run and hide 後編



 「正輝・・・」

 私はダイニングに入る手前のところで足を止め、呆然と呟いた。

 さっきまでの風呂上りのリラックスモード全開の正輝はそこにはおらず、こざっぱりしたお出かけスタイルになり、髪にも櫛を通した爽やかな状態で、優しく微笑んでいた。

 花束を抱えて。

 ガーベラのオレンジの花が正輝の笑顔の横で揺れている。カスミソウが頬に当たってこそばそうな顔をしてから、彼はゆっくりと近づいてくる。

「――――ホワイトデーなんだって、知ってた?」

「え?」

 私はハッと顔を上げた。

 ホワイトデー?ええ?ちょっと待って、今日は、今日は・・・・。慌ててキッチンの壁際のカレンダーに目を走らせる。・・・3月14日。あらららら。本当じゃん・・・今日ったら、ホワイトデー。

 一ヶ月前のバレンタインの記憶がいきなり蘇る。私たちはいきつけのあのバーで、仲良くカクテルアワーをしていた。そして正輝がトイレに立った隙に、私はマスターに協力して貰って隠していたプレゼントを出しておいたのだ。

 酔って目元を赤くした正輝の嬉しそうな顔も、そのあと、マスターに後ろ向いてて下さいと言ってからくれた深いキスも、思い出した。

 俺、彼女にプレゼント貰ったの、初めてだ――――――そう言って、顔をくしゃくしゃにして喜んでいたのだった。

 それが。何と。

 ぶわっと真っ赤になったのが自分で判った。振り返って正輝を見上げる。

「やっぱり忘れてただろう。結果的にサプライズになったな」

 あはははと笑って正輝が花束をくれる。私は呆然としたままで無意識にガーベラの花の香りを嗅いだ。

 まさか、こんな素敵な。

 今まで一人だった3月14日に素敵な思い出なんてなかった。大体いつも繁忙期で、忙殺されてボロボロだったはずだ。

 ところが、今年は惚れてる男に・・・花束を、貰っちゃった・・・。それも、ガーベラ。私の好きな花。

「・・・覚えてたの?」

 一度しか言ったことはないはずだった。ガーベラが好きなの、なんて。しかも正輝はガーベラがどの花が判らないって言ってたはずだ。あれはまだ私達が同じ会社で働いていた頃の話。遠い昔の話だ。

 正輝がうんと頷いた。

「俺ね、翔子のことは結構覚えてるんだよ。今までの彼女のことは何にも覚えてなかったけど。花屋に行ったら、すんなり思い出した。そうだ、翔子はガーベラだったって」

 カーンと直球で、正輝の言葉は私の心臓を打ちぬいた。うおっ!何だ、この殺傷力・・・ボウガン並みの勢いだ・・・。

 もう、何てことよ。私はもうクタクタで、やっと心身ともに解れたばかりだったのよ。それなのにこの素敵な不意打ち。これだから、この男は最高なのだ。

 胸のところがくくっと苦しくなって、それからじんわりと温かくなる。

「ありがとう」

 気力をかき集めて何とか呟くと、うん、と正輝がまた笑う。

 その整えた髪が素敵。さっきのラフなのもいいんだけど、場面が場面だからって整える細かさが素敵。そのための服をわざわざ持ってきてたって驚きの事実もこれまた素敵。

 私は笑い、涙の浮かんだ状態で、こう言った。

「お腹が空いて死にそうよ」

「俺も」

「食べましょう」

「ビール、飲むだろ?」

「勿論」

「それでご飯を食べて」

「食べて?」

「・・・・今晩は、死んだように寝よう」

 げらげらと私は笑ってしまった。何て正直な!あはははは、死んだように寝ようだって、あはははは〜!

