(燐と)

深夜の車道をバイクで走る。
空は薄らと白み始め、身を切るような風の冷たさは少し和らいだ気がした。
しかし防寒具を着ているとはいえ、寒いものは寒い。
背中にしがみ付くなまえが小さく震えたことを感じ取った燐は、前方にコンビニを見つけてバイクを駐車場に止めた。

「燐?」
「ちょっと休憩だ。あったかいもんでも飲もうぜ」
「うん」

なまえの手を取りバイクから降ろす。
手袋越しだが、長い間力を入れていた手は風の冷たさも相まって固まっていた。燐は包み込むようになまえの手を撫でた後、そのまま手を繋いだままコンビニへ向かった。

「寒くないか?」
「大丈夫。服いっぱい着てるし、燐にくっついてたから」

ここまで何時間も走って来た。
夜風は肌を刺すようだったが、炎を少し体に灯せばなんてことはない。
なまえはその熱をお裾分けしてもらっていたわけだ。

「コーヒーでいいか?」
「うん。あ、肉まんも食べようよ!」
「おー」

早朝のコンビニは眠たげな眼をした店員しかいない。
他に客もおらず、支払いを済ませた燐たちは、コンビニの前で学生のように座り込んで肉まんに噛り付いた。
こんなことをしたのはどれくらいぶりだろう。
学校を卒業して、お互いしばらく祓魔師を続けてきた。
こうして買い食いをするなんて、酷く懐かしくて、くすぐったかった。

「ふふ。あったかい」
「ん。だな。けど味はまぁまぁだなー」
「うん。燐のほうがおいしいもんね」

ささやかな会話の間にも、コートのポケットの奥で携帯電話のバイブが振動し続けていた。
着信を切ってもまたすぐに次の着信が来る。今の表示は雪男だった。
それに勝呂、しえみ、シュラ、出雲、志摩、子猫丸。
燐は溜息をついて携帯電話を空き缶専用のごみ箱に放り込んだ。
ガラガラと酷い音を立ててごみ箱の底までたどり着いた携帯電話は、それでもなお着信を受け続けて震えていた。

「燐?」
「海までもう少しだな、なまえ」
「・・・うん」

海が見たい。
そう言ったのはなまえだった。
妊娠が発覚したなまえを担ぎ上げ、支部を抜け出してここまで来た。海まであともう少し。
胎の子の親は、燐だった。
そして世界は、この子供を殺そうとしている。
燐たちの時と同じなのだ。危険の芽を一刻も早く摘み取る。今回ばかりは生かせない。産まれてくるものを武器として再利用することもできない。
なまえの胎に宿る魂は、サタンのそれに相違ないのだから。

数年前、サタンを倒すことに成功した騎士団だったか。魂までも破滅させることはできなかった。
腐っても相手は神だ。
サタンは自分の力を受け入れられる器の出現を虎視眈々と待っていた。
それは青い炎の血を流す肉の器。
燐たちの子供は選ばれた。神の申し子として、選定された。
だから殺される。再び悪魔の神が生れ落ちぬように。誰も守ろうとはしてくれなかった。被害を最小に収めるために、子供の死を叫んだ。
だから燐は、もう騎士団にはいられなかった。

海が見たい。

そう願ったなまえを連れて、燐は愛すべき故郷から脱出した。

「海・・・」

朝もやがかかる海は暗く、どこか不安になるような気配を漂わせていた。
太陽が差し込まない早朝の空気に、灰色の海は穏やかに波立つ。
燐はなまえと手を繋いで砂浜を歩いた。
靴を脱ぎ捨てると、細かい砂の粒は指の隙間に入り込む。太陽の光を浴びていない砂の大地は随分冷たく、想像の海とはずいぶん違った。
夏はまだ遠いのだ。
なまえはそのまま手を引いて、浅瀬に足首まで浸して水平線の向こうを見つめた。

「ねぇ、燐」
「ん?」
「この子は、産まれてきちゃ、だめだよね・・・」
「なまえ?」

繋いだ手が震えている。
横顔を盗み見れば、大粒の涙がなまえの頬に流れていた。
なまえは燐のほうへと向き直り、ごめんね、とくしゃくしゃに顔を歪めてつないだ手をゆっくりとほどいた。

「なまえ?」

燐は怖くなってもう一度なまえの名前を呼ぶ。
手の甲で、手の平で。溢れ続ける涙をぬぐうなまえは、ただただごめんね、と繰り返し嗚咽をもらした。
燐は何故なまえが泣くのか、謝るのかさえ分からず海の中で立ち尽くすしかない。
その震える細い肩を抱きながら、気のきいた言葉一つ出てこない自分の情けなさに奥歯を噛む。
そうしてうつむき加減に視線を落とせば、なまえの内股を伝い流れた赤に気が付いた。

「あ、」

それはゆっくりとなまえの白い肌を汚し、海水に混じり波紋も作らず滲んで広がっている。
なまえは、泣いていた。

「ごめんね。産んであげられなくてごめんね。あなたは生きられないの。産まれてきちゃだめなの。ごめんねっ・・・」

生命の創造と破壊を一身に担う、女の天秤は死へと傾いた。
産まれ損なった命が海に還るのを見つめながら、燐はなまえを抱きしめて一緒に泣いた。
それは愛すべき子供を守れなかった悔しさなのか、産まれることもできなかった命への憐みなのか、すべてを背負い、終わらせてしまったなまえへの罪悪感なのか。
わからなかった。
だから燐は、ただ泣くことしかできなかった。


20120528 ヒルコガミにもなれない