(雪男と)

逃げよう。
もう嫌だ、逃げよう。

そう決めたならばあとは早い。なまえは必要最低限の荷をまとめ始める。逃亡は身軽が一番いい。カバンに必需品を詰める最中、黒光りする凶器に指先が触れた。はて、これは必要か不必要か。
出来ることなら不必要でありたい。物騒だし何より重い。身軽な旅には似合わない。しかし現実は非情なので、逃亡というくらいならば必要になる可能性もある。例えばこんな時。

「手を挙げてください」

後頭部に押し付けられた銃口の硬さ。それと若い声。背後には鬼神のような表情を浮かべた子供がいると思うとひどく申し訳なくなってしまう。

「奥村ぁ、早すぎ」
「お褒め預かり光栄ですね。では僕が引き金を引いてしまわないうちに荷を解いてください。どこに行くつもりですか」

いわゆる絶対零度という声は年下のくせに威圧的だ。実に生意気である。
第一上司に対する態度とは思えない。お互い連続任務の不眠不休で気が立っているにしても、もう少し上司を敬ってくれてもいいんじゃないだろうか。しかし数時間前に見た隈がしっかり出来ていた年若の祓魔師の表情は痛ましいくらいだったことを思い出し、なまえはその態度を許してやることにした。

「はぁ。奥村ぁ、お前はメフィストの犬か?」
「ふざけないでください。僕は一祓魔師です」
「ならあいつの言うこと聞く必要はないさ。ふたりで行こう。永遠の楽園へ!理想郷に行こうじゃあないか!」

元から撃つ気なんてなかっただろう。それとも判断能力が鈍っていたか。はたまた度胸が足りなかったのか。なまえが雪男の手を払えばあっさりと銃は空中に弾き飛ばされた。
雪男の視線は銃の行方を追っている。なんてことだ。戦闘態勢中に目標から視線を外すだなんて命知らずもいい所である。普段ならば絶対にありえないはずだ。こんなミスを犯す人間ではないとなまえは知っていた。それ程までに、雪男の神経はすり減らされていたということだろう。

「おやすみ」

姿勢を低く足払い。重心を失った雪男の体は弾倉や聖水などを幾つも仕込んだそのコートの重みに引きずられ、地面にへと吸い寄せられていった。







「・・・!!!!」
「奥村ぁ、寝起き一発にチャカ向けてくるのはどうかと思うわ」
「・・・なまえ、さん・・・?」

ぼんやりと歪む視界の向こうから聞こえてくる上司の声。目を細めて姿を確認しようとすると、ぼやけた肌色が黒縁のメガネを差し出した。雪男は大人しくそれを受け取り、声の主を確認する。
素足を曝け出すサンダルに生足が眩しいデニムのホットパンツ。シャツはぴったりとしたデザインで胸をひどく強調している。しかもシャツが白なせいで下着が透けていた。いつもの隙ひとつ見せない祓魔師のコートからはかけ離れたその姿に、雪男は我が目を疑う。緩い人だとは知っていたが、シュラよりはまともだと信じていたのに。
ゆるく髪をサイドで纏めたなまえは、銃身に手をかざしてそっと力を入れる。雪男の力が抜けているのを確認し、その銃口を下に向けた。

「よく寝てたねぇ。たぶん4時間?くらい?」
「4時間!?」

まさかそんな長時間意識を消失していたとは。そしてふと周囲の異変に気がつく。
晴れ渡る青い空、そこを進む白い雲。風は少し乾燥していて日本独特の湿気は薄い。そうしてのろのろと動く風景に緩やかなエンジン音。そこはのどかで辺鄙な、明らかに日本ではない緑が茂る田舎道。
自分たちを載せるトラクターが、頼りなさげに砂利道を進む。運転しているのは恰幅のいい白ひげを蓄えた中年の農夫。

「・・・ここは、どこ、ですか」

頭を抱えたくなる衝動をなんとか堪え、雪男は荷台の干し草の上に寝転ぶなまえに問いかける。なまえは別段何も気にした様子はなく、上機嫌に「ここは癒しのアルカディア」と笑った。

「連続勤務時間72時間。本日の任務を加え日々の学生業の上で労基法も真っ青だ。奥村ぁ、君は”学生”で未成年なわけ」
「だからといって僕は甘えるつもりはありませんし文句だって言いません。それとあなたは成人してるじゃあないですか」

ちちち、と舌を鳴らして人差し指を振るう。楽しげに笑う唇から覗く白い歯が太陽の光を浴びてより白く見える。眩暈かも知れないと雪男は思った。

「こちとら残業200時間超えだよ。サビ残なんかクソ喰らえ!中間管理職はふざけてる!」
「ふざけてるのはあなただ!!戻りますよ。祓魔師はただでさえ少ないのに僕らが休んだら!」
「中途半端なコンディションで戦場に出ても死ぬだけだからやめなさーい。今日は私と一緒に休暇を満喫しちゃおうよー」

普段のまじめさの欠片も見当たらないなまえの姿に、雪男はとうとう閉口した。
彼女の性格は真面目だが堅物というわけではなくむしろ柔和な人である。雪男は日本支部でなまえ以上に有能な祓魔師を知らない。故に多大な任務が与えられておりその忙しい上司フォローに割り当てられたことは光栄だと思った時期もある。
日本支部の大部分を担うなまえが職務放棄した穴は大きいだろう。その間に上がるだろう死亡、損害率を思うと胃が痛む。どうにも血を吐く日は近そうだ。

「奥村ぁ、顔色悪いけど大丈夫?」
「大丈夫じゃないからはやく支部に戻りましょう・・・」
「あのね、奥村。人間は正しい食事と睡眠と休息が必要なのだよ。無理はよくないねぇ」

腕を引かれたやすくなまえの隣に転がる雪男。コートは着ておらず、自分の下敷きになっているそれを見て言葉はもう出てこない。日差しは暖かく、寝汗に肌がしっとりと汗ばんでいた。

「たった一度の人生を、兄貴の子守と悪魔の駒で終わらせるなんて愚の骨頂。たまには自由にのびのび何もかも忘れなさい」

それで半年に一回のペースでこの人は雲隠れをするわけか。今回初めて阻止できると思ったが目測は甘かったらしい。彼女の高い実力から注意できる同僚はおらず、メフィストも黙認していたことなのだが。

「・・・僕は、自分の生き方を変えるつもりはありません」

雪男は頑なにそう言った。
もし変えてしまえば、それはこの15年は何の意味も持たなくなる。雪男はそれが恐ろしいことだと感じていた。自分が無価値であると言われているようで、ひどく恐ろしい。

「ん。ならせめて、羽を伸ばして休めることも覚えなさい。どんな天使や悪魔だって休息をとるのだから。天は安息日を創り賜うた。休め、奥村。主の御名のもとおやすみ」

優しくかざされたなまえの手のひらが。陽の光を遮って雪男の視界に薄く影を落とす。
見知らぬ鳥の声。辺りに香る若草の香り。干し草が纏う陽の匂い。そして、心音に似たトラックのエンジン音。
穏やかななまえの声に包まれて、雪男は今度は緩やかに眠りに落ちる。
久しぶりの休息は夢も見ないほどに深く、雪男は失せた力で掌から拳銃を滑り落とした。


20130405 傷持つ羊たちの理想郷