4、友達、それから、元の世界@
薄暗いパブの中で、彼女はするっと手をあげた。
しっかりと杖を地面につきながら、男が一人店の入口から彼女の方へむかって歩いていく。カツカツと音を立てて、彼は自分の存在を店中に知らせようとしているようだった。
「いらっしゃい、いつものすぐにもっていくわね〜」
店のカウンターで、再婚したばかりのママが幸せな笑顔を振りまきながら男に言った。彼はひょいとそれに手をあげて答える。
彼女は口元を緩めて、自分の方へ近づいていく男をみていた。
・・・ああ、やっぱり年をとってるねえ。そりゃあそうか、だって私もこんなによぼよぼになってしまっているんだからね・・・。
一瞬、薄暗いパブの中が、過去の記憶で埋め尽くされる。
まだ戦争をしていて、大きな国との衝突に備えてそこら辺りに新聞紙が散らばっていたものだった。皆辛気臭い顔をして、明日食べるご飯やなくなるかもしれない仕事の心配をしていた。その時、彼と彼女はまだ20歳を少し越えたばかりで、未来の心配をするには若すぎたし、もしかして死んでしまうかも、などとは思わずに、ただ人生がうまいこと運ばないのは全部戦争のせいだ、と思うことにしていたのだった。
あの日も彼と彼女はここで待ち合わせしていた。
二人は寄宿学校を卒業してからの友達で、共通の友達を引き連れていつでも一緒に街を練り歩いていたものだった。
何人かの友達は志願して兵士になったし、女達は看護で戦地へ出て行くそんな時代、彼女は小さな新聞屋で記者をしていたし、彼は父親の牧場を継いで牛の世話をしていたので無事だったのだ。
友達皆がいなくなっても二人はよくそこでエールを飲んだ。一番安いエールを、お金を出し合って半分こしていた。そうやって未来のことや、今日は何が市場で安かったなどの他愛もない話を沢山していた。
親友と呼べる気軽で大切な相手だったのだ。
だけれども、やがて大きくて長かった戦争はやっと終わり、それぞれの国がそれなりに平和になった時、彼らにも違う道がぐねぐねとのびていて、それは二人の分かれ道でもあった。
じゃあね、また―――――――――そう言ってあの遠い日に手を振って別れてから、その後は会うことなどなかったのだ。その翌日から、彼らの人生は大きく動き出していたからだった。
彼は年下の従妹と結婚して牧場を大きくしていったし、彼女はアメリカに渡る婚約者についていくことにしていた。話が急に進むことが重なって、彼女はすぐに異国へむけて出発してしまったのだ。その時以来、二人の人生が交差することはなかった。
だけど、彼女の連れ合いが病死して、そろそろ70歳の半ばである去年、彼女は生まれ故郷へ一人で戻ってきた。
そしていつでも仲間達とつるんでいた、このパブへと足を運んだのだ。それは自分に対する確認だった。私は確かに、ここで、あの日生きていた―――――――――
まさかそこで、若いころに一番の友達だった男がいるとは思っても見なかった。
二人はお互いが、すぐに判った。耳の形や手の形、そんなところでお互いをしっかりと覚えていて、時間がなかったその日には一言だけをかわしたのだ。
また、会う約束を。
それが今日で、彼女は先にきて待っていた。
48歳の時に車の事故にあって右目の視力を失っていたから、彼女は左目を精一杯見開いて、彼の姿を見つけ出した。
「ああ・・・」
唇からもれる声は嬉しそうだ。
男は杖をついて、ゆっくりと彼女の前にきた。二人は立って抱き合うことはしなかったけれども、彼がテーブルの上の彼女の手をポンポンと叩く。それだけの挨拶をした。
「・・・本当に久しぶりだね」
「そうね。・・・お互い年をとったけど、あなたは元気そうだわ」
彼女の言葉に彼は頷く。それから、ゆっくりと前の椅子に座って帽子を取った。
「皺の数だけ笑ったんだ、と思うようにしているよ」
「それ、判るわ。負けず嫌いなところは変わってないと知って安心したわ。国も、街も、いろいろと変わってしまっていたの。・・・だからあなたがここにいて、初めは夢ではないか、と思ったものだわ」
思いは同じだった。彼とて、自分だけはずっと同じ場所に住んで同じ店に通っていたが、友達は皆どんどんいなくなり、死亡通知もほとんどこなくなってしまったのだ。
いつものように朝店にきて、新聞を読み、軽食を食べて、孫の学校が終わるまでを過ごしていた。そんな平坦で変わらない毎日の中に、ひょっこりと若い頃の女友達が現れたのだから。
「奥さんはまだお元気なの?」
彼女は気になっていたことをやっと聞く。二人の結婚式に出て、花びらを撒いたのが、この男友達の妻を見た最後の時だったのだ。
彼女の言葉に彼は遠い目をした。
「・・・10年前に、あれは逝ってしまったよ。嵐の夜に、事故が起きたんだ」
彼女は言葉をなくしてしまう。それから、男友達の手の上に、今度は自分の手を重ねた。
「私もよ。夫は亡くしてしまった。娘が一人いて、まだアメリカにいるけれど、私はこっちに戻ってきたのよ。まだ父の家があったから・・・」
「そうか」
騒がしいパブの中で、二人の小さなテーブルだけが、静かに時間を過ごしていた。
最後にこの店で会ったときは、彼らはまだ20歳になったばかり。そして今はもう、80歳を目前としている。それぞれがゆっくりと、色んなことを話していた。
二人はお互いが知らないところで知らない人生を生きて来たことを、まるで本を読むかのように聞く。そして新鮮な驚きに打たれるのだ。自分達は、こんなにも長く生きて来たのかと。
窓の外に夕焼けが広がりだして、彼女はそれを瞳を細めて眺めた。
「まだ話したりないけど・・・今日は、帰るわね。冷えてきたからあなたも気をつけて」
「君もね」
ゆっくりと彼女は立ち上がって、慎重に毛糸の帽子を被った。それから店の入口に向かう。
胸の中では、知らなかった男友達の今までの人生の話しが、行ったり来たりしていた。
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「・・・友達の、部屋だったのね」
千沙の声で、ピノキオも目を開けた。
「うん。部屋じゃないよ、千沙。これは全て平行世界だよ。君が自分の時間に戻っても、彼らの時間もそのまま同じで動いているんだから。今は・・・そこにちょっとお邪魔させてもらっているだけ」
千沙は頷いた。そうなんだろうと判ってきた。本や、映画でよく取り上げられるのは知っている。これは所謂「パラレルワールド」と呼ばれるものなのだろう。
この世界に無数にある他の時間。同じような世界でどれも少しずつ違っている。どれも千沙とピノキオだった。だけれども、関係性も、外見も環境も全て違うのだ。今の世界は、どこかヨーロッパの方の国のようだった。瞳の色は緑色だったし、髪も色あせた金髪をしていた。
彼らは彼らの世界で今を生きている。
なのに、私はどうしてそれを覗いているんだろう?そしてどうしてドアは6つしかないんだろう。千沙の頭の中は疑問で占められた。彼女は一瞬うんざりして、眉間に皺を寄せる。
「・・・6つしか、ないの?」
声に出して言ってみた。返事を期待してのことではなかった。それよりも、彼女はピノキオの声が聞きたかったのだ。ちょっとかすれて、ちょっと高めの、人間になったピノキオの声。
うん、と呟く声が聞こえた。
千沙はゆっくりと彼を振り返る。その、海の底のような一面の青い部屋で、二人で突っ立って、もう随分と時間を過ごしてきたような気がしていた。
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