・タッチ!タッチ!タッチ!


 その夜、いつも通り無口で無表情の男、漆原大地はのっそりと帰ってきた。

「あ、お帰り〜」

 まだ夜の7時過ぎだった。だから私も元気だったし、最近は睡眠のリズムもついていた桜も起きていて上機嫌だった。

 ヘラヘラと笑って、出来るようになって嬉しいズリ這いを駆使して父親に近寄ろうとしている。

 あーんなに無口でしかも無表情なのに、娘は夫に人見知りをしないのだ。じっと見詰めるあの目が怖くないのだろうか?そう思って一緒に見てみたことがあったけど、娘はヤツの顔を見てニコニコと笑う(滝のような涎つき)。

 ・・・不思議だ。会話などないのにこの人は父ちゃん!って判ってるのかなあ?同じ匂いがするとか?もしかしてテレパシーか何か?ううん、やつらなら有り得るかも・・・。ちょっと知りたい不思議だわ〜・・・。

 私はホットプレートの上にお肉や野菜を広げながら、今晩もしゃがんで床の上で頭を上げている桜をじい〜っと見下ろす夫を見ていた。

 自分の子供にも超無言って、ある意味すげーな、この男。

 あは〜だ〜と宇宙語を喋りながら、桜は口から美しい涎(親バカ眼鏡が私の両目にかかっているのは気付いている)を流しっぱなしにしながらヤツを見上げる。

 反応もないのに嬉しいらしい。・・・何故なの、娘。

「涎凄いでしょう、毎日追いかけては床拭いてるわ〜」

 私がケラケラとそう笑うと、ヤツは無言で頷いた。目は桜から離さない。うーとかあーとか言いながら自分を見上げてくる小さな赤ん坊を、真顔で穴があくほど見詰めている。

 やっぱりまだよく判らないのだろうか。父親になったってこととかが。だから、親切な私は助け舟を出すことにした。

「そこでほら、抱き上げてさ、桜〜!ただいま〜!とか言ってみたら、たまには」

 想像しただけで噴出すわ。

 私がニヤニヤしながらそう言うと、ヤツはチラリと一瞬こちらを見た。その目には呆れた色があったのをしっかりと確認してしまったぞ。何いってんの、この人、そう思ってるに違いない。やっぱりしないのか、そんな普通のことは。うむむ。

 ヤツは抱きしめたり高い高いをする代わりに、床の上から娘をひょいと持ち上げてベビーベッドの中へとおろす。そして、抱っこを期待したのに一瞬で裏切られた娘が発する盛大なブーイングを背中に聞きながら、スタスタと鞄を置きにいってしまった。

 あははは、やっぱり娘でも私に対する扱いと一緒か!私は一人で苦笑して、それから料理の続きに戻る。今晩は鉄板焼きなのだ。久しぶりに一緒に食べるから、どんなご飯を作っても感想はとくにはないヤツを観察しまくった結果判明した好物(恐らく!)を、作ることにしたのだ。

 ヤツは、魚よりは肉が好きらしい。やっぱり力仕事だからだろうか。

 野菜がたっぷりと、それから奮発して黒毛和牛だ。私もガツガツ食べて、是非ともヤツに、奈緒の言うところの「タッチ」を実践してみたいのだ。懐かしのアニメソングが勝手に頭の中を流れ出すのをブンブンと頭を振ってて止める。やめよう、私はミナミちゃんみたいにラブリーキャラではない。

 彼にタッチ!!よっしゃあ!でも、もしも・・・無理だったら、あとで一人で残念会をしよう。よし。

 私はそう決心して夕食を作っていたのだった。何と一人残念会の為のコンビニデザートまでも準備した上で。バッチリだぜ、舞台装置は。

 晩ご飯が始まって、私は久しぶりだなあと思いながら、ヤツを相手にベラベラと話す。両家の母親がしたおもしろいこと、呆れること、それから近所のおばあちゃん達に桜が愛想をふること、今日は特売の日で、ベビーカーでスーパーに突撃したこと、夜泣きはマシになってきたけれど、その代わり夕方によく泣くことなどを。