 そんなわけで、私はそのガーベラとカスミソウのゴージャスな花束を一番大きな花瓶に活け、それから正輝とご飯を食べた。

 オードブルにはワインでしょうって特別な赤まで出して、それから食後にはチョコレートとバーボンでしょって上司がくれたフォア・ローゼズをミストで飲んだ。

 二人とも裸足で気取ってなくて、私なんて眉毛すらなくて、でも上機嫌でフラフラになるまでそうしていた。そして飲んだ酒の量くらいのお水も飲んで一緒のベッドで、夢も見ずに眠った。

 ぐっすりと、甘い色と香りの中で、心地よく丸まって眠った。



 柔らかい感触を胸に感じて目を覚ます。

 朝日が窓から差し込んでいた。・・・・あ、カーテン閉めるの忘れてたわ。私は寝ぼけてぼーっとしたままでそんなことを思う。

 昨日たくさん水飲んでて正解〜。二日酔いにはなってないっぽい・・・・。ってか、あれー?

「・・・?」

 さっきから、一体何が―――――――

 そう思って視線を下に下ろしてバチっと目が覚めた。

 私のシルクワンピをまくりあげて正輝が唇と手で私の体を愛撫していた。

「うひゃああ!?」

「あ、起きちゃったか」

 ヒョイと顔を上げて、にやりと笑う。ままままま待て待て!あれ?おかしいな、予定では私が襲うはずなんだけど・・・・襲われちゃってるよ?

 うーん、翔子柔らかくてあったかいなあ〜、正輝はそう言いながらすりすりと色んなところを大きな手で撫でる。意識が覚醒した為に体が反応してしまった。

「ま、正輝さん?」

「何ですか、翔子さん」

 くくくと笑いながら唇ではむはむと私の色んなところを正輝は食べる。その度に私の体は震えて浮き上がった。ええーっと・・・・・あのですねえ。

「な、何してるの」

 一応聞いておこう。こんな、目覚めてすぐにピンクの世界に入れるほどには、実は器用でないんです、私ったらば。

「うん?」

 よいしょ、とずり上がってきて至近距離で私を見詰め、滅多にない獣みたいなオーラを出した正輝が言った。目がキラキラと光っている。

 ・・・・おお!ハンター正輝の出現だ!頭の中で騒がしくファンファーレが鳴り響いた。

「・・・起きたら、薄いワンピース一枚で翔子が寝てた」

「はあ」

「で、これは頂かないと神様に叱られるに違いないと思ってね」

「・・・どうしてそこで神様?」

「何だっていいんだよ。つまり、俺は欲情したんだ。しかも昨日と違って今朝は元気」

「えーっと・・・それは良かったわね」

 にーっこりと正輝は笑う。いつもの爽やかな営業マンのスマイルはそこにはなく、ただ自分の女を目の前にした男のむき出しの独占欲に溢れていた。

「準備、出来た?」

「へ?あ、私?いや、準備って言うか・・・」

 もうほとんどむかれてますけど。

 目を細めて顔を近づけながら、正輝が嬉しそうに言った。

「そんなわけで、頂きます」

 あ、はい、どうぞ――――――そんなこと、私には言う暇がなかった。だって、あの勢い。まあ、そういう意味では今回は禁欲生活が長かったのだ。

 友達の時には知らなかった「男」の正輝がそこにいる。彼はガツガツと私を貪り、私はいつでも喜んでそれを受け入れて、この世は素晴らしい!と頭の中のお花畑でチョウチョとランランラン♪状態だった。

 花が舞い、蝶踊る脳内世界はピンク一色。

 大好き、正輝。あんたの変なところで細かい性格も、カレーを作ってもご飯は炊いてなくて、そこは気付かないの?って不思議に思うところも、営業に入ると別人かと思うほどやたらと爽やかオーラを出すところも、亀山に会うと「いつもうちの翔子がすみません」って父親みたいな挨拶をするところも。

 全部。

 大好き。

 だーい好き。

 くふふふと笑う、私は正輝の腕の中。

 時間はまだ朝の9時半。汗をかいてるからシャワーを浴びてから出勤しなきゃ。そうだ、あの花束はドライフラワーにして、寝室に飾っておこう。

 そしていつでもそれを眺めて――――――――――



 妄想と現実で、私は幸せに遊ぶのだから。









 気まぐれ短編ホワイトデー編A「run and hide」終わり。




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