君の心が
あの朝、彼女は言ったんだった。
結婚した時が最高潮の時だったなら、あとはもう落ちていくしかないのかしら。
前の席に座って呟いた妻の言葉に、俺は皿から顔を上げた。
「・・・何、いきなり」
俺は聞く。
いつもの朝食風景。目の前に並んだ、彼女の作ってくれたご飯。妻の実家が朝食はパン派だったので、我が家でも受け継がれた。トースト、サラダ、卵料理とコーヒー。
「恋愛結婚の場合ってね」
妻が言う。さっきトーストを口に入ればかりだったのでもぐもぐしながら。
「好きから始まって、目出度く付き合うことになって、それから紆余曲折を経て結婚にいたるでしょう?プロポーズの時が、多分、お互いに最高潮だと思うのよ。ドキドキの」
片手で曲線を空中に描きながら話す。
まだ化粧のしていない彼女の素肌はつやつやしていて、眉毛が少なくて短く、3歳は若く見える。朝の光りの中で、それが我が家の日常景色だった。
「それで?」
コーヒーを飲みながら壁の時計を気にする。後10分で家を出なければ。
「それが終わって大変な結婚式を終えると、さあ、そこからは普通の日常生活が始まるわよね」
「うん」
「最初は同じ家に帰れることが嬉しかったし、あなたの苗字で自分が呼ばれることに興奮したし、指輪がキラキラ光るのも嬉しいの」
俺は頷く。席をたって食器を流しに運んだ。その間も妻は話している。
「だけど半年もすればその状態にも慣れるでしょ?」
「・・・そうだな」
「すると」
ため息をついて席にもたれかかった。フォークで卵料理をつついている。俺があれをやったなら、すぐに怒声が飛んでくるはずだ。
「あとは日常生活なのよ。ご飯を作って、仕事に行き、掃除と洗濯を帰宅後にして、またご飯を作り、お風呂に入ると一日が終わる。両親の家を実家と呼ぶのに抵抗がなくなるし、新しい苗字にも感動しなくなり、指輪は家事の邪魔だから外したままになる」
「・・・」
「当たり前だけどメールや電話も減るし付き合っていた頃よりはエッチも減る。子供が出来たら、そのうち会話も減るんだと思うの。多分、話題が子供のことに限られちゃったりなんかして」
俺はこっそりと欠伸をかみ殺した。彼女が話している間に欠伸なんてすれば、下手したら晩ご飯が消える。
「だから、結婚時がトキメキの恋愛の最高潮なんだとしたら、結婚したらあとは落ちていくばかりなんだなあ〜、と思って」
俺を見る。・・・多分、何かしらのコメントを待っているのだろうということは判る。
だけど、これに一体何て言えって?
俺は時計をもう一度見て、ゆっくりと答える。
「・・・何て言って欲しいんだ?」
すると妻は膨れた。もう!と口を尖らせてぷんぷんしている。
「どうして男の人ってこうなの?全然判ってくれないんだから!」
そしてガツガツと残りの朝食を平らげて、ぷりぷりしながら食器を片付け、出勤準備をしに洗面所へ行ってしまった。
俺は天井を見上げる。
・・・・・どうして女って、ああなんだ。何が何だかちっとも判らない。
鞄を持って玄関に行く。
玄関横の洗面所で、彼女が自分の顔と頭に魔法をかけている。それを横目で見ながら通り過ぎて、思いなおして鞄をたたきに置いて洗面所に入った。
鏡を見ながら化粧をしている彼女を後ろから抱きしめる。
すると、表情が柔らかくなるのを知っている。この時の彼女の笑顔は、例えば眉毛が片方しかかかれてなくても、とてもいい笑顔なんだ。だからしばしばこうやって抱きしめる。それは、付き合っている時はしなかったことだ。結婚したから出来る、朝の夫の特権。
「・・・行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね」
君もね、そう返してそっと離れ、玄関で靴を履く。駅までの道を歩きながら、ぼんやりと考えた。
どうしてあんなこと考えるんだろう。女って、わからない。最高潮から落ちる?そのまま持続だとは思えないのか?日常生活になる?それがいいんじゃないのか?