 ヤツは興味なさそうな顔で黙々と肉を平らげていく。野菜も食え、と私は口を止めずに喋りながら菜ばしでヤツのお皿に野菜を突っ込んでいく。

 その全てが、何だか懐かしい感じだった。・・・ああ、そうそう、って。ヤツにほれたのかな、と自覚しだしたあの頃、あの頃も私はこんな風にしていたなあって思い出したのだ。

 反応はないけど拒否もしないダレ男を気にせずに好きなだけ喋り捲って、ヤツのお皿にどんどんおかずを足していっていた。

 うふふ、とつい笑ってしまう。

 そうだった、こんなんだったないつまでも。そう思って笑えたのだった。

 何だ、私ったら、結婚しても母親になってもちっとも変わってないじゃないのって。

 でもきっとこれが、我が家の「心地良いタイミング」なのだろう。

 夕食が終わると、ヤツが桜をお風呂に入れてくれた。休みの日は前から頼めばそうしてくれたから、それは驚きなわけではないが自発的だったのは初めてかもしれない。

「え?いれてくれるの?」

 桜をヒョイと抱き上げてスタスタとお風呂場へ向かうヤツがこっちも見ずにうんと頷いたので、私は慌ててお風呂の準備をする。

 タオルを広げ、それから別にロンパース、下着、その上に更に紙おむつを広げて・・・。

 私がバタバタとしている間にも、ヤツと桜はお風呂に入ってしまった。普段はお湯を怖がってあまり風呂では機嫌のよくない娘が、ヤツと入るとブーイングをかまさないのがちょっと不満な私だ。

 ・・・やっぱり安心感が違うってこと!?腕の強さや大きさの差か!?なんかそれだけで負けてるなら嫌なんですけど!!など、一人で凹んだりムカついたりもしたけれど、まあ娘の機嫌がいいに越したことはないのだ。だから、いいや。やっとそんな心境になれたのだ。

 桜は今晩の為に、昼寝を強制的に少なくしていたのだ。その悪い母は私。・・・いやいや、だけど、ほら、家庭の平安って大事だと思うの。そしてその核になるのは夫婦の仲良さだと思うわけであるからしてぐだぐだぐだ。

 許してねん、さーちゃん。

 そんな母の企みが効いたか、風呂上りの全身ピンク色した桜は湯冷ましを飲んだらアッサリと夢の中へいってしまったのだ。

 私は娘を寝室のベッドへ寝かせて、その柔らかい髪の毛に指を通す。

 すやすやと眠る、この子。間違いなく愛の結晶なのだ(すんげー照れるんですけど!)

「母さん頑張るわ」

 そっと呟く。娘は全然聞いちゃいないようだったけど。

 さて!

 私はふんどしをしめなおす気持ちで居間へと向かった。

 最後に見たダレ男は、首からタオルをさげたままの格好で冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んでいた。もしかしたらいつもの定位置で本を読んでいるかもしれない。もしかしたら、まだ水のボトルを持って台所でボーっとしているかもしれない。もしかしたら・・・・。

 私は結構なドキドキ感をもって、そうっと居間へのドアを開けた。なんせ今寝たばかりの桜姫を起こしてしまったら元も子もない。

 ちらりとのぞくと、台所にはヤツの姿はなし。そのまま視線をテレビがあるリビングの方へ向けると、ヤツの細めではあるががっしりとした大きな肩を発見した。

 ───────隊長っ!ターゲット発見であります!!よし、出動〜!!

 頭の中で号令が鳴り響く。私は無意識に唇を舌で湿らせて、彼の後姿へ足音を消しながら近寄っていった。気持ち的には匍匐前進だ。ターゲット、標準よし!ランチャー用意!勝手に頭の中に戦争映画並みの音が流れ出す。

 ヤツはいつもの座椅子に座って、本を読んでいるらしかった。あぐらをかいた足、片膝の上に広げられて軽く置かれた文庫本。ちょっと俯き加減でヤツは読書中だ。

 こんな姿も久しぶりだった。時間帯があわなくてほとんど見てなかったのだ。それに、嫌悪感が一番酷かったガルル期の私は、ヤツの姿を見ることすら嫌だった。前は一緒に寝転んで私はヤツの膝枕でテレビを観ていたので、ヤツが何を読んでいるかもしっていたけれど、今ではそんなことも何も判らない────────・・・

 ────────ターゲットに近づきました!

