「女神」シリーズ後編
夜、今日は残業はなかったらしく、夫は7時半には帰ってきた。
「ただいま」
居間に通じるドアを開けて、彼は言う。
私は晩ご飯を台所で作っていて、雅坊は椅子の上に正座してテレビを観ていた。その状態で二人でハモる。
「おかえりー」
ちらりと彼を見ると、予想通りに口の左端を上げて笑っていた。
前に一度漏らしていたことがあるのだ。この、ただいまと言って私達がおかえりと返す、この瞬間が一番好きだと。家族なんだなって思うのだって。
彼は幼少時から母親と二人で暮らしてきた。仕事で懸命の母親にはあまり甘えずに出来るだけ他人を見ないようにして大きくなったと言っていた。だから嬉しいのだろう。家族、って感じが。
「ああ、今日は暇だった〜」
ひょうきんな声色でそう言って、手を洗いに洗面所へ向かう。
その後ろ姿を見ていたら、ふと思いついた。
私は火を消して雅坊に気付かれないようにそおっとその後をついて行った。
「ねえ」
「うわあ!」
手を洗う彼の背後から声をかけたら大げさに驚かれた。飛び上がってたよ、今。
「・・・驚いた・・・。どうした?」
まだ少し目を見開いた状態で、夫は振り返る。
泡だらけの彼の手を無視して、私はそのままでするりと洗面台と彼の間に忍び込み、背伸びして彼の唇に自分の唇を押し付ける。驚いたらしく一瞬身を引いた彼は、更に目を見開いた。
あははは、驚いてる。そりゃあそうか、最近では私からキスなんてなかったものね。そんなことを思いながら、薄目を開けて彼を観察する。
抱きしめるわけにもいかず、かといってこれ以上身も引けず、ワケが判らなくて混乱しているようだった。
無視だそんなの。彼が動けないのをいいことに、私は固まる彼の顎に手を添えて、気が済むまでゆっくりとたっぷりとキスをした。舌でぺろりと彼の唇を舐める。下唇を柔らかく包む。それを何度か繰り返して、彼の舌が意思を持って私に入ってこようとすると同時に身を引いた。
「――――」
両手が泡だらけで私を抱きしめるわけにも行かず、前のめりになった不安定な状態で、彼は呆気に取られた顔をした。
え、終わり?みたいな。
私はするりと一歩下がると自分の唇を舐めてにやりと笑う。
「――――まり?」
「したくなったのよ」
彼の冷静な黒い瞳を見詰める。その両目はいつもの冷静さを失いつつあって、ゆらりと何かの気配がしていた。
さっきよりはちゃんとした笑顔で、私はにっこりと笑った。
「したくなったのよ。それだけ。さて、もうご飯出来るからねー」
言いながら台所に続くドアを開けてパッと入っていく。後ろは見ないで音を立ててドアを閉めた。
あははは、あの顔。
テレビの前で雅坊が振り返る。
「かーちゃ?何してたのー?」
うん?と私は菜ばしを取りながら微笑んだ。
「ちょっとね、お父さんを襲ってきたの」
雅坊はにこにこしながら手を叩いた。
「よく出来ましたねえ〜」
最近、保育園で先生に言われるこの台詞をやたらといいたがるのだ。しかしこのタイミングで言われると結構面白いわね。うくくくくく・・・と私は一人で笑う。息子は無邪気にパチパチと音を立てていた。
洗面所に不完全燃焼で置いてけぼりにしてきた夫の顔を想像して一人で散々楽しんだ。本当はげらげらと笑いたいけど、それは我慢しよう。もうすぐ、彼が戻ってくる―――――――
「雅坊、父ちゃんと遊ぼう」
「わーい!あしょぶー!」
いつもなら晩ご飯が終わったあとは自分がゆっくりしながら息子を足元で遊ばせている夫の彰人は、珍しくガッツリ相手をするつもりみたいで喜ぶ雅坊を抱えあげて和室へと入っていく。
私はそれを見ながら、一人で笑った。そして台所で片付けをする。翌日のお弁当の準備、子供の保育園の準備、それからお風呂を沸かして―――――――
隣の部屋の和室からは雅坊のはしゃいだ笑い声。やたらとバタンバタンと音が立っているのは、きっとプロレスゴッコでもしているのだろう。
・・・本気だね、あの人。これは、あれね。にやける口元が押さえられない。何て素直な男だろうか。
ぴぴぴとお風呂から沸きましたよ〜の合図が聞こえて、私は和室に向かって叫ぶ。
「お風呂ー!入っちゃって〜」
はーい、と声が聞こえ、また息子を肩に担いだ夫が現れた。いつも思うけど、まるでペットだな、息子よ。たくさん暴れたようで雅坊は既に眠りそうな顔をしている。時計はまだ夜の8時半。いつもより格段に早い就寝時間になりそうだ。
そしてその通りになった。お風呂から上がった息子はほぼ落ちる寸前で、布団に寝かせると枕に頭をつけるかつけないかの速さで眠ってしまった。
「あらまあ」
私は布団をかけながらそう零す。よっぽど疲れたんだねえ、まあそりゃあれだけ暴れたら・・・。
「寝た?」
後ろから声が聞こえた。振り返ると風呂上りで上半身裸に濡れた頭にタオルをかけた彼が立っていた。
私はつい、その姿をじーっくりと眺める。
・・・うーん、彼のこんなワイルドな姿は久しぶりだわ。相変わらず素敵な体。そしてにやりと笑って言った。
「早く寝かせるつもりでプロレスなんてしたんでしょう?」
「勿論だ。ここからは、大人の時間。こいよ、ビール飲む?」
「あ、飲む飲む」
部屋の電気を消して、いつもなら少し開けておくドアをきっちりと閉めて台所に向かった。
子供が寝た後で二人でビールを飲むことは、よくする。だけど、お風呂上りのほかほかの体に後ろから抱きしめられながら飲むなんてことは、滅多にない。
ビールを出して机におくと同時に彼に捕まったのだ。そして後ろから抱きしめられたままで彼が椅子に座ったから、こんなことになった。
「・・・・何?」
「いやあ?帰宅すると同時に妻に身動きの取れない状態で好き勝手されたから、今度は俺の番かなと」
「好き勝手するの?」
「そう」
私を後ろから抱いたままで彼はビールを飲む。その間、片手で私を好きなように触りまくっていた。当然、私は苦情を言う。
「ちょっと、飲めないんですけど」
「そのために煽ったんだろう?遠慮は俺の性質じゃねーんだよ」
声には笑いが含まれていた。完全にリラックスして独身の時の彼に戻ったようだった。
つまり仕返しってことなのね。私はビールを諦めて一度立ち上がって方向転換をしてから改めて彼に跨った。
「実は」
「実は?」
物凄く顔を近づけて、それでもキスはしないで逃げて、そのままで喋った。
「・・・今日、竹中さんに怒られたのよ。ダンナさんにバレンタイン何もしてないなんて有り得ませんって」
「あの一番若いパートさん?」
「そう。うちの売り場では皆が桑谷さんの味方をするの」
店長をはじめ、大野さんも竹中さんも。私がそう言って膨れると、彼はあはははと笑う。
「それは素敵だな」
「ちょっと問題ってくらいにあなたを