1、気持ちを手放した

 ドアベルがちりんと涼しい音を立てた。


 私は7センチヒールの足を踏み出して、笑顔を貼り付ける。

 薄暗いバーの中は待ち合わせ相手とバーテンダーしかいなかった。

 馴染みのバーテンダーが軽く会釈を送ってくれるのに頷いて、私は正輝の隣に滑り込んだ。

「・・・・お待たせ」

 ぼーっと前の壁にかけられたメニューの小さな黒板を見ていた正輝が、ゆっくりと顔を向けた。

「・・・おお、遅かったな。残業?」

 片肘をカウンターについていたのをおろして、体ごと隣の私へむけ、やっと笑顔らしきものを作った。

 違う、残業なんかじゃないってーの。

 私は心の中でそう呟いたけど、声出しては別のことを言った。バーテンダーに向けて。

「ジン・トニックください」

 ここでの最初の一杯はジン・トニックと決めている。私好みのゴードンのジンを使ってくれるし、マスターの配分は申し分なくてパーフェクトなカクテルだ。

 ちらりと見ると、正輝はカシス・マンを飲んでいるようだった。

 そんなにアルコールには強くないのに、いきなりそれか・・・・。

 こりゃ相当凹んでると見た。

 マスターが照明を浴びてキラキラと光るジン・トニックを置いてくれる。

 私はお礼を言って微笑むと、早速それを口に含む。

 微炭酸が心地よい。甘酸っぱい爽やかな味が広がって、私は満足の吐息を漏らす。

 ・・・素晴らしい。今日も完璧なカクテルだ!

「美味しい。流石ですね」

 バーテンダーに笑みを送り、それからおもむろに正輝を見て口を開いた。

「また振られたのね」

 一瞬痛そうな顔をして、正輝が唸る。

 ・・・ああ、やっぱりそうなんだ。私が呼び出されたわけは。

 正輝はそろそろと口元を片手で覆い、小さな声で言った。

「・・・・俺、何がダメなんだろうか・・・。何か足りてないんだよな、多分」

 ――――――人を見る目だろ。

 思わず自分の中で突っ込みをいれてしまって、いかんいかんと頭を振った。

 そんな、身も蓋もないことは言ってはいけません。危ない、口に出してしまうところだった。

「どうせまた高嶺の花を狙ったんでしょう」

 今度の彼女は2ヶ月か。ま、前のよりはもったほうだよね。私は心の中でそう呟いて、こっそりとため息をついた。



 前の会社での同期だった井谷正輝は、よく女に振られる。

 私はその度に酒に付き合い慰めるハメになる。

 外見は並の上、もしくは上の下。町や会社では「彼、格好いいんじゃない?」と言われるタイプだ。

 身長だって日本人男性の平均はいってるし、物腰も柔らかで仕事だって真面目にやる。

 お酒もほどほどに嗜むし、タバコは吸わない。

 だから、好きになった女がいると付き合うまではいつでもいける。ちゃんと自分からアプローチもするし、努力もする。

 ただし、続かない。

 私はグラスを傾けてキラキラと光る素敵な液体を喉に流し込む。

 正輝が女に振られるわけ、それは、優しすぎる性格にあると思っている。

「・・・大切にしてたんだ。でも、もうあなたとは会わないだってさ」

 拗ねた口調でカウンターに両腕をのせて顎を沈める。

「泣き言は止めて。せっかくのお酒が不味くなる」

 私は彼の方を見もしないで、マスター、と声をかける。

「お代わり。それと、ポッキー」

 マスターが頷いて私の為に素敵なジン・トニックを作り始める。

「・・・お前、本当にキツイなあ〜・・・」

 隣の凹み野郎が私に言った。

 じゃあいちいち呼び出さないでよ、恋が一つ終わるたびに。

 私はハニーベージュのストッキングに包まれた足を高い椅子の下でぶらぶらさせる。そして、彼の方を見もせずに言った。

「デートは自分で予定を決めずに相手に任せたんでしょう」

「うん」

「昼ごはんも晩ご飯も、君が食べたいもので、なんて言ったんでしょう」

「・・・うん」

「プレゼントは一緒に選びに行こうなんてしてたんでしょう」

「―――――・・・何でわかるんだ?」

 正輝は体を起こして私を見た。目を丸くしている。

 私はため息をついた。

 お礼を言ってグラスを受け取り、一口飲んで口を湿らせる。

 全く、素敵なお酒でもなきゃやってられない。

「・・・正輝は、それが大切にしてるんだって思ってるんでしょうけど、女にはそう思えないってことでしょうが」

「え!?」

 本当に判らないんだろうなあ〜・・・。私は鞄をあさってタバコとライターを取り出す。

 慣れているマスターは、さりげなく灰皿を置いてくれていた。

「・・・・自分のやりたいことや食べたい物がいつでもハッキリしている人ならそれも喜ぶでしょう、自分のペースで物事が進むから。だけど、あんたが選ぶ女は皆チヤホヤされるのに慣れているようなモテ子ばかりでしょ?彼女に選択権ばかり押し付けるのは、ガッカリさせるだけで大切に扱われたとは思ってないわよ、多分」