 ペタンと床に座り込み、そっと後から小声で話かける。

「・・・桜、寝たよ。お風呂ありがとう」

 うん、とヤツは返してきた。目は淡々と文字を追っているらしい。私はごくっと唾を飲み込んで、ねえ、と言おうとした。その一瞬前にヤツが口を開く。

「風呂入ってきたら。今なら冷めてない」

「・・・あー・・・ええと、そうね、はい」

 ごもごもごも。一瞬で勢いを失った私は口の中で出せなかった言葉を処理する。いや、でもその前に君にタッチをだねえ!って。だけどすぐに頭を切り替えた。そうよ!私だって汗だくじゃないの!綺麗になってこなきゃ、相手にも悪いわよね?そう思ったのだ。

 だから私はにっこりと笑顔を作って、明るく返事をした。

「じゃあ入ってくるね〜」

 そしてダッシュで風呂場に向かう。

 敵前逃亡は本意ではないが、いざ戦争をしかけて相手に素無視orスルーされてしまうと立ち直れないことは判っている。その理由が私が汗臭いから、であったならもう世を儚みたくなるに違いないのだ。ぜ〜ひとも綺麗綺麗しなくては!

 いつもなら時間をかけて入る湯船にも、わずか20秒でよしとした。だってだって!!洗わなくちゃ体を!そしてそして、体中の雑草をなんとかしなきゃああああ〜!!ぶっちゃけ夫に触られていない体はそこのとこの方が大問題だった。現在はえらく野生化している私の全身なのだ。

 そんなわけでリラックスなんて言葉はほど遠い勢いでお風呂タイムを過ごし、私は全速力で寝る準備を整えた。

 ちらりと時計を見ると、かかった時間は30分。あれだけ頑張ったけどやっぱり30分は経ってしまったか〜!ヤツがもう寝にいってしまっていたら泣けるぞ!

 そう思いながらドライヤーをして、そう思いながら適当に化粧水を肌になすりつけた。

 よっしゃ、行くわよ〜!!

 頭の中で忙しくファンファーレを鳴らして私はダイニングに続くドアを開ける。ダレ男、発見!まだ同じ位置で読書中!よっしゃああああ〜、突撃〜!!

 物音で隣の部屋の娘を起こさないように足音を忍ばせて、私はパッと夫の前に回りこんだ。

 そして────────大黒柱に頭をぶつけたくなった。


 ・・・・寝てるし。


 寝ちゃってるよ、こいつ。


 ダレ男は私の必死の努力にも関わらず、座椅子にもたれて寝てしまっていた。スースーと規則正しい呼吸、そしてゆっくりと上下する胸元。伸びた黒い前髪の向こう、いつもの淡白な瞳は閉じてしまっている。

 右手から落ちかけた文庫本の題名を目でなぞって、私は深呼吸した。

 ・・・あーあ、本当に、もう。私ったらタイミングが悪いんだから・・・。

 勿論、起こすことは出来る。ここで寝ちゃ風邪ひくよっていつものパターンで。でも、そうすると当たり前だが相手もいつものパターンで行動をするはずだ。

 つまり、私が起こすと、だら〜っと目を開いて(しかも片目だけ。両目は面倒臭いんだそうな)、ぼそぼそと何かを呟き(声が低すぎて聞き取り不可能)、だらだら〜っと体を起こして、ほとんど地面につきそうな四つんばいで寝室まで這って行く・・・のだろう。

 あの状態は、ヤツの意識も体も90パーセントが夢の世界にいっちまってるってことが私にもよおお〜く判るのだ。

 つまり、そこで例えば私が目の前で素っ裸になってみたとしても、奴はアダルトな世界には行きそうもないってこと。つーか、きっと私に気付かない。

 ・・・あーあ。タッチ、そしてその後の期待はお預け、よね・・・。

 ガッカリとしたけれど、私は深呼吸をして頭を振った。

 でも、ヤツがそのつもりになったって、私はまた拒否反応が出るかもしれないってことを思い浮かべる。そうよ、まだ判らないのに相手をその気にさせるのは酷ってものよね、そう考えて、気持ちを落ち着けた。

