多少無理はあろうが翁を安全な場所へ連れて行きたい。その思いが通じれば良いのだが・・・・・。

翁は真剣な表情の石切丸を数秒見て考える仕草を見せた。無口な彼は語らぬ分動作や仕草で発言することがある。主の言葉を一つも見逃すわけにはいかない。

石切丸は黙って彼の「返答」を待った。近侍の案ずる気持ちをくみ取って此処から立ち去るか、それとも。長いときが流れたかのように思えた。

短刀達がはしゃぐ声がどこからか聞こえてくる。風に乗って香ってきた夕飯ののどかな香りが、一瞬危険な所に立っている不安感を忘れさせてくれる。

翁は、二度首を横に振った。石切丸にはっきりと否定の意思を伝えた翁に、肩を落としたくなった。

「何故だい。この本丸の調査が失敗したからといって誰も責めないだろう。いやまあ、確かに政府の連中に嫌みの一つや二つ言われるかも知れないが、此処で命を落とすよりは随分と軽」

「・・・・・・な」

「え?なんて言ったんだい?」

掠れ搾り取るような低い声。翁が自ら口を開くなんて珍しい。石切丸は驚きながらも背中を丸めて主に耳を寄せた。

「徒花」

「徒花?・・・・・・ああ、実のならない花のことか。それがどうしたんだい?」

「ここを放っておけば、良くないことが起こる」

大切にしまっていた本音を丁寧に零していく。簡潔に纏まっていて、一切無駄のない単語の羅列。自分の思いを他人に話すのが苦手だと教えてくれた時となんら変わりない、意思に満ちあふれた声音だった。

「徒花になろうとも、変わらない」

実が育たずとも、その先には絶望しか待っていなくても、自分で開けられる扉があるならば突き進む。どんなに辛い未来だろうと、結末だろうと、徒花には徒花なりの美しさがあるに違いないから。

そこまで深く語らなかったが、長年を共にした石切丸は彼がそう伝えたがっていることを、察した。

組んでいた腕を解き、壁に預けていた背中を起こす。そうして石切丸に仕草で後ろをついてくるように指示し、翁は戻っていく。語らぬ背中に石切丸は止まっていた息を大きく吐き出し、顔をしかめながら濁った空気を吸い込んだ。

変なアイドルに「何処に行っていたんだ」と問い詰められている主を助け出すのは簡単なことだった。

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