A
俺は袋を手に持っていた形のままで静止する。
今のは――――――――――
袋を取り戻して顔を真っ赤にした神野が、慎重に俺に聞く。
「みっ・・・見ました!?」
見た。
だけど嘘つきな俺は首を振った。
「――――いや。何が入ってたんだ?」
あからさまに安心したように、ほーっと息を吐いて笑顔を作った神野が、両手をぶんぶんと振った。
「いえ、大したものでは」
その様子を見ながら小さく呟く。
「・・・・オレンジ色小花柄のレース」
「ってか、見てるじゃないですかっ!!」
くくくく・・・と思わず笑いが零れる。
退屈極まりない半日の会議で受けたダメージが、ここでいきなり回復したのを感じた。
本当に、何て面白い子なんだ。
にやりと笑って言う。
「怒るなよ、拾ってやったのにさ」
可愛い下着セットだった。コンマ3秒で、それを身に付けた神野を想像した。
うーん・・・長い間恋愛をしていないとは言え、俺もやっぱり男だな。
シンプルなのもいいけど、レースにはやっぱ惹かれる・・・などと考えていると、神野は顔を赤くしたままで部屋のものを急いで片付けている。
机の上の計画表と成績表に気付いた。それと、大量のオレンジ。
俺は机に近寄る。
「・・・計画を立ててたのか。どうにかなりそうか?」
書き込みが沢山してある計画表を丁寧に見る。かなりしっかりした内容だった。来年初めから夏までの成績予定が書いてある。これを作れと教えたのは他でもない教官時代の俺で、ちゃんと身になっているのかと思ったら嬉しかった。
だけど、ここと、ここ・・・
「あ―――――はい、ええと・・・。今頂いてるお客さまからの紹介をちゃんとものに出来れば、何とか。今日貰えなかった契約は、年始にアポが取れてますし――――」
神野も荷物をどうにかまとめて隣に座る。
俺の指摘した箇所にはちゃんと説明が出来るらしく、手を伸ばして手帳を取った。
何気なく彼女を見て、違和感に気付く。
・・・あれ?こんな顔だったっけ、神野?何かが・・・違う・・・
じいーっと露骨に見ていると、それに気付いた神野が微かに身を引いて聞いた。
「・・・何ですか?」
もっとよく見ようと手を伸ばして彼女の顎を固定する。
「へっ・・・」
「化粧、変えた?朝と違わないか?」
やっぱり、違う。何か・・・朝より、雰囲気が・・・
「違うよな。何だか印象が色っぽくなったような・・・」
すると神野は両手で俺の手を外して、また顔を赤らめながら言った。
「かっ・・・買い物中に、メイクもして貰ったんです!」
・・・ふうん。化粧をしてくれるサービスもあるのか。まだ視線が離せずに、じっと見た。
「女性って本当化粧で雰囲気変わるよな。凄い技術だ」
イメージがかなり違うぞ。いつもの軽やかな感じでなく、しっとりとした大人びた顔に見える・・・。
そう思っての発言だったけど、何故か神野はむっとしたらしい。
一瞬唇を尖らせたけど、それからチラリと俺を見て、半眼で笑う。
・・・ん?何だ、この企んだような顔は?つい、瞬きをした。
すると意地悪そうな、何かを含んだような声になって、神野が言った。
「支部長は、女性に興味なさそうですもんねーえ。もしかして、同性愛主義だったりします?」
―――――――あん?
俺は思わず眉間に皺を寄せる。
「・・・何でだよ。男にそんな興味ねーよ」
すると更に意地悪そうな声になって、彼女は続けた。
「だって、あんなべっぴんの繭ちゃんに抱きつかれても、全然嬉しそうじゃなかったですよねえ〜。妻子が居る人でも嬉しいもんなんじゃないのかなあ、あれって。だからやっぱり支部長は、実は男性が好き??」
・・・・どうしてそうなるんだ。
確かに一瞬くらりと来たけど、それを正直に言ったって立場が悪くなるだけだ。俺は嫌そうな声で返す。
「違うって。美人に抱きつかれたって嬉しいかどうかは、その状況にもよるだろう」
例えば、あれが支部の2階なんかでなくホテルや自分の部屋だったら、拒絶出来たかは自信がない。
残念ながら、そこは俺も物凄く男だった。だって不可抗力だろ。勿論そんなことは言わないが。
「いいですってば、隠さなくて。誰にも言いませんから、ほらほら」
「・・・神野」
「彼女、いないんでしょ?でも実は彼氏はいるとかじゃないんですか?」
実に楽しそうに瞳を輝かせて俺ににじり寄る珍しい神野を見ていたら、ちょっとからかいたくなった。
面白い・・・彼女は俺に、喧嘩を売っている。
売られた喧嘩は勿論買う。そして相手を完膚なきまでに叩きのめすべし。稲葉家の家訓だ。
俺はいきなりにっこりと微笑んだ。経験から女性受けがいいと判っている笑顔を作り、神野を見詰める。
さっきまでの余裕気な顔を若干不安そうに曇らせ、神野は身を引いた。
「俺は」
言いながら彼女に指を伸ばす。
「女性が好きだ。特に、唇には惹かれるね。・・・こんな風に何もつけてない素の唇をみると、舐めてみたくなる」
そして彼女の素の唇を撫でた。触れた人差し指がちりちりと反応する。
からかいではなく、真面目な話。俺はこの唇が欲しい。誰かが「いいよ」と言葉をくれたら、今でも準備万端で襲いかかれる。
そんな素敵な天の声など、この小さい部屋では聞こえそうにないが。
アッサリと俺に押されながら、彼女は固まった。目を見開いて。
俺は笑うのを我慢しつつ、まだ唇を撫でながら言った。
「・・・まあ、神野のはキスしなくても判るけどな」
「・・・は?」
しぶしぶ彼女の唇から指を離して立ち上がる。これ以上撫でていると、抑制が効かなくなりそうだった。
視界に、机の上で転がっているオレンジが入る。
それを一つとって、振りながら笑いかけた。
「神野の唇。これの味しか、しねーだろ。夜の間は」
神野が顔を赤くして、パッと口を開いた。その反応に、俺はつい、軽く笑い声を出してしまう。そしてトドメを刺した。
「キスの味がオレンジとは、お子様だな。メイクで色気を出したって、最後の詰めが甘いのは営業活動と同じだ」
今日だって契約貰い損なったんだよな。と、上司としての嫌味も込めておく。
ぶわっと更に赤面して怒鳴りそうになる彼女を置き去りにしてドアを閉め、玉の部屋から退出した。
勝った。
階段を降りながら笑いを噛み殺す。
きっと猛烈に怒っているはずだ。ああ、楽しい。
すっかり機嫌がよくなった俺は、自席で戦利品のオレンジをむく。そして食べていたら、怒ってますオーラ全開の彼女が足取りも荒く入って来た。
うーん、あとちょっと、からかっておこう。
俺は笑顔のままでのんびりと声をかける。
「寂しい独り身同士、どっか食べに行くか?」
「行きません!!」
即答だった。
そして鞄を引っつかみ、彼女は逃走した。素早かった。俺はその後姿がドアの向こうに消えると同時に大爆笑してしまった。
ああ、何て楽しい子なんだろう。
全く、俺は幸せものだ。
彼女から奪い取ったオレンジは、いい香りがして、それに十分甘かった。
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