第一、毎日ドキドキなんてしてたら心臓がもたない。
ため息をついて、改札を通った。
例えば。
あの、行ってらっしゃい、気をつけてね、という言葉だって、結婚してから言われるようになったのだ。毎朝、同じトーンで。喧嘩中でその言葉がなかった朝は、電車の中でも気持ち悪い。
例えば。
確かに触れ合いは減ったけど、押し倒さなくても彼女がこの手の中にいると思えるから、ガツガツした本能が湧いてこないのだ、と思う。
例えば。
どこかに手を繋いで出かけるのも楽しかったけど、化粧をしていないラフな格好の妻と居間で思い思いに過ごしては、お茶飲む?とかあれ取って、とかの声がかかる、そういう柔らかい時間だって贅沢だと思うのだ。
洗濯物の干し方だけは譲れないと腰に手をあてて威嚇する妻が。
晩ご飯は何でもいいと答えると、じゃあ白いご飯だけでも?とじろりと睨む妻が。
仕事がハードだった日に、ちょっと休憩させてとソファーに転がる妻が。
大事だと思える。それが結婚じゃないんだろうか。それをいちいち言葉にしないだけなのに。
心が見えるようだったのは、付き合っている頃だろう。
口に出して伝える努力が必要だから。
だけど夫婦になってからは、確かに言葉も減ったかもしれない。
電車の中は蒸し暑い。窓際でぼんやりと考えてるうちに会社の最寄駅に入って行った。
あの日もそうだったんだ。こんな電車の中で色々考えてた。
だけど、そのまま俺は日常に入り、妻は二度とその話をしなかった。
だからすっかり忘れていたんだ。相変わらずの毎日だったし、大して喜びもなかったけど、同じく不満もなかったから。
でも、それは俺だけだったらしい。
一緒に平凡な幸せを生きていると思ってたのは、俺だけだったらしい。
それから半年経って、妻は緑色の紙を俺の前に差し出して、ごめんね、と言った。
しばらくそれを見詰めていた。
理解出来なくて戸惑った。だけど真剣なんだとその表情から判った。彼女がずっと考えに考えて、決断したのだと判った。
これから時間をかけて話しても無駄なのか、と聞くと、そうねと悲しそうな顔をしていた。
そんな顔を見たくなかった。
だから、黙って名前を書いて判子を押した。
妻は、元妻になった。
もしも、心が見えるなら。
彼女の心が見えるなら。
寂しいとか、嬉しいとか、物足りないとか、壊れそうだとか、判るなら。
俺は手を伸ばす。
深い深いブルーでも、真っ黒な墨みたいな色でも。
その色に一緒に染まりたいと願う。
それで笑ってくれたら嬉しいと思う。
それを伝えないとダメなんだな。ダメだったんだな。だから、彼女は行ってしまったんだな。
口に出さないと、ダメだったんだな。
後ろを振り返らずに歩いて行った。その髪が揺れて触れる肩が細いのも、俺は知っていたのに。
知っていたのに、俺は。
周りが心配してくれて、色々と誘ってくれる。だけど俺はただ手を上げて感謝を示し、黙々と仕事をした。
大事な日常は失ってしまった。
どうやったら笑えるのか、わからない。
妻の居ない家に帰って、会話がないからテレビをつける。そして寝て、たまに寒さで目を覚ます。あの温かい体を探す。でも隣には、冷たいシーツが広がるだけ。
もっとたくさん、抱けば良かった。思い出す記憶さえ悲しく薄れて遠ざかりつつある。
大きなベッドで、夜の中、一人で途方に暮れる。
朝はトーストだけを焼いて、台所で突っ立って食べる。パンに塗るものが何もなくて、冷蔵庫をバタンと閉めた。
また仕事にいく。ひたすら仕事を片付けて、出来るだけ家に帰る時間を遅らせていた。
そうやって過ごしていた。離婚をしてから2年間、何とかただ、息をしていた。
原因がわからない別れって、こんなに辛いのか、と思った。
だけど、寂しがり屋の彼女に別れを選ばせたのは間違いなく俺なんだろう。一緒にいるだけではダメだったんだろう。
性格の不一致、と言っていた。二人とも働いていたし、財産も平等にわけて修羅場なく終わった。
心の傷と何でもない日への憧れだけが、ゆっくりといつまでも続いていた。
がやがやと騒がしかった。
駅前の夕方は、学生町だけあって若者が溢れている。居酒屋の呼び込みとかカラオケの呼び込みとか、手の中に押し付けられていくそれらのチラシを何となしに眺める。
たまたま久しぶりに仕事が早く終わったのだ。
