safety place






 ここにいると、夢の中を漂っているみたいな気持ちがする。








「お待たせ。――――おいで」


 彼とここにいると、まるで夢の中にいるみたいに、現実感がない。

「ほら、リリー」

 今日も拓さんは、掠れた声でそう呼びかける。それから、手を。

 私は差し伸べられた彼の大きな手をじっと見詰める。


 拓さんと、秘密の時間。


 ひんやりとしたフローリングに裸足で座り込んでいた。

 その私を見て彼は、いつも少しだけ、笑うんだ。

 それから言うの。

 リリー、こっちへおいで、って。


 部屋の中はほどよく暖かくて、私の好きなお香が焚かれている。外は雨で冷たい世界だけれど、ここは守られた場所。

 それから、いつもの時間がくる。


 百合子というのが私の名前。だけど最初に会ったとき、拓さんは真面目な顔でこういったの。百合ってことはリリーだね、って。じゃあ俺は、リリーって呼ぼう。そのほうが、現実感が薄れていいだろう?って。

 現実感を排除、それはあの頃の拓さんの、趣味みたいなものだったのだろうと思う。


 窓は白く煙ってしまって、結露で全体が濡れている。

 外の単調な雨音。それを聞きながら、私はゆっくりと服を脱ぎ捨てる。

 まだ成熟したとは言えない白くて細い体を抱きしめて、拓さんは薄目になって呟くのだ。

 ああ、どうして君は、こんな体でここに――――――――

 私はいつも笑いそうになる。どうしてって、拓さんがそう望むからでしょう?それに私の体を作ったのは、あなたなのに。

 だけど二人は、繋がっている時はあまり喋らない。

 ただ一生懸命に溶け込んで、時間をゆったりと分け合っていた。

 そんな毎日を、もう4年も過ごしている。



 拓さんは、家庭教師だった。

 私が高校生だったころ、あまりに危機感もなく下がり続ける成績に何もしない娘にあきれ果てた両親が、知り合いの予備校講師にアドバイスを頼んだら、その弟が家庭教師としてやってきたのだ。

 夏の終わりの暑い夕方で、まだ蝉が鳴いていて、彼は汗を拭いながら言った。

 宜しくね、君はちょっと不満かもしれないけど、これが人生だと思って受け入れて。

 私はそんなことを言われるとは思っていなくて、勝手に親が決めた家庭教師にぶつけてやろうと企んでいた暴言や悪戯を、ついやめてしまった。

 ちょっと長めのこげ茶色の柔らかそうな髪に、真っ直ぐな眉毛、それから一重の瞳。口も鼻も小さくて、綺麗な顔だと思ったけれど、かなり無表情だった。彼は興味なさそうに私の部屋を見回してから、ベッドにもたれて座り込んだのだ。

『人生って、不満の連続なんですね、先生』

 そう私が言ったら、彼はひとつ欠伸をしてうーんと体を伸ばしてから言ったのだ。そうだね、って。

『戦おうとか、受け入れようとか考えたら、人生って面倒くさいし複雑なんだよ。流れていけばいいんだと思ってる。目は開けたままで、流れに身を任せるんだよ』

 本当はちっとも判らなかったけれど、その時の私は判ったふりをした。

 拓さんは不思議な人で、勉強を教えにきても寝てしまうことの方が多かった。聞けば判りやすい回答や解説をくれたけれど、基本的にはずっと寝ていた。彼がベッドを占領してねてしまうので、仕方なく私は放置されたプリントを片付けだしたのだ。

 沈黙が嫌じゃなかった。

 妙に落ち着いて、他にやることのなかった私は勉強をしていた。

 だから成績が上がってしまって、両親は喜んだし、拓さんも褒められたらしい。

『ボーナス貰っちゃったよ、リリーのお陰だね』

 そう言って1万円札をヒラヒラさせながら、彼がある時言ったのだ。

『二人で使おうか』

 って。

 いいの。私は首を振った。先生が、一人で使って。好きなことをしたらいいのに、って。すると彼はぽりぽりと指で頭をかいて、私に聞いたのだ。

 じゃあリリーは、何かして欲しいこと、ある?

