途切れた糸 | ナノ
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「劉禅様、お呼びですか?」



がらり、と劉禅の私室の扉を開く。本当は心の何処かでまたここにいないのではないのかと思っていたのだが、ちょこんと机に向かって書を読む劉禅の後ろ姿を見つけ安心する。
姜維、と劉禅は少しだけ穏やかな表情を見せる。その時にかさり、と冕冠の揺れる音がする。その音は姜維が好きな音であった。しかし同時に、劉禅よりもはるかに背が高い姜維にとって、冕冠とその珠飾りは尚更劉禅の顔を隠してしまうため複雑な気持ちであった。
こんなにも顔が見たいなどと思うことは初めてであったので、姜維は尚更もやもやする一方であった。



「何か御用でしょうか」

「ここで呼んだだけだと言ったら姜維は困るだろう?出掛ける支度で忙しい中、さすがに私でもそんなことはしないぞ」



その言葉に姜維は思わず苦笑する。図星であった。今日は魏軍に向けての長期遠征の出発の前日である。
前に司馬懿が率いる軍に勝利したが、天候の悪化のため兵糧が尽きてしまった。そのため撤退せざるを得なかったのだが、それ以降から始めての長期遠征である。恐らく魏には蜀の兵糧が少ないことは知られているであろう。そのため今回の進軍はどうなるのか、予想がつかなかった。
更に師である諸葛亮の様子も僅かだがおかしく感じた。このような重大な遠征でも、策の殆どを姜維に託していた。ここまで信頼されているのかと考えれば嬉しいことこの上ないのだが、外の木々を時折揺らす冷たい風が姜維の心もざわつかせた。



「では、どのようなご用件で?」

「これを貰って欲しい」

「糸、ですか……?」



細い指から渡されたものは白い糸であった。とても小さなものだが、装飾として付けられた淡い翠色の珠が存在感を示していた。
劉禅は笑いながら御守りだ、と少しはにかむ。普段こんなことをしないものだから、何かあったのかと少し不安にもなったが姜維は口元を緩め、拱手する。



「ありがとうございます」

「堅苦しいぞ。そうだ、姜維。少し屈んでくれないか?」




こうですか、と劉禅の前で膝を付く。その時、劉禅の表情がはっきりと見えた。笑みを浮かべているもののどこか不安そうな、悲しそうな表情であった。普段と違う見方をすればこんなにも見え方が違うのかと、姜維は戸惑った。
しかし、劉禅の不安そうな表情は一瞬で、またいつもの笑みに戻る。まるで気のせいであったのかと錯覚してしまうほどに。
劉禅は姜維の後ろにゆっくりと周り、姜維の頭に顔を近づけた。僅かに冕冠の珠飾りが頭に触れて、劉禅との距離の近さを感じる。



「何をしているのですか?」

「あまり頭を動かすとうまく結えないぞ」

「……まさか、髪飾りにつけて?」



そうだ、と後ろから声がする。ここなら、落とすことなどないからなと言葉を付け加えながら、劉禅は姜維の髪飾りに合わせて糸を結う。
櫨色の綺麗な髪に触れると、さらりと指から零れ落ち、心地よさを感じる。



「これは私の大切な願がかかってる御守りだ。だから、無くさないでほしい」

「劉禅様から貰ったものですから、無くしませんよ」



それは良かった、と劉禅は微笑む。この時、一体どのような願いをかけたのか何故か聞こうとはしなかった。
そろそろ戻りますね、と姜維は立ち上がり、無事帰ってきますと劉禅に再び拱手をする。



「……秋にしては、寒い風だなぁ…………」



姜維が部屋から出て、一人になった劉禅は呟く。扉の間から僅かに吹く風が、先ほどまで読んでいた書物−−−日記を捲る。
途中から白紙であったそれは、最後の頁まで何も書かれておらず、裏に小さな文字で一文だけ書かれていた。



「臥龍よ、覆水盆に返らずという言葉だけは知りたくなかった」



隙間風の冷たさに思わず身震いをして、劉禅はそっと扉を閉めた。



fin.

14.02/08






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