寄るところもなくて真っ直ぐ帰ってきた。一人の家にもようやく慣れたころだった。
商店街の焼き鳥屋の匂いにつられて顔を上げる。
そしたら、そこに見つけた。
「―――――――」
彼女が立っていた。視線を感じたのか、急に振り返って、目を見開いた。
何て言えばいいのか判らず、戸惑って無言で立ちすくむ。
夕日と、匂いと、喧騒が遠ざかった。
今がいつなのか判らなくなった。懐かしい景色にいるようだった。
・・・どうして、彼女がそこに居るんだろう・・・。
じっと見ていると彼女が歩いてきた。
見たこともない顔をしていた。困った微笑、というか。懐かしいあの唇を開けて、言った。
「・・・・会いに来たの。だけど」
息を吸い込んだ。
「もう誰か大切な人がいるならそう言って。そしたらこのまま帰るから」
俺は無言でじっと彼女を見下ろす。
わざわざ、ここまで来たんだな。俺に会えるかなんて保障はないのに。まだあの家に住んでるかなんて、判らないのに。
通勤鞄を握り締めている。その手には何の装飾品もない。
別れたときより痩せた肩を見る。前よりも柔らかくなった雰囲気と、変わらない彼女の香りが胸の中に染み込んで来る。
次にもし彼女に会うことがあれば、自分がどうするだろうと考えたことがあった。怒る?無視する?それとも、ちゃんと笑えるだろうか、と。
現実にそれが起こったら、俺はただ、突っ立って眺めているだけだった。
急に緊張して口の中が乾いた。空咳をしたいのを飲み込んで、苦労して口を開いた。
「・・・・良かったら」
パッと彼女が顔を上げた。
「俺とご飯、行きませんか」
噛んでいた唇を離す。微笑から、悲しい気配が消えた。
「・・・嬉しい。私、お腹ぺこぺこなんです」
大きく笑った。彼女のバックで夕焼けが空を覆っていた。それをもろに浴びて、俺は眩しさに目を細める。
彼女の心が見えたなら、もしも、透き通って見えたなら。
今は、この夕日みたいに綺麗なオレンジなのかな。
それとも彼女の好きなチューリップのような赤。
見たいな、それが。見れたらいいのにな。心の中が、何色なのか。
ぎこちなく並ぶ。だけど歩き出したら、付いてきた。
あのテンポとヒール音で。彼女がいなくなってから、夢の中で聞こえたあの音を立てて。
夕日が眩しい。
目が開けられない。
聴覚を全開にして、彼女の立てる足音に集中する。
隣を見れないから、左手で彼女の手を握った。どこにあるかは知っている。一緒に歩いている時の彼女の手の場所はまだ、俺の体が覚えている。
小さかったけど、握り返す力を感じた。
それが口元を緩ませる。
どこに行く?と前を向いたままで聞いたら、実は、と小さな声が聞こえた。
「・・・お腹、空いてたんだけど、今は胸がいっぱいで、とても食べられない」
彼女の返事に笑う。その自分に気付いてハッとした。
―――――――俺、今、笑えた。
確かに、どこでもいいなんて言葉は昔も聞いたことはなかった。何にでも正直な彼女らしい返事だ。
俺はやっと隣を見る。
斜め下から彼女が見上げる。
「・・・家に、帰る?」
あの家に、帰る?
俺の言葉に小さく息を吸い込む音がした。手を握る力が強くなった。
隣を見ると、彼女は泣き笑いだった。そして何度も頷いていた。
そんな顔も初めて見た。
・・・なんだ。俺はぼんやりと考える。
何だ、長いこと一緒に居たのにどうして別れなければならなかったのか、いつまでもわからなかった。だけど、何でも知ってると思っていた彼女の、見たことない表情だって、まだまだこんなにあるんじゃないか。
夕焼けの紅色が目に染みる。
その強烈で優しい赤からオレンジのグラデーションは、景色の全部を同じものとして溶かす。
今度は何色になっても。
隠されて見えない彼女の心が何色に染まっても。
俺は、ちゃんと探るんだ。
探って、抱きしめよう。
もしも心が透き通れば、見ただけでわかるなら。
楽だけど、面白くはないかもな。
そんなことを思いながら、彼女の手を引いて歩いた。
一緒に帰った。
二人で生活していた、あの家へ。
君の心が、今・・・
優しい色で一杯ならいいのにな
そう思う。
「もしも透き通れば」終わり。
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