「今日提出の英語のプリントやった?」
「あー、あの英作文のやつだろ?面倒くさいと思って放置してたから昨日寝る前に適当にやっつけた」
「僕も昨日の夜慌ててやったよ。結構夜遅くまでかかっちゃってさ」
「だから今日はいつも以上になかなか起きなかったのか」

年が明けてから三郎は僕があげた耳当てを着けて、僕は三郎がくれた手袋を着けて毎朝登校している。ペアルックとも少し違うけれど、クリスマスにお互いプレゼントした物を身に着けていることを意識すると何だかむずむずしてしまう。三郎はこういうこと、あまり恥ずかしいと思わないタイプみたいだ。昔と変わらない。
クリスマスに二人で出かけた日の帰り際、公園で後ろから抱き締められて以来、三郎が僕に向ける気持ちが友達に対する物から逸脱しているんじゃないかと、期待と心配が入り混じった気持ちになっていた。三郎が僕に近付いてくれるほど嬉しいけれど、周りから僕たちはどんな風に見えるのだろうかということも気になる。僕自身の三郎に向ける気持ちが普通じゃないから客観的に捉えるのは難しい。

「んー」

三郎が自転車を押して歩きながら僕の顔を覗き込む。僕は気まずく思って首を後ろに引いた。

「何?」
「いや、隈ができてるんじゃないかと思ってさ」
「そこまでは夜更かししてないよ」

どきどきする。顔を覗き込まれるだけで嬉しくて心満たされる気持ちと、恥ずかしくて逃げ出したい気持ちが同時に沸き起こる。この突き上げるような衝動はずっと前にも感じたことがある。まだ、両想いになる前に三郎に恋をしていると自覚した時。だけど、昔はこんなに苦しくなかった。少なくとも後ろめたさや罪悪感を抱えながら彼の隣に立つことはなかった。むしろ三郎を特別に思う気持ちは僕にとっての自信や誇りでもあった。それに比べると今は自分が酷く弱い人間になってしまったように感じる。

「本当かぁ?」

三郎が僕の頬をむにっと摘まむ。顔が近い、と思うと頭に血が昇った。これって友だち同士のじゃれ合いの延長だって言えるのかな。

「やめてよ」
「顔赤くなってる。雷蔵ったらウブで可愛いんだからぁ」
「うるさい」

落ち着け。休み時間にじゃれ合ってるクラスメイトだって、他にいくらでもいるじゃないか。何もおかしなことなんてない。
僕は昔、彼にどんな態度を取っていたのだろう。昔の自分に訊ねたい。夢で得られる情報は断片的で、まだわからないことも沢山あるし、自分が見たいと思う場面を見られる訳じゃない。自分が忍務に失敗して命を落としたのは何度も夢に見たけれど、その前後の細かい状況まではわからない。あまりつらい思い出を知ってしまうより、知らないままでも良いかもしれないという気持ちもあるけれど、何となくずっと靄がかかったような気分だ。そんな中で前世の記憶にある三郎への気持ちと、今、目の前にいる三郎への気持ちにどう整理を付けたら良いのか、わからなかった。



「う、う……っ」

何だか苦しい。だけど、決して嫌な苦しさじゃない。何よりも安心できる温もりに包まれている。安らぎと突き抜ける衝動。矛盾する二つの感覚が重なる瞬間。そしてどこまでも突き抜けるような開放感と共に自分自身の存在が無限に広がって行く。

「……はぁっ、三郎、三郎っ!」

助けを求めて伸ばした手を柔らかな手が受け止める。

「ここにいるよ、雷蔵」
「う……?」

僕は目を開けた。自分が今どこにいるのか、わからなくなる。ぼんやりしていた視界が次第にくっきりと色を取り戻す。三郎の顔、正確に言えば三郎が変装する僕の顔が目の前にあった。