 言ってみて。俺で出来ることなら、やるよ。

 その頃の私は、興味があることが一つだけ、あったのだ。

 だから、お願いした。

 先生、ねえ、キスを、してみたいの―――――――――




 彼が私の両足を押し広げて入ってくるときの、耐えてるような顔が好きだ。

 じんわりと汗の浮かんだ額、それから、赤くなった耳朶や頬骨の所。苦しそうな顔を一瞬和らげて、少し笑ってくれるところも好きだ。

 大学を卒業してからしばらくフラフラして、今は専門学校で陶芸の勉強をしている拓さんの指には、いつも粘土がつまっている。もう洗っても落ちない汚れや、ガサガサした手の指の腹。その指で、色んなところを触られるのも好きだ。

 事務職で新社会人になり、一人暮らしをしている私の部屋に、拓さんはたまにやってくる。

 そして抱いて、時間を共有している。

『ここはセーフティプレイスなんだよ、俺にはね』

 そう、ぼんやりと言ったことがある。

 君がいて、その細くて温かい体や、ここにある沈黙や、香り。全部がしっくり馴染むんだよ、って。

 私は温かいお茶を淹れて、黙って聞いている。

 望まれれば手を差し出す。

 その時の、音や、空気や、光。

 外の寒さを遮断して、心地よい綿の中に包まるように。


 ここにいるとまるで、夢の中を漂っているみたいな――――――――


「ねえリリー。・・・君はどうして抱かれるの?」

「拓さんは、どうして抱くの?」

 質問には質問で返すと決めていた。だって、ハッキリと答えられる理由なんてないのだから。

 彼はたっぷりの間をあけて、ぼそぼそと答える。

「・・・君が、魅力的だから」

「違うでしょ、拓さん。ただ、たまたま男と女だからよ」

 彼は苦笑する。それからまた、二人とも黙ってぼんやりとするのだ。


 甘ったるい告白も、健全な抱擁も、ここにはない。

 不満も嫉妬も不条理なイライラも、ここには持ち込んではならない。

 ただただ、正直な自分に戻るだけ。

 好きか嫌いかと聞かれれば、好きだと断言する。だけど、恋だの愛だのとはちょっと違うと感じている。

 手を伸ばす相手がいて、彼のその、こちらを見る瞳が好きだ。静かな雰囲気も、淡々とした物言いも、好きなのだ。そして、自分の目の前にいる。

 だから近づいていく。そっと唇を押し当てる。手が回される。熱も呼吸も分け合いだす。

 それは流れるように自然な出来事で、理性や頭脳は必要ない。

『夢の終わりって、どんなのかな、先生?』

 昔、私がそう聞いた時、拓さんはうっすらと笑った。教科書を広げて、壁にもたれた格好で。

『・・・さあ。俺には判らないな。興味もないからね。・・・だけど』

『だけど?』

『ちょっと物悲しいんじゃないかな、多分ね。だから、夢は終わらないほうがいいのかも』

 夢の終わりは物悲しい?

 だったら、私には必要ないかもしれない。

 高校生の時はそう考えた。物事に、あまり興味を持たない私だったから、それはそれで平気だった。だけど今ではもう、その考えも、小さくなってしまっている。


 夢は、いつか終わるのだ。

 だから、ここの幻もそのうち消えてしまうだろう。

 拓さんが、ある時からこなくなるかもしれない。

 私が、この部屋から出て行くかもしれない。

 連絡手段のない私たちには、この部屋しか繋がりがない。だけど、それだからこそ、幻みたいな世界へ入り込めるのだ。

 小さな、白い世界、セーフティプレイス。

 ここにくる時は、感情や理性は置いてきて。ただ一つになって、溶け合いましょう。


 雨は、まだやまない。


 裸のままで包まった毛布ごと、彼がゆっくりと撫でる。

「・・・おいで」


 私はまた、手をのばした。







「safety place」終わり。




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