甘えたがり | ナノ
-1-




カタン、

書簡が床に落ちる音で陸遜は目を覚ました。
机から落ちた書簡に手を伸ばす。が、整然と並ぶ文字の上に黒い墨が零れているのを見て溜息を漏らす。
折角書いたというのにこれではやり直しだ、と陸遜は転寝していた自分を恨みながら、疲労のせいで硬くなった肩を伸ばそうと背伸びをする。
とても気持ちの良い風が紅い葉を落とす中、先日新兵として呉に忠誠を誓った兵卒の訓練の声と、遠慮しているかのように雀の鳴き声が耳に入ってくる。



「よぉ、眠そうだな」

「暇なんです。…文官の仕事ばかりではないですか、最近」


ふと後ろから声がする。振り返れば君主である孫策が、先程からずっと処理していた書簡を眺めながら座っていた。
何時の間に、と思うものの仕事をいつもそっちのけで何処かに逃げている彼の神出鬼没は既に知っている。だから大して驚くことはなかったのだが、ついじと目で君主の顔を見る。
その視線に気付いたのか、孫策は笑いながら書簡を元の山の上に置き、膝を擦りながら陸遜へ近寄る。


「それほどおめぇの知恵が必要ってことだ」

「御冗談を。周瑜殿に同じこと言えますか?」

「…ほんとずばずばと言うよな」


そこがいいんだが、と言葉を付け足す。譲歩する言葉が付け足されなくても別に不快にはならなかっただろう。
それがこの孫呉の君主の魅力。陸遜は少なくともそう思っていた。

かつて陸家は孫策に攻められたことがあった。仕えた当初は復讐などと考えていたこともあるが、孫策の全てを包み込むような性格に自然とそんな気持ちも薄れていった。
きっと孫策は陸遜のことを気に留めているだろう。他の者に対しての接し方より親密だったりする。人間観察が人より長けている陸遜は、それが分かっていたからこそ孫策を嫌いだとは思えなかったのだろう。


「それで、ただ仕事から逃げたいるだけではないのでは?何か用でしょうか」

「あぁ、周瑜のことなんだけどよ」


それを聞いて、文字を書いていた筆が止まる。周瑜殿、と呉の大都督の名前を自分に繰り返し言い聞かすように呟き、孫策にようやく向き直る。
孫策を嫌いになれない理由はもう一つある。周瑜のことを密かに想っていることを知っており、それを少なくとも応援してくれているところ。
誰にも分からないように振舞っていたつもりなのだが、どうやらこの人には隠し事が出来ないらしく、しばしばからかわれる。しかし、同時に周瑜と同じ戦場に立たせてくれたり、軍略を二人で考えるように任せられることもあった。
それが陸遜にとって本当に有難いことだった。


「暫く周瑜を休ませてぇんだよ」


しかし、孫策から出た言葉は意外なものだった。普段は少なくとも仕事のことでの頼みだった。しかし、今回は違った。
陸遜は眉を潜ませながら、孫策の様子をじっと見る。普段の明るい表情とは違い、真剣なものだった。


「…何故、私にそのような話を」


勿論陸遜にとってこの上ない素晴らしい提案だった。きっと孫策以外の人なら喜んで引き受けていただろう。
しかし、周瑜とは義兄弟である孫策だからこそ疑問に思った。
そのような私情な内容なら、孫策のほうが言いやすいはずだ。そして一緒に休むことだって容易なはずだ。
孫策は陸遜の考えていることを察したようで、ぴんと張り詰めた空気を崩すように軽く笑ってみせる。


「や、俺は明日からここにいねぇ。いないから周瑜はその分頑張ろうとするからな。勿論その間の仕事は他の奴らに任せてある」


だから若輩であるお前にしか頼めないんだ、と孫策は陸遜の肩を軽く叩く。きっと無意識のうちに陸遜の顔はしかめっ面になっていただろう。
けれどこれほどまでに、しかも君主に頼まれては断ることは出来なかった。本当は嬉しいはずなのに、と自分の頭の中の矛盾にさえ嫌になりながら軽く頷いてみせる。


「…分かりました」


頭の中では最近前以上にも痩せてしまった想い人を浮かべながら、ぽたりと墨をこぼしてしまいにじんでしまった書簡を遠い目で見つめる。
まるで木葉の落ちる複雑な季節のように頭の中はぐちゃぐちゃだった。


fin.

12.10/08






BACK/TOP
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -