境界線
静けさが広がる。
かつては小さな村があったはずのこの地は塵屑しか残っていない。策略のために用いられた火計の威力を表すかのように、一晩明けた今でも瓦礫の隙間に灯が隠れている。
生命の活動をしているものは何もいない。それくらいこの地には無という言葉が相応しかった。
その無の中に立ち尽くす二人の兵卒。この戦の勝者陣営である蜀の者だ。
先程から崩れた瓦礫をどかしては目的のものを探す。しかし見つかるのはまだ仄かに温かい灯と、突如巻き込まれた戦から逃げることが出来なかった村民の屍しか見つからない。
「見つかりましたか?」
丸一日かけても見つからず、既に諦めかけていた二人の背後から声が響く。
その落ち着き払っている抑揚のない声に自然と身体が震えた。ゆっくり振り向けば、黒い世界には不釣り合いな白の羽扇がまず目に入る。
この探索を命令した人物は、じっと二人の様子を見る。それだけのはずなのだが、呼吸することさえ出来なくなるくらい、自分達の総てを見られているような気がした。
「…丞相、見つかりませんでした」
ようやく口が言葉を発することが出来た。しかし、誰が聞いても震えている。それくらい兵卒達の間では諸葛亮という男の存在を恐れられていた。
口元を羽扇で覆っているため、どのような表情をしているかわからない。もしかしたら機嫌を損ねているのかもしれない。そしたらどんな処断をされるのか考えもできない。そんな負の言葉が兵卒達の頭の中で巡っていた。
しかし、諸葛亮から返ってきた言葉は意外なものだった。
「でしょうね。もう下がっていて結構です」
陣地に戻ってしっかり休んでください、と淡々と言うものだからそれこそ口から何も出なくなる。
この人はもう自分達を見ていない。諸葛亮の瞳は兵卒を捉えていなかった。はるか向こうの、どこかを。
この人は狂っている−−−、
ただ、それしか頭を支配するものはなかった。
焦げ臭さに顔をしかめながら村の残骸の中を歩き続ける。
一昨日からずっと眠っていないのだが、この先にあるものを考えるだけで自然と疲労を感じることはなかった。
焦げた村から離れ、暫く歩くと見える森。そこは先程とは違い木々の生きている香りがした。
「そろそろ出てきてください」
それほど大きな声ではなかったが、静かすぎる森の中では十分すぎるほどで、緑葉が諸葛亮の声を響かせる。
かさり、と葉が擦れる音がする。風によってではない、人によって除けられることによって生じる音。
その音が徐々に諸葛亮に近付く。だが諸葛亮は動かず、ただその音のする茂みの方を眺める。
「……何故、分かった」
出てきたのは蜀とは対照的な赤を基調とする衣服を着る男。だが、身体中傷だらけで獲物である真紅の棍で身体を支えるのがようやくのようだ。
彼が纏っている警戒心。いや、殺気にも似たそれは諸葛亮を今にも飲み込まんとしている。
いえ、と諸葛亮はその殺気など気づいていないように平然と言葉を続ける。
「炎を用いれば村にまず安全な場所はない。しかも兵力は突然の戦のために全くと言ってもいいほどない。逃げられる場所となると…」
「なるほど、貴様よりも地の利のある森に隠れるだろう、ということか」
周瑜の漆黒の双眼は諸葛亮を捉える。
やはりこの者には敵わない。それは嫌でも理解せざるを得なかった。
赤壁での戦いからこの者をどうにかしなくてはと思っていた。−−−このようなことが起こる前に、と。
しかし、周瑜にはまだ理解ができないことがあった。どうして急にこのような戦を起こしたのか。この地は蜀にはまだ必要ではないはずだ。それに、呉との戦などまだ早い。
「…どうして、このようなことをしたか分からないみたいですね」
周瑜の思っていたことを察したのか、諸葛亮は口元を緩ませる。その笑みは嫌いだ。眼は笑っていない、何を考えているのか分からない笑みが。
前にも赤壁の戦いで一度だけ見た。周りは火の海なのに背筋が凍りつきそうで、この笑顔が周瑜を諸葛亮を警戒するようになった原因とも言える。
「蜀は、呉とまだ戦うには早いはずだ」
「えぇ、この戦は劉備殿にも言ってません。蜀の戦いではありません。私自身が引き起こしました」
その言葉に思わず目を見開く。いや、しかし確かにそうかもしれないと周瑜はすぐ納得した。
仁の世。それが劉備が理想とする国。それを掲げるはずの蜀が、農村を襲うなど劉備がまず許さないだろう。
しかし、なら諸葛亮の目的は?劉備や蜀のためではないならば、一体何故−−−。
ぐるぐると頭の中を巡る可能性を吹き飛ばすかのように、静かに落ち着きのある声が貫いた。
「ただ、貴方が欲しかっただけです」
「……は…?」
自分でも分かるくらいに声が震える。今、彼が言った言葉が信じられなかった。いや、この男なら有り得ることだからこそ余計恐怖心が増幅した。
前にも一度同じようなことがあった。赤壁の戦いの原因にもなった、あの言葉を思い出す。
−−−曹操の目的は、貴方の奥方です。貴方の奥方が欲しいだけなのです。
今思えば、この言葉も諸葛亮の策略だったのかもしれない。これが原因で周瑜は曹魏と戦うことを決め、見事に勝利した。そして三國がいがみ合うようになった。
あの時曹操への怒りのために周りなど見えていなかったが、今思い出せば諸葛亮は今と同じような背筋が凍りつくような表情をしていた。
「…貴様は、狂ってる」
「狂ってる?貴方のためなら赤壁や村を紅く染めることも容易いことです」
ようやく出た言葉も認めたくない事実によって打ち消されていく。
自分のせい。それが周瑜の頭の中を徐々に埋め尽くす。
まるでこれを望んでいたかのようだ。他のことを考えられなくさせるかのように、諸葛亮は周瑜を追い込む。
「今回は忠告です。次は、容赦しません」
「……どういうつもり、だ」
忠告。
それだけのために多くの人の灯火が燃え尽きた。表情を窺うが、どうやら本当に何の躊躇いもないようだ。
更に考えられないようなことをするかもしれない。それが周瑜の凍りついた原因だったことに気付くには、あまりにも容易かった。
「貴方を手に入れると言っているだけです」
ただそれだけのことです、と諸葛亮は笑う。劉備に見せるような笑みではない、己の欲望が僅かに見え隠れするような黒いものであった。
今日はもういいです。諸葛亮はゆっくりと周瑜から視線を逸らし、先程通った道を歩む。後ろから静止する声さえ聞こえたが、それは諸葛亮には聞こえなかった。
ただそれだけ、もう一度自分に言い直すように呟く。
「……貴方が拒むなら、貴方の心なんていりません。ただ、死んででも近くにいれば良いだけです」
しんと静まった森にその声は響くことはなかった。
fin.
13.07/20
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