「もしかして一瞬気を遣っていたか?」

僕を見詰める鋭い視線にどきりとする。三郎の顎を伝った汗が僕の胸へしたたり落ちた。

「え?僕が?」

僕は困惑しながら上半身を起こした。上手く体が動かせない。僕は辺りを見渡した。床に脱ぎ捨てられた袴と足袋が目に止まる。目の前の三郎は着物の前を大きく開き、汗だくの額を手甲で拭う。同じく前を肌蹴た僕は下に何も身に付けておらず、三郎に向かって大きく足を開いていた。まだ半分首を擡げた三郎の性器があった。綺麗な形をしている。三郎はそんな僕の熱い視線を知ってか知らずか、近くにくしゃくしゃに丸まった手拭いを引き寄せて僕のお腹の辺りを拭う。

「井戸まで水浴びに行くか?」

三郎が僕の頬に伸ばしかけた手を引っ込める。お互い汗だくだから、触るのを遠慮したのだろう。

「まだ汗を掻くのに?」

僕は背中にぺっとりと張り付いて鬱陶しい着物から腕を抜く。

「確かに日が暮れるまで時間はあるが、このまま着物を着る気はしないよ」

雷蔵だってそうだろう、と言う三郎は何もわかってない。たまにこういう天然なところがあるのを可愛いと思うけれど。

「そうじゃなくて」

僕は機を逸しないよう、体を起こし、三郎の大事なところを柔らかく手で包む。

「もう少しだけ、駄目かい?」

裸の肩に頭を預けて三郎の目を見る。ここからさらにどう落とそうかなんて、考える必要はなかった。つい今まで狩人のように鋭く光っていた三郎の目はすぐに潤み、何かを欲するような甘えた視線を送る。

「じゃあ、今度は」

三郎が僕の肩へ手を掛ける。

「いいよ」

三郎の望むことを瞬時に察した僕は微笑んで頷いた。



「あ……」

声を発すると同時に目が覚める。部屋の中はまだ暗い。今、何時だろう。ぼんやりした頭で枕元の時計を睨む。まだ3時か。

「あれ、三郎は」

僕は隣を見た。三郎がいない。ここはどこだ。そこで夢を見ていたことに気がついた。ここは僕の部屋だ。僕が寝ているのは小学校一年生の頃から愛用している一人用のベッドだ。そして、今の三郎と僕は恋人同士じゃない。ずき、と疼く胸を抱えて再びベッドに沈み込んだ。そっとズボンの中に手を差し込む。よかった。汚れていない。胸に手を当てるとトクトクと心臓が静かに鳴っている。夢の続きを見たかった。過去に恋人として体を合わせていたのだろうということは、これまで見た夢の断片的なシーンで何となくわかっていたけれど、あんなにリアルな夢を見るのは初めてだった。暗闇に慣れた目で自分の手のひらを見る。三郎に触れた温もりをありありと思い出せる。三郎に触れたい。必死に蓋をしていた自分の気持ちが溢れ出してきた。僕の夢が本物の前世の記憶でも、ただの幻想でも関係ない。僕は今を共に生きる三郎と愛し合いたい。この胸に宿る熱だけは疑い用のない真実なのだ。この持て余して仕方のない気持ちの遣り場を僕は一体どうしたらいいのだろう。



「雷蔵。雷蔵?」
「……んぇ?」
「今、何か別のこと考えてただろう」
「何を根拠に」

僕はちょっと強気に口を尖らせた。

「雷蔵の得意な古文なのに、さっきから全然手が動いてない」

三郎は本当に僕のことをよく見ている。実際に僕は目の前の問題文を読まずに三郎のことを考えてた。シャーペンを握る手が綺麗でドキドキするなぁって。僕より細く骨ばった白い指。その手を握れたらどんなにいいだろう。最近は毎日、放課後に三郎が僕の部屋に上がり込み、一緒に勉強している。期末試験が間近に迫っていた。僕たちの高校は有名私立大学の付属で、学年で上位の成績を取ればそのまま進学できる。就職にも十分有利な学歴になるから、内部進学希望者は多い。その一人である僕にとって、高校二年の期末試験は決して手を抜けない。