 紫煙を吐いた後で一気に言った。

 正輝は唖然としてそれを聞いていた。

 ショックを受けているらしい。片手で目をごしごしと擦っていた。

「・・・・俺、彼女が喜ぶと思って」

 私は音をたててポッキーを食べる。その音で彼の弱音をかき消すのだ。

 あー、もう。イライラする。

 以前はちゃんと話もきき、ヤツの気が済むまで愚痴も聞いてやったのだ。

 だけどさすがに4年もしてりゃあ私も優しさは下落するってもんである。

「デートくらい自分でコーディネートしなさいよ。自分を喜ばせようとここまで考えてくれたっていうのが、ぐっとくるところなんじゃないの?」

 他の女はね。私は自分の好きにさせてくれるのがいいから、何にも決めてない男の方がいいんだけど―――――――

 チラリと正輝を見るけど、もう彼は昨日まで付き合っていた女との記憶に没頭してしまってた。

 あー、もう。ムカつく。

 私はグラスをあける。マスターがこっちを見ている。頷いた。

「・・・本当だ。俺、彼女がやりたいことをして笑ってくれる方がいいと思って、何がしたい?って聞いてた、かも・・・」

 悄然と肩を落としながら、正輝は呟く。

 ほら、ね。私は判ってるんだから。

 あなたの事は、よく知ってるの。

 その他の女が物足りないと思うような優しい性格も。本気で相手のことを考えて色々譲ってるんだってことも。

 私は知ってるのに――――――――

 彼がぽつぽつ彼女とのことを話すのは、氷を噛み砕く音とポッキーを食べる音で消してやった。

 もう4年ほど、こうやって一緒に飲んでいる。

 正輝が恋を失って私を呼び出し、自分の気持ちを整理する。私は溜まってる仕事を更に翌日に回して駆けつけ、毒舌を吐きながら彼に付き合う。

 そして翌日、二日酔いで痛む頭を押さえながら膨大に積み上げられた書類を裁きつつ、ため息をつくのだ。

 彼はまた、その内新しい恋を見つける。

 そしてあの嬉しそうな眩しい笑顔で、好きな人が出来たんだって私に報告するんだろう。

 私はいつでもここでジン・トニックを飲んで相槌を打つ。

 正輝の為に仕事を放り出して来て、化粧を直し、綺麗な形のスカートをはいて、自慢の脚をよく見せてくれるヒールに履き替えて。

 他の女に恋をする彼の笑顔を見詰めるんだろう。

 正輝も3杯目を飲んでいた。

 目元は赤くなって、完全に酔っ払っている。

 私はもう5杯目なのに、ちっとも酔えないで火をつけていないタバコをカウンターに打ち付けていた。コンコンコン。自分で音を立てて、それにイライラする。コンコンコン。

 ・・・くそ。

「・・・終電、なくなるわよ。もう帰ったら?」

 相変わらず他にお客さんはいなくて、マスターは隣の小部屋に引っ込んでいる。私に気を遣ってくれてるのが判っていた。

 んー?とトロンとした瞳を私にむけて、正輝は手をヒラヒラと振った。

「・・・どうせ帰っても一人だ。もうちょっと飲もうぜ・・・」

 でもそこで、時計を見て、あ、と言った。

 酔っ払った口調でたらんと言葉を続ける。

「―――――・・お前、大丈夫?明日も仕事だよな・・・」

 そこ、気付くんだから、私の存在にも気付いてくれる?

 長年あなたの近くにいた私を、そろそろ認識してくれない?

 などとは言えず、私はどうしようかと天井を仰ぎ見た。

 バーの中は落とした照明。時間は既に終電間際。

 グラスの水滴がキラキラ。

 私の大切なハニーベージュのストッキング。

 昨日正輝から電話があったから、買った新しい口紅。

 重ね塗りしてきたマスカラ。

 いい香りのするハンドクリーム。

 私を見ても気付いてもらえないそれらの素敵な小道具たち。

 彼の為に用意した、その小物たち。

 ・・・あーあ。

 私は目を閉じてぼんやりとしながら、足を揺らす。ゆっくりと流れるジャズの音楽に浸っていた。

「・・おーい、翔子?」

 正輝の呼びかけにゆっくりと瞳をあけて、彼を見た。

「お見合いしようと思うの」

「―――――え?」

 いきなり振られた話題に彼はついていけず、目を瞬かせる。

 私は鞄にタバコとライターをしまい、椅子から滑り降りた。

「・・・・もう29歳だし、周りもうるさいし、そろそろ結婚相手を見つけないと。忙しくなるから、もう正輝に会えないと思う」

 一気に話した。

「―――――」

 顔は酔った赤みのままだったけど、さっきよりは幾分はっきりした瞳で私を見る正輝に手を振った。

「おやすみ。最後まで付き合えなくてごめんね。帰り、気をつけてよ」

 私の声が届いたらしく、マスターも出てきた。

 いつも美味しいお酒をありがとう、と声をかけて、私は歩き出す。

 後ろで、翔子、と呼ぶ声が聞こえたけど、私は振り返らずにドアを閉めた。

 外に出ると同時に視界が揺れた。

 ・・・・ああ、畜生・・・。やっぱり私も、酔っ払ってる・・・・。


 名前で呼び合うほどに仲が良かった同期だった。

 私は少しずつやつに惹かれていったけど、やつはいつでも他の女に惚れた。

 キャリアアップにかこつけて、やつがいる会社を離れた。

 だけど縁は切れなかった。

 いつか―――――――

 ・・・・いつか、こっちを向いてくれるかも。

 そう思ってきたけど。

 昨日の電話での呼び出しで、決めたのだ。今回が『振られたから慰めて』のいつものパターンじゃなかったら、自分から告白しようと。

 覚束ない足取りでフラフラと駅に向かう。

 もう、ヒールが邪魔だったら・・・脱いで走るか?いっそのこと。

 そしたらストッキングもめっためたになるってーの、もう・・・・私のバカ。

 笑おうとして失敗した。

 変な表情のまま、駅の中に入っていった。

 明日に回した大量の仕事が、私を待ってる。

 帰って寝なくては。

 眠れたら、いいんだけど・・・・




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