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パタン、
竹中がこの教室から出てから暫く経ち、漸くピアノの蓋を閉める。
名残惜しかったが、明日もいつだって弾けるのだから、少しの辛抱だと言い聞かせる。それは毎日のことで、それくらいこの音に依存しているのだと感じさせる。
そしてこの教室の唯一の机の上にあるノートに視線を移す。先程竹中と僅かながらも“会話”をしたので、真っ白のノートの1ページは黒い文字で埋め尽くされている。
普段ならノートのほんの2・3行しか使わない毛利なので、その一面真っ黒なページが珍しく思えて、嫌々とあの時は言っていたが実は誰かと“会話”をしたかったのだと感じさせる。
―――ピアノの音よりも、
この部屋にいるときのなかでピアノを奏でている時間よりも他に何かをするなんてことはほとんどなかった。ましてや“会話”で過ごすなんて―――
もしかしたら彼との出会いが自分を変えたのかもしれない。いや、それは自分の急激な変化を恐れて正当化させている言い訳かもしれないが、そう思いたかった。
―――いつかこのノートが要らなくなるだろうな。
最初は写していたり、自ら作った楽譜のためのノートだったのだが、“あの日”からこのノートの用途に会話を書き記すというものが増えた。そのせいで最初の頃よりも三倍ほどに膨れ上がったノートは、自分の気持ちが積もった大事なものになった。
日記とは違うが、ページを捲ればの思い出は蘇るはずなのだが、一度も白いページよりも前を捲ったことはなかった。
こつ、こつ…、
軽い鞄を肩にかけてその教室から立ち去ろうとする。
そのときにほとんど人がいない時間なのでいつもは無音の校内に、微かに音が響いているのを耳にする。
教師にしては慌ただしいそれに疑問に思いながらも、教室の扉を開ける。
「……あ」
言葉が発せられないといっても言葉らしくない、いわゆる“文字”は言える。喉の奥から出すとは少し違うが、所謂会話にはならない煩わしい音だ。
だから、毛利は喋ろうとはしない。その一文字で自分の気持ちは表すことは出来ないのだし、喉が痛くなるからだ。
けれど、無意識に出た文字は自分の気持ちをこれ以上にないほど表していた。
―――まるで、我みたいな。
暗い空に広がる鱗雲はとても綺麗で儚かった。
きっとこの雲も自分と同じなのだろう。
こうやって見た目だけで解釈されて、綺麗だとか天気が悪くなるだとか言われるだけ。
ただ、この広い空に自由奔放に浮いていたいだけなのに。
分かってくれるのは誰もいないのだから。
こつ…こつ…、たたたっ…っ!
そんな空は黒い文字で影で覆い隠された。
Fin.
11.10/21
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