 姿を見ることに対して起こっていた嫌悪感は消えている。それに、会話がないことにもイライラしなかった。だから多分、大丈夫だと思うけれど―――――――――

「・・・おーい」

 とりあえず起こそう、そう思って私はヤツに声をかける。恐る恐る手を伸ばして、ヤツの肩を揺さぶってみた。

 ・・・・・・・・・・・・嫌、じゃ、ない。

 おお!拒絶反応が今のところ、ないわよ!!よし、次の段階。ちょっと自信を持った私はもう少し近づいて、ヤツの頬をぐいーんと掴んでみた。

「おーい、風邪引きますよ〜」

 ・・・よしよしよし、嫌じゃないわよ〜!!

 思わず口元が緩んだ。ヤツは私にほっぺたを引っ張られたマヌケな顔のままで、まだぐーすか寝ている。

「大地くーん。起きなさーい、おーい」

 呼びながらもう片方の手で肩も揺さぶる。嫌じゃない。そして、ヤツは起きない。びよーん、ゆさゆさ。嫌じゃない!ヤツは起きない。びよ〜〜〜ん、ゆっさゆっさ。

 ────────もう!

「こうなったら実験台だわ」

 私はそう呟いて、ヤツのほっぺを引っ張るのをやめる。両目がしっかり閉じられているのを確認したあと、ゆっくりと自分の顔を近づけて行った。


 寝てしまった世界最強の面倒臭がりを起こすのは無理だと判っていた。

 だから、とりあえず自分が出来る範囲で確かめようと思ったのだ。

 それで、眠り姫ならぬ眠り王子・・・とは言えないわね、ええと〜眠り・・・おじさん・・・いやいや、眠りこけたオッサン(超がつく面倒臭がり。一応無味無臭)に口付けを、と思ったのだ。

 それで「全身ゴワゴワ電流」が走らなかったり、強烈な「やっちまったな〜!!の吐き気」などが起きなかったりしたら、きっと、私は元に戻るハズだ。そう考えたのだった。

 ちゃんとした、夫婦に戻れる。しかも、子供付きで。

 射程距離オッケー!軌道修正完了!よし、このまま着地〜。

 頭の中ではまた勝手に声が流れ出す。もういいや、私はゆっくりと目を閉じる。よく考えたら、これだって本当に久しぶりのキス────────・・・・


「・・・嵐は去ったのか?」


 バチっと目が開いた。

 はいっ!??急に至近距離で耳に飛び込んできた低い声に、私の全身がトリハダ状態になる。ぞわぞわぞわ〜っと寒気すら押し寄せて、私は仰け反って絶叫した。

「うひゃあああ〜っ!?」

 引きつって固まる私の前にはぼんやりした表情のダレ男。だるそ〜うに両目をうっすらと開いて、かったるそ〜うに私を見ている。・・・すだれのような前髪の向こうから。

「・・・うるさい」

 おっ・・・・起きて、た?

 額から急激に大量の冷や汗もしくは脂汗が流れ出すのを感じた。いまだ仰け反って固まった格好のままで、私は何とか呼吸を開始する。あまりにビックリして呼吸の仕方すら忘れていたのだった。

「・・・へっ・・あ、ええと!?お、お、起きてらっしゃったんですか!」

 絡まる舌を何とか叱咤激励して動かしそう言うと、ヤツは欠伸をしながらダラダラ〜と応える。

「今起きた」

「あ、そう・・・」

「そしたら」

「へ」

「都が俺を襲おうとしている場面で」

 うぎゃーっ!!私は顔面が火災になったかと思った。思わず両手で顔をバシっとおさえて激しく首を振る。

「いやいやいやいやいやいや!!お、お、襲ってなんかないでしょうがっ!」

「だって今」

「うるさいうるさい!」

「・・・煩いのはそっちね。桜起きるぞ」

 ぐっと詰まる。詰まった挙句に咳き込みすらした。・・・ああ、可哀想な私。

 がっくりと肩を落として私はヨロヨロと後ろに下がる。おかしいな、どうして今こんなことに?あら?私は全身を綺麗にして、それからちょっと漆原大地アレルギー反応を確かめようと・・・。あら?なのに何故、今、こんなに完全敗北したかのような恥かしくて情けない感じになってるわけ?

