眠れない理由
「今日はもう帰ってゆっくり休め」
そうトムさんに言われて、初めて仕事を早退させてもらった。
なんとか定時までがんばりたかったが、立っているのもやっとな体と働かない思考。いたとしても、たいした仕事は出来ないだろう、と素直に甘えさせてもらった。
十日ほど前から眠れない日々が続いている。眠れないことがこんなにつらいことだとは思わなかった。目の下には隈が出来て、立ちくらみまでしてくる始末。よろける体を引きずって、なんとか家にたどり着いた。家に入ってすぐにベッドで横になる。無理矢理寝ようと目をつぶっても、あることが思い出されて睡魔をうまく誘えない。
考えるのをやめたいのに、ぐるぐると俺の思考をかき乱す。
原因は大嫌いなあいつの行動。理解なんてしたくもないのに、その行動の意味を考えては眠れない夜が過ぎていった。
それは十日前―――――
三日月の浮かぶ空の下でいつものごとくあいつを追いかけていた。池袋中を走り回り、ついに路地裏の袋小路に臨也を追い詰める。
「臨也ぁ、もう逃げられねーぞ!!」
「やだなぁ、シズちゃん。あきらめたらそこで試合終了だよ?」
そう言ってナイフを取り出して攻撃してきたあいつの腕を取って、間合いを詰める。そのまま、雑居ビルのコンクリートの壁に押し付け、一発ぶん殴ろうとしたその瞬間スローモーションのようにあいつの顔が近づいてきた。
ふに
俺の唇にやわらかいものが触れた。そこで、何秒経ったかわからないぐらい俺の時間は静止して、目の前の臨也の顔をじっと見る。
今、俺はこいつと何をしている?
またゆっくりと臨也の顔が離れて、あいつはペロリと自身の唇を舐めた。
「これで、許して?」
俺の唇に人差し指でそっと触れて囁く。
キスをされたのだと理解して、カーっと顔が上気する。
「なっっ!!?」
驚いて後ずさりすると、臨也はひらりと体をすり抜けて、「またね、シズちゃん」と言って去っていった。
俺はそれをただ呆然と見送ることしか出来なかった。
その日以来、俺は寝不足の日々が続いている。
目をつぶると考えてしまうこと。
なぜ、あいつはキスなんかしたのか?あいつは俺のこと嫌いだったんじゃないのか。単純に逃げるために?逃げる手段として嫌いな俺ともキスが出来るのか。
それとも……それとも、もしかしたら違う意味があるんじゃないかと思ってしまう自分がいて苛立つ。
そこにいきついて、そうであったならば、と心の隅で望む自分を振り切る。
あいつは俺が嫌いで、あのキスは単に逃げる隙を作るためで意味なんて無い……そう結論づけると、落ち込んでる自分がいる。
そして、ありえないことにキスされて心底嫌じゃなかった自分がいたことにも戸惑っている。
そんな風に、ぐるぐるぐるぐる考えては、結局答えはわからないまま、眠れずに朝を迎えている。
体は睡眠を欲しているのに、脳が考え出しては眠らせてくれない。
今日もまた、思考の波に飲まれようとしていると、コンコンと控えめに玄関の戸をたたく音が聞こえた。
誰だ?
トムさんでも心配して見に来てくれたのか。
それとも、昨日俺にも効く睡眠薬が欲しいと相談した新羅が薬を届けに来てくれたんだろうか。玄関を開けようと思うのに体が重くて、起き上がれない。頭の中ももやもやと霞かかっていて、うまく働かない。
ボーっと天井を見ていると、人の気配がして話し掛けられた。
その声は俺を眠れなくしたあいつの声だった。
「聞いたよ、シズちゃん。眠れないんだって?」
なんで……手前がここにいる?
「もしかして、俺が原因?」
ああ……そうだ。全部……手前のせいだ……
「俺があんなことしたから?」
そうだ……なんで手前は……俺にあんな………
「ふふ。シズちゃんが悩んでてくれたのがうれしい」
なんだよ……俺はちっともうれしくなんか……ねぇ
頭の中に入ってくる臨也の声が現実なのかわからないくらい朦朧としている。
「だから、特別に眠れる呪文をおしえてあげる」
呪文て……何だよ……おれはこどもじゃ……ねぇぞ………
俺の上に影が出来て、臨也が近づいたのがわかった。
ギシ、とベッドが唸る。
そして、横になる俺の耳元で臨也がポツリと言った。
「好きだよ、シズちゃん」
それを聞いて、体がピクリと動いた。
は……なに言ってんだてめ……どういうことだ………
ふざけんなよ、といつものようにキレたかったが急激に襲ってきた睡魔に勝てずに俺は久しぶりとなる深い眠りに落ちていった。
臨也の言葉が反芻される。
「好きだよ」
そっか
”よかった”
頭の片隅で、答えが出たことになぜか安堵しながら。
「おやすみ、シズちゃん」
そう言って、臨也が俺に二度目のキスをしたことも知らずに。