(雪男と) 「あの魚、大きいね」 「うん」 「お刺身にしたら食べられるかな」 「食べられないよ」 「雪男」 「うん?」 「どうしたの?」 人工的な海に閉じ込められた色とりどりの名前も知らない魚たち。 大きなサメやエイが水中遊泳して、時折二人の上に影を落とす。 薄いスポットライトで薄闇の部屋には青い光が満ちていた。 ここはまるで水底だ。 誰しもが声を細める。空気の泡さえ浮かび上がらない。 なまえと雪男は、指先まで絡めるようにして手を繋いでいた。 平日の水族館。客足は少なく制服の二人を咎める者もいない。 とりとめのない会話は、ゆっくりとふたりの間に着地する。 「ううん、なんでもないよ」 柔らかな光の揺らぎが雪男の笑みを淡く見せる。 嘘吐き。 だが雪男をそうなじる勇気をなまえは持っていなかった。 雪男が好きだ。 だが、彼の底の見えない心を抱えられるかと問われれば、どうしても答えに詰まる。 なまえはそう、と吐息混じりに言葉を溢した。 雪男はそれ以上なにも言わず、ただじっと自由に泳ぐ不自由な水槽の生き物たちを見ていた。 今日もまた、なまえは雪男の痛みを暴くことはなく、雪男はなまえの痛みを知ることはなかった。 20110910 水族館デート |