 何かわけが判らない状態のままで、私は呆然と床に手をつく。

 ・・・ええーっと?桜が起きる?それはまずい。・・・だから、とりあえず静かにしなきゃ駄目なのよね。それで、ええーっと・・・。

 床を見詰めながら両手をついて考え込んでいたら、目の前に影が落ちて大きな片手が私の顎の下に添えられた。

 は?なんて発言する暇もなく、持ち上げられた私の顔。そしてそのまま、私はヤツの唇を受けていた。

 ───────あん?

 浮かんだ文字はそれだけ。ちゅう〜っと10秒ほどの押し付けるだけのキスをして、私と同じような体勢になっていたヤツが顔を離す。

 まだ自分の唇に残った温かさや柔らかさを感じたままで、私はポケ〜とヤツを見上げた。

 たった今、妻に口付けをしたとは思えない普通の顔(つまり、無表情ってこと)で、夫である大地がボソッと呟いた。

「終わったみたいだな」

 私は思いっきり瞬きを繰り返す。えーっと、何が?キスが?それとも私達の関係が??

 ・・・日本語がわからない。誰か私に通訳をオネガイシマス。仕方ないから、目の前の宇宙人に質問することにした。

「・・・終わった・・・って、何が?」

 私はまだかなりマヌケな顔をしていたと思う。私から離れてゆっくりと立ち上がったヤツが、眠そうな目を擦りながら言った。

「ホルモンの嵐。俺に触られるの、嫌だったんでしょ」

「・・・」

「今は拒絶反応なかったな」

 ・・・だから、嵐は過ぎたのか?って質問が・・・きた、わけなのね。そして終わったのは、私のホルモンの嵐だって言ってたのね。

 ようやくまともに頭が働きだした頃、ヤツはフラフラと寝室へさっていくところだった。私はハッとして、床に座り込んだままの体勢でヤツの背中へ叫ぶ。

「ね・・ねえ!」

 もう完全に眠そうな顔をして、ヤツがゆっくりと振り向いた。

「あ──────あの・・・ごめん、ね。その、ずっと避けていて!」

 何とかいえた!私は実に情けない格好だったけれども、自分が誇らしく思えた。やった、ちゃんと謝れたって。

 ところがヤツは、ほとんど反応がなかった。

「・・・別に、謝らなくていい」

 ここで大きな欠伸を二つ。それからほとんど閉じた目を何となくこちらの方へ向けて、のたもうた。

「面倒臭いことなくて・・・むしろ、よかった」

 バタン。ドアは閉まった。ヤツは一人、寝室の中へ。

 残された私。ひっさしぶりにキスをした夫から、ひっさしぶりに貰った真実の言葉はこれ。

 ───────面倒臭いことなくて、むしろ良かった。


 ・・・・・・ぐぬううううううおおおおおおおおおおおお〜っっっ!!!あのダレダレ男おおお!!!返せ、私の悩みまくって罪悪感に打ちのめされていたこの春から夏を、返せえええええええ〜っ!!!

 目の端にうつったクッションをとっつかまえて、両手でボスボスと殴りまくる。だけれどもクッションでは抵抗感のなさに怒りは発散されず、大黒柱に目標をかえてガンガン殴りつけ、拳の痛みにのたうちまわった。

 ぬうおおおおおお〜っ!!痛い!痛いわ!色んな意味で全部が痛い〜っ!!

「ゆ・・・許せんっ!」

 無表情でキスとかしてんじゃねえ!しかもその後実験完了とばかりにアッサリ去っていくんじゃねえよっ!!

 自分のことは棚にあげて、私は心の中で大いに夫を罵りまくった。顔は真っ赤で、ちょっとばかり悔し涙を流したりもした。

 リビングの床をごろごろと端から端まで転がって、巨大な怒りを発散する。



 大黒柱に五寸釘、打ってやろうかと思いました、マジで。






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