「別れましょう、メフィスト」 彼女はまるで今日の夕飯を告げる様なささやかな声でそう切り出した。 は?と漏れた声は紳士らしからず、当人はそんな事に気付く余裕さえなかった。 「何を、言ってるんですか?なまえ」 「私たち、これ以上一緒にいても駄目になるだけだもの」 目を伏せたなまえの長い睫毛はメフィストのお気に入りの一つであった。 影の差す白い肌に不安が滲む。 何故、と問いかけた声はみっともなく掠れた。 ごまかすように紅茶を一口含む。味なんてわからない。 「少なくとも、私と貴女は今日まで上手くやってきたじゃないですか」 「そうね」 「では、何故」 再びの問いかけになまえは力なく笑った。 吐息が漏れ、その振動に髪が揺れる。 窓辺から差し込む午後の日差しは、場違いなほど穏やかだった。 「私はね、メフィストのこと愛してる。世界で一番好きだし、一生傍にいたい。あなたに辛い思いなんてして欲しくないし、危険な仕事も辞めて欲しい。祓魔師なんてやめて、ふたりでどこか、遠くで」 「いいでしょう。私の最愛の人。貴女の願いなら何でも叶えてみせます。百年ほど私が騎士団を不在にしても何ら問題はありません。どこがいいでしょう。南の島ですか?それとも北欧?オーロラの見える土地も捨てがたいですねぇ」 「メフィスト」 「わざわざこの地に縛られる必要もありません。なに、金はいくらでもあるのですからいっそ地球一周だなんて」 「メフィスト」 なまえの声にメフィストは口をつぐむ。 なまえの声は、むずがる子供を諌める様な音があった。 大人しく口を閉ざせば、なまえは柔らかな笑みでメフィストの手を取る。 「私はずっとあなたの傍にいたい。でもそれができない」 「何故」 再三の問いかけはいっそ滑稽だった。 悪魔として生きて幾数百年。 その筈がまるで生を受けた数年足らずの人の様な姿だ。 「私は人間で、あなたは悪魔だからよ」 それは絶望的なまでの、差。 「こうしてあなたと一緒に生きてきて、私が老いていく間あなたはずっと変わらない。いつまでも若々しいまま」 「貴女はそんな事を気にしているんですか?若さなんて関係ありません。見た目だけで美醜を判断するのは人間の悪い癖だ。歳も老いも関係ありませんよなまえ。貴女はいつだって美しい。その気高い魂だからこそ、私はあなたに惹かれたのです」 膝をつき、縋る様になまえを見上げる。 穏やかな頬笑みをたたえるその姿に、酷く泣きたくなる。 二人を隔てる見えぬ壁は、あまりに高く、厚かった。 「メフィスト。私は死ぬの。いつか、必ず。私はあなたを置いて逝くの」 「なまえ」 「私はそれがたまらなく悲しい。そして、あなたも悲しいのね」 白魚の様な細く白い指先がメフィストの頬に触れる。 なまえの体温は少し低い。冷たすぎることもない、無機物の様な熱。 緩やかに瞳を閉ざせば、なまえの声は何と胸に染みるように心地いい。 「私はね、あなたの悲しむ顔なんて見たくないの。メフィストにはいつも笑っていて欲しい。私はあなたを置いていきたくない。でもそれは避けられない運命で、私はあなたを傷つける」 「やめてください、そんな、遠い、未来の話」 「遠い未来?いいえ、違うわメフィスト。明日かもしれない。明後日かもしれない。それはすぐそこなのよ。私とあなたの時間はあまりにも違い過ぎる。あなたが一つ呼吸をする合間、私は何度も日を跨ぐの。あなたが一つ瞬きをするたびに、私はいくつも歳を取る」 「なまえっ」 「メフィスト、私はあなたを置いて、いつか死んでしまうの」 彼女の黒真珠の様な瞳に涙が溜まる。 美しい輝きは、悲しみを増長させるだけだった。 「だから、別れましょう」 「そんな、どうして、貴女は私を愛しているし、私も貴女を愛している!」 「だからなの!!」 強く激昂した声は強く、細いなまえの体を歪に揺らした。 笑みはかき消され、強い恐怖と悲しみが彼女の表情を彩る。 「私はあなたを置いていく、あなたを悲しませたくない。でも離れたくない。あなたを傷つけたくないのに。あなたを愛してる。でも永遠に一緒にはいられない。愛してる。離したくない。私はあなたを置いていくのに。独占したい。束縛しようとしている。あなたを、私が!」 「いいんです。それでかまわないんですよなまえ。私は貴女を愛している。貴女に束縛されるなんて本望です」 「あなたはそうでもわたしはそうじゃない。あなたはいつか私を忘れる。長い時間の中で新しい人を愛するようになる」 「そんなこと」 「あるのよ、メフィスト」 小説にエンドマークを打つように、なまえはそっとメフィストの名前を呼んだ。 「もしこのままずっといっしょにいて、私の最後をあなたが見取ったとして、あなたが悲しんでくれることが嬉しいと思っている。あなたが傷ついてくれることが嬉しいと思ってる。でも、同時に私はそれが悲しくなるの。その時、あなたが流す涙を拭ってあげられないことが」 「・・・」 「あなたを永遠に置いていく痛みを与える前に、私は今、あなたに別れの痛みを与えるの」 「酷い人だ。なんて、酷い」 「そう。だって悪魔を愛する様な女だから、私はとっても、酷い女なの」 二人して力なく笑う。 指先の震えは、どちらのものかだなんて到底分りはしなかった。 「メフィスト。私を忘れてもいいの。また誰かと恋をしてもいいの。あなたは自由で、生きているのだから」 「なまえ、」 「あなたと私が愛し合った。その事実だけがあれば、私は十分だから」 まるい、薄桃色の頬に涙が伝った。 なんて美しい。なんて悲しい。最も愛する、酷い女。 「メフィスト。愛しているわ。ずっと、ずっと。死ぬまで私の心はあなたのものよ。メフィスト・・・・ただどうか、忘れないで。私たちが愛し合った時間を。あなたにとっては瞬きにも満たない微かな時間を・・・さようなら」 「ああ。懐かしいですね」 懐かしい夢を見た。 人の様に、恋をしたあの頃を。 「不思議なものです。私たち悪魔は人よりもはるかに長寿で、果ては数万生きる種だっている」 指を振るう。いつものように薄桃色の煙幕と共に紅茶が二組現れた。 「おや、これはいけない」 珍しい己の失敗に苦笑し打つ、起きぬけの紅茶に口をつける。 あの時と同じ茶葉だ。 だが、味がわからない。 「それなのに。私は未だに貴女の笑い方も、指先の温度も、髪の香も、涙の輝きも覚えているんですよ」 帰ってくる答えはない。 「私の心も、ずっと貴女のものだったんですね」 窓辺に光はない。 曇天の薄暗い朝に、後悔といい重苦が降り注いだ。 「あの頃、それに気付いていたならば、私たちは今も一緒に入れたのでしょうか、なまえ」 20110903 メフィストフェレスの純愛 |