「進路のこと、考えてたんだ」
「雷蔵はうち以外の大学も受験するの?」
「滑り止めでいくつか受けることは考えなくちゃいけないと思っているけど。入りたいと思ってる研究室もあるし、取り敢えず内部進学を目指してる。三郎は?」
「俺も同じ」

三郎は何だか鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌な様子で数学の問題集を閉じて、今度は英語の参考書を鞄から取り出した。

「あれ、外部受験メインって言ってなかったっけ?」
「今決めた」
「どこの学科志望?」

三郎がすっと僕の胸に向かって人差し指を突き出す。僕は何かゴミでも付いてるのかと思わず自分の胸元を見た。何も見当たらなくて顔を上げると、自信に満ちた三郎の瞳にぶつかる。

「俺の第一志望」
「え?僕と同じ?だって三郎は理系じゃないか」
「学科は別だけど、大学に行っても雷蔵と一緒にいたい。雷蔵が俺の第一志望ってこと」

三郎がにぃっと笑う。

「は……はぁ?」

一瞬にして顔が熱くなった。素直に照れてしまって取り繕うこともできない。すると言った三郎も笑いながら少し顔が赤くなっていた。恥ずかしいことを言っている自覚はあるらしい。

「何だよ、それ」

いつもみたいに笑って流そうとしたのに、うまく笑えなかった。本当に何なんだ。どうしてお前は、こうも僕の欲しい言葉をあっさりとくれるんだ。相手の胸に真っ直ぐ自分の思いをぶつけるそんな勇気、僕にはない。今も折角くれたお前のその好意をまた見なかったふりで済ませようとしている僕は何て卑怯な人間なのかと思い知らされる。こうして僕が度々逃げようとするのは、いつかそれを繰り返すうちに早くお前の気持ちが消えたのを確認して、安心したいからだ。でも、それで僕自身は幸せだろうか。僕以外の人を愛する三郎の姿を遠くから見つめながらきっとずっと後悔を背負って生きることになる。もう僕から受けた傷の痛みなんてとっくに忘れ、前を向いて歩くお前を見て、そんな資格なんてないのに、僕は情けなく泣き崩れるんだろう。三郎がいない人生なんて、考えられない。そんなの、生きている意味がない。

「……ごめん、雷蔵。別に俺は雷蔵の傍にいたいだけで、ずっと友だちでいられたらいいなって思ってるんだ」

相当酷い顔でいる自覚はあった。あんなに勇敢だった三郎はそんな僕の表情を見てすっかり士気が下がってしまったようで、気まずそうに、それでもどこまでも誠実に僕に向き合う。
実は三日前、僕は三郎にキスされそうになった。遡ること十日前、「雷蔵はお菓子だったら何が好き?」と突然訊かれ、「割と何でも好きだけど」と答えると、「じゃあ、一番好きなのは?」とやたら期待を込めた目で見られたものだから、「うーん」と悩んでしまった。僕は何か一つの物を選ぶということがすごく苦手だ。ちなみにこの優柔不断な性格は前世から治らない。すると、「じゃあ、クッキーは好き?」と三郎が質問を変えてくれたので、素直に頷いた。それが何のための質問なのか、三郎は結局教えてくれなくて腑に落ちない気持ちでいたのだけれど、その翌週、帰り際に三郎は僕に「バレンタイン前の試作」と言ってクッキーの入った袋を渡した。三郎の自転車を停めている校舎裏の駐輪場まで歩きながら、シンプルなラッピング材で包装され、とても試作品レベルではなさそうなそれに、「こんなに綺麗なクッキー、三郎が作ったの?三郎は本当に器用だなぁ」と感心しながら、嬉しい気持ち半分と試験前なのにクッキー作りなんて大丈夫なのかという心配の気持ちとが半分だった。三郎は得意気に笑って、「味の感想教えてくれよ。本番までに改善するから。あ、これ持ってて」と僕に自分の学生鞄を渡した。自転車置き場にギチギチに停められた自転車の中から自分の自転車を引っ張り出す間、僕が三郎の荷物を持っておくのはいつもの流れだ。でも、その日、僕はまだ左手に三郎のクッキーを持っていた。鞄に気を取られた時、手の中のクッキーの袋が滑り落ちた。頭が真っ白になる。「あ!」という僕の声に三郎が振り返り、僕の視線を辿って地面に落ちたクッキーの袋を見た。僕は慌ててクッキーの袋を拾ったけれど、そのほとんどが割れてしまっていた。「うわっ、ごめん!」と謝ったら、「いや、俺がよく見ないで鞄渡したせいだよ。雷蔵は悪くないって」と三郎は言ってくれたけど、三郎の性格を考えると、きっと何枚も焼いたうち、綺麗にできた物を選んで丁寧に入れてくれただろう。そして、放課後まで割れないように大切に運んで僕に渡してくれたのだ。それを台無しにしてしまったと思ったら耐えられない気持ちだった。もう割れて元に戻らなくなってしまったそれは、僕が三郎の心を粉々に砕いてしまったかのよう。「本当にごめん……。ちゃんと大事に全部食べるから」と謝りながら三郎の顔を見れなかった。三郎はそんな僕に近付いて来て、僕の頬に手を添えた。

