「ぷちゅん」
昨夜から泊まっている恋人のために遅めの朝食を作っていた俺の耳に聞きなれない音が響いた。一瞬手を止めるが、空耳かと気にすることもなく、再び手を動かし始める。
「ぷちゅん、ぷちゅん」
おいしそうに焼けたベーコンエッグをフライパンからお皿に盛り付けていると、またその音が聞こえてきた。
「なんの音だろ?小鳥の鳴き声みたいな……わ!」
謎の音の出所を探ろうときょろきょろ首を振っていると、いつの間にか後ろに立っていた人物に気づく。
「びっくりしたぁ!起きたんなら声かけてよ、シズちゃん!」
ベッドから起きだしてきたばかりの恋人に小さく抗議するが、今だ夢の中なのかボーっと呆けている。
「シズちゃん……?」
よくよく顔を見上げてみると目が潤んでいて、顔も赤い。
もしかして、熱でもあるんだろうかと心配になって、慌てて額に手を当てようとした瞬間先ほどの謎の音が正体を現した。
「いざ………ふぁ……ぷちゅん!」
「!」
目の前の光景で、ああ、そうだったと思い出した。
これ、シズちゃんのくしゃみの音だ。
池袋最強の肩書きを持つ彼がするとは思えない、かわいらしいくしゃみ。
本人は恥ずかしいのか、人に見られないように隠れてするけど、その姿はもっとかわいいと俺は密かに思っている。
「シズちゃん風邪でもひいた?」
「ち……ぷちゅん……が……ぷちゅん」
かわいいくしゃみは今も止まらずにシズちゃんを苦しめていた。
昨夜うちに来たときは元気だったのに、鼻も詰まっているのか鼻声になっている。
「いざ……ぷちゅん……やべぇ……ぷちゅん……あの季節が……ぷちゅん……やって……ぷちゅん……きた……ぷちゅん」
あの季節と言われて、俺は急激に青ざめる。
慌てて、テレビをつけて天気予報をやっている番組を探し出す。
テレビでは全国の天気予報を終えると、毎年この時期――3月の春先――に頻繁に出回るようになる花粉情報を伝え始めた。
『今日は風に乗って大量の花粉が市街地に運ばれることが予想されます。
外出する際にはマスクをつけたりして、予防しましょう』
そう言って、お天気お姉さんなる人物が自分の顔につけたマスクを指差してみせる。
画面には大きく『花粉注意報・レベル5』と記されていた。
花粉が飛んでくる……いや、すでに見えないこの空気中に紛れ込んでいるのは明白だった。
同じくテレビに注視していた、くしゃみの止まらないシズちゃんに目を向ける。
目は痒く、鼻水が大量に生産され、くしゃみがひっきりなしにでてくる。
おまけに、顔は熱を帯びて思考がさえぎられて、頭はぼーっとして。
典型的な花粉症の症状ではあるが、シズちゃんの場合ちょっとちがう。
「いざ……ぷちゅん……きょうは……ふぁ……ぷちゅん……おれに……ぷちゅん……ちかづく……な……ぷちゅん!」
そう、花粉だけならシズちゃんはこんな症状はでない。
―――最悪なことに、花粉プラス俺!が近くにいると発症するのだ。
この症状が出たのはおよそ5年前。付き合いだしてすぐの3月中旬に、いきなり今のような症状がシズちゃんに襲いかかった。最初はただの花粉症だと思われたそれは、シズちゃんが一人または会社の人や家族・友人等といるときは全くといっていいほど、くしゃみや鼻水もでない。それに対し、俺がシズちゃんのそばにいると途端に花粉症でみられるすべての症状があらわれる。
なんで?
疑問とくやしさが湧き上がって、俺と俺以外の人間に一体どんな差があるのかその原因を知るべく、一度新羅に相談してすみずみまで調べてもらったが、解答は出なかった。
どうやらシズちゃんしか普段感じ取れない、俺から発せられるノミ蟲臭なるものが、花粉とおかしな化学反応を起こして、シズちゃんの体に悪さをしていると結論づけられた。
念のため、花粉症の薬を処方してもらったが、一向に効かず、症状をなくすには俺がシズちゃんから離れるしかなかった。というか、俺がそばにいなければ、シズちゃんはいたって普通に過ごせるのである。
そんなわけで、せっかく作った朝食もキッチンのカウンターとリビングのソファに別々に座って食べている。その距離、およそ3メートル。
「どう鼻の調子は?」
この状況に不本意な俺はぐりぐりと目玉焼きにフォークを刺して聞く。
「あーなんとか……おさまって……きた……くちゅ」
いろいろ試した結果、シズちゃんの半径3メートルに俺が入らなければ、症状は落ち着くらしい。(っていうか、シズちゃん鼻声でつらそうだ)
はあ……すっかりうっかり忘れていた。
今日は二人とも休みで久しぶりにゆっくり過ごせると思ったのに、今では昨日の夜にあれだけ密着したのが嘘のように離れている。
”俺に近づくな”
仕方ないこととはいえ、毎日喧嘩をしていた高校時代ならまだしも、恋人になったのにそんなことを言われて少し傷つく。
物思いにふけって食事の手を休めていた俺のそばに、いつの間にか来ていたシズちゃんが、くしゃみ混じりに話しかけてきた。
「うま……かっ……ぷちゅん……あとかたず……ぷちゅん……けは……おれ……ぷちゅん……が……くちゅん」
どうやら、後片付けを買ってでてくれたみたいだけど……
「いいよ。シズちゃんつらいでしょ。ってか、俺のそば来ちゃダメじゃん。ほら!あっちいって!」
そう言いながらシズちゃんの手からお皿を受け取って、リビングのほうへ背中を押す。
あーあ。
言ってて自分で悲しくなる。もうなんでなんでなんでなんでなんでなの!!
そんな不満が顔に出てたのか、シズちゃんが謝ってきた。
「わり……ぷちゅん……い……。きょ……ぷちゅん……どっか……いくか……?」
「どっか行くかって……、間に3メートルの距離をあけて一緒にお出かけになるの?そもそも、家の中でもこの距離保たなきゃいけないんじゃ、いっそ、今日はシズちゃん帰ったら?」
言った言葉にすぐさま後悔した。
シズちゃんは謝ってくれたのに、どうして思っても無いことを言っちゃうんだろう。
「いざ……ふ、ふあっ っくちゅん!!」
落ち込んだ俺に近づいたシズちゃんが盛大なくしゃみをする。
ほら、会話もまともにできないよ……。
「も、もう今ので唾とか鼻水がすごい飛んだよ?俺と一緒にいなければ……俺以外の人とならこんなつらい思いしなくていいんだし、今日は帰りなよ……」
またまた本心とは違うことを言った俺をじっと見つめてから、ティッシュで鼻をかんでそれをポイッとゴミ箱に捨てると、シズちゃんは何も言わずに出て行った。
はは……本当に帰っちゃった。何だよ、シズちゃんのばーか。
……なんて、うそ。かわいくないのは俺。自分だけが彼を困らせるのが嫌だった。
俺だけに反応するシズちゃんに少しムカついて、素直になれなかった。
たとえ、3メートルの距離があったって、一緒の空間にいられればそれで充分なのにね。
……やっぱりそばにいて欲しい!!
そう思い立つとすぐさま、玄関を飛び出す。エレベーターに乗って、チン、と一階に着いたことを知らせる音がしたと同時に駆け出そうとした瞬間―――――
どん
「すみませ……」
人にぶつかって謝りながら見上げると、そこにはシズちゃんが立っていた。
「シズちゃん……。戻ってきてくれたの?」
「ち……ぷちゅんぷちゅん」
俺が近づいたことでまた始まったくしゃみに話すことができないシズちゃんは、持っていたビニール袋を掲げた。
「?」
不思議に思って中を見てみると、そこには大量のマスクと目薬と鼻水を抑制するスプレーたち。
これって、花粉症対策で使うやつだ……もしかして、これを買うために出て行ったの?
「かえる……ぷちゅん……きなんて……ぷちゅん……さらさら……ぷちゅん……ねぇ……よ……。はぁーーーー」
シズちゃんは、くしゃみのせいでうまく話すことができないのがもどかしいのか、大きく息を吐いてから、一気に捲くし立てた。
「こんな症状へでもねぇよ!!どれだけ久しぶりに会ったと思ってんだ!!今日はお前と一緒に過ごすって決めたんだよ!!帰れって言われても俺は絶対帰らねーからな!!」
「し、しずちゃ……」
言い終えてから、さらに激しくなったくしゃみに襲われているシズちゃんの手をとって俺も本心を伝える。
「帰れ、なんて言わないよ……。さっきのはつい、くやしくて……だって俺だけに反応してシズちゃんつらそうだったし……。俺だって本当はそばにいたいよ。3メートルの距離だって遠い……」
そこまで言うとシズちゃんからやさしいキスが降ってきた。
ここがマンションのエントランスだということを思い出して、軽く口づけて唇を離す。
すぐにシズちゃんは、またかわいいくしゃみをした。
手をつなぎながら家まで戻る。
買ってきたマスクをしたシズちゃんが、ボソッと言った。
「よくもわるくも、俺が反応すんのは手前だけだ」
ふふ、そうだね。それでいいかも。
さぁ帰って、キスの続きをしよう。恋人たちの休日はこれから。
やっぱり二人の距離はゼロがいいね。
※ノミ蟲注意報※
甘い二人にご注意ください。
―――――
花粉症ネタ×シズちゃんのくしゃみがかわいかったら萌えるよねっていう話。