7、ギリギリの駆け引き@
ところが、その新年の新たな決意もむなしく、2月戦真っ只中から、俺は神野玉緒とすれ違いの日々を送ることになる。
・・・・というか。
平たく言えば、無視されていた。
正月明けは良かったのだ。
彼女も休暇を満喫したらしく、パワー全開状態で年始の4日からもう契約を取りに走り、無事に獲得した上に新規の職域まで開拓してきていた。
よくやった、と俺が褒めると、赴任以来見たことがないような心からの笑顔で嬉しそうに頷いていたのだ。
あれにはちょっとときめいた・・・。彼女が俺に笑顔を向けること自体が珍しいので、一瞬固まってしまった。
ま、それは置いておいて。
問題は、多分あの日からだと思う。
新しく自力で開拓した職域に通いだした神野は、そこで初日に、女性営業職ならではの侮蔑を受ける羽目になったらしい。
俺は、ちょうど研修でこちらに出張していた楠本さんと一緒に営業中の神野に雑用があって会いにいき、その時に、そこの会社の人らしい魅力的な女性から頭を下げられたのだ。
うちのバカ男がお宅の営業に失礼しました、と。
それで何があったのかを聞き出すと、しばらく抵抗していたけど、諦めたように神野が話した。
それが―――――――
「枕営業してんだろ、お前に契約やってもいいぞ、と言われたんです」
だったので、驚きの余り化石化してしまった。
隣に座る楠本さんから強烈な視線を感じた。
俺がどう出るかを見ているらしかった。
・・・・本音を言えば、突然湧き上がったその客に対する怒りを発散するために何かを殴りたい。だけどそういうわけにもいかず、その侮蔑を受けた本人である神野は既にカラカラと笑って帰ろうとしていたので、それを無理やり引きとめた。
楠本さんは俺の複雑な胸中を察してくれたらしかった。なんせ、神野に惚れてることはバレてる。その楠本さんが後押ししてくれたので、俺は彼女をほとんど拉致して自分の車まで引きずっていった。
あの夜だ。
あの夜以来、俺は何故だか彼女に避けられている。
でもその理由がわからない。
何せ、露骨な避け方なのだ。
朝も大体副支部長、次に俺、その次くらいに出勤していた神野が、始業ギリギリの9時前まで来なくなった。
そして朝礼の間は一向に朝礼台の方を見ない。ただし、副支部長や事務員からの連絡のときには顔を上げている。
今までは午前中は支部にいて、事務仕事をしたり雑用をしたり、たまに寝ていたりしたのに、それが朝から営業活動をしだした。そして夕方に戻って来て、主婦のメンバーが帰りだすころくらいまでに事務仕事や雑用をして、ほぼ7時までに帰ってしまう。
俺はその間、帰社対話や新人教育やベテランさんとの相談やら苦情処理なんかをしていて、残業がなくなった神野とは話す機会が完全になくなってしまったのだ。
彼女は自分で全部が出来る中堅層なので、帰社対話も毎日じゃない。それに確実に契約は上げてきていて、内容も、文句なしだった。
9時から5時で働いて、無駄な残業はしない。
成績はちゃんと上がり、規則正しくなったからか、体型がスリムになったようだし、元気そうだ。
それだけ言えば、素晴らしいの一言に尽きる。
だけど、俺は非常に気に入らなかった。
せめて俺にも普通に接してくれれば、規則正しくなったんだな、レベルで済む話が、ああも露骨に避けられると支部中にバレバレだ。
目なんか一度もあわせてない。話す言葉も挨拶程度、しかも言い逃げ状態だ。
一度笹口さんに廊下で会った時に、こう言われた。
「支部長、玉ちゃんに何かしたんですか?」
俺はうんざりして口を開くのも面倒臭かった。すると彼女は笑って言う。
「支部長には思い当たる節ないんですね〜。まあ、乙女心は複雑ってことですね」
・・・判ってるなら教えてくれ。ここは乙女ばっかだろ。そう思ったけど、俺は手を振っただけで退散した。
2月戦も後少しで終わる。それまでに、この鬱陶しい状態を何とかしたい。今日こそは、絶対捕まえてやる――――――そんなことを思いながら、支社へのお使いを早めに切り上げて、支部に戻ってきた。
支部の駐輪場に神野のバイクはあった。
今ならいるはずだ。
ドアを開けて、事務所の中を覗き込む。すると、副支部長の席の前に座る神野の背中を発見した。
他の営業達に見つからないように事務席の方のドアから体を滑り込ませる。お帰りなさいの声に気付いて神野に逃げ出されたら、また機会が遠のくに違いない。
ゆっくり近づくと、二人の会話が聞こえてきた。
「お陰でこの記念月のご褒美の旅行、いけるわよ、玉ちゃん」
宮田さんの言葉に、神野は体の前で手をパチパチを叩く。機嫌よさそうだ。
「わーい、旅行入賞久しぶりです〜」
記念月の成績優秀者へのご褒美旅行だ。去年大きな経保の解約があった神野は一定の施策から外されていたが、記念月だけは別だというのが、今の支社長の方針だ。それで、無事に入賞となったらしい。
うちの支部からは、まだ2名しか出てなかった。
俺はそっと背後に近づいた。
「神野は旅行決定だな。おめでとう」
あからさまに、彼女の背中が緊張して固まった。肩がびくんと震えて上がる。
後ろから近づく俺に、宮田副支部長がいつもの声で言う。
「――――――お帰りなさい、稲葉支部長。早かったですね」
それににっこりと笑顔を返して視線を下に向け、座る神野を見下ろす。
彼女はぎこちなく立ち上がりながら言った。
「では、あたしは仕事に戻ります」
「あ、はい。お疲れ様」
副支部長がそれに答える。・・・おおっと、そうはいかねえぞ。
立ち去りつつある神野の背中に向かって言った。
「――――――神野。次は俺と対話だろ」
彼女の足がぴたりと止まった。そのままつんのめって転ぶかと思った。
暫く沈黙したあと、こっちを振り返りもせずに、小さな声で言う。
「―――――ええとー・・・・。すみません、支部長。あたし、これからアポが――――――・・・」
思わず眉を上げた。
アポだと?
「アポ?何時から、誰の、Sはいくらの?」
「・・・S2100万、鈴木様です。6時半からですが、もう出ます。電車で行きますので・・・」
いまだこちらを見ない神野を見詰める俺を、ハラハラしたように副支部長が見ているのが判った。
あくまでも、抵抗するつもりなんだな。俺は小さく笑う。また闘争心に火がついたのを感じた。
俺に対する抵抗は、いいことを産まないといい加減気付くべきだよな、神野は。
「6時半からの?えらく早く行くんだな。よし、俺が送ってってやる」
彼女の背中が小さく動いた。
ガタンと音を立てて副支部長が立ち上がる。
「あのっ!わ、私が送りますので、支部長!お忙しいでしょうし――――――」
そうはいかない。最後まで言わせずに、俺は笑顔で遮った。
「宮田さんは同行があっただろう?いいよ、俺が行く。そうすれば移動中に対話も済ませられるしな」
一瞬痛そうな顔をして副支部長が神野を見たのを見逃さなかった。
どうやら彼女が俺をさけるのに、副支部長も協力しているらしい。そんなことしても無駄なのにな、俺は心の中で笑う。
ここの長は、俺だぞ。
「神野、行こうか。車で待ってるぞ」
そう言うと、彼女の返事を待たずに事務所の入口に向かう。部屋を見回して残っている職員に、あとちょっとで2月戦も終わりですよ、頑張りましょうね、と発破をかけて車に向かった。
もうちょっとぐずぐずするかな、と思っていたけど、案外神野は早くやってきた。
既に諦めたような顔をして、お待たせしましたと小さく呟き助手席に乗る。
やっぱり俺と目を合わせる気はないらしい。
「―――――出すぞ」
それだけを言って、車をスタートさせた。
・・・さて。無事に捕まえたけど、どうするかな・・・。
駅前を旋回しながらちょっと考えた。
マトモで厳しい対話をしてもいい。そうすれば、きっとすぐに怒りモードで突っかかってくるだろう。
だけど、俺は避けられている理由を知りたい。そっちのほうが先だよな、と自分で頷き、声を出す。
「・・・さて、やっと捕まえたぞ」
「・・・」
返事はなし。
「神野」
「・・・・はい」
今度は返事はあったけど、体を傾けて窓の外を眺めているのは変わりない。
俺は同じように沈黙した。
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