「そんな顔しなくていいって」

三郎の顔がすうっと自然に僕に近付く。純粋に、え、何だろうと思った。そうしたら頬と唇が触れる直前で三郎はぴたりと止まった。その代わりに頬と頬が一瞬くっ付き、離れた。ははっと三郎は笑って、何事もなかったように自転車を引っ張り出して、「さ、帰ろうぜ」と爽やかに言う。そんな三郎を見たらちょっと元気が出て、そのままいつものように二人並んで帰ったのだけれど、その時にはっきりと三郎は僕を恋愛対象として見ているのだと悟った。それから、僕はいつか三郎にも僕の気持ちをはっきり伝える日が来るだろうと思うようになった。単なる友人同士のつもりでこの先ずっと居続けるのは難しい。結果がどうなるとしても、一度はありのままにお互いの気持ちを曝け出す必要がある。そうでなければ、友人でいることも難しいだろうと、そう思っていた。でも、その運命の分かれ道がまさかこんなに早く来るなんて。
僕は机の上に置かれた三郎の手を握った。僕の顔を恐る恐る覗き込んでいた三郎が驚いたように僕の手を見る。僕から三郎にこんな風に触れるのはよく考えたら初めてかもしれない。

「僕はそれだけじゃ嫌だ」

この手の感触。初めて握る筈なのに僕はこの感触を大昔から知っている。一度触れてしまったらもう後には戻れないという気持ちになった。どんなに言い訳をしたって、自分だけは自分の心から逃げられない。

「三郎のことが、好きだ」

もう試験勉強どころではない。勇気を出して僕は三郎の目を見た。三郎はただただ驚いていた。その顔を見て僕の心臓が勝手に暴走を始める。僕にはこの手を振り払われた記憶がない。だからこそ、今、初めて振り払われるとしたら、と想像したら怖くなった。いくら何でも早まり過ぎたかもしれない。だって、三郎にしてみれば、転校先のたまたまそっくりな顔のクラスメイトにちょっと淡い気持ちを抱くという、至って健全な男子高校生としての恋愛感情を抱いているに過ぎないのに、それに対して僕は、前世で生き別れた恋人との思い出を背負いながら、目の前の三郎をこれから生涯愛することを願っている。冷静に考えるとあまりにも重すぎる。反対の立場だったら、逃げ出したくなってもおかしくない。三郎に引かれないよう、何かしらフォローしなければいけないと思った。

「でも、その……何ていうか、別に……さ、三郎っ?」

三郎が突然ぎゅっと僕の手を握り返した。彼は声も出さずに両目からぽろぽろと涙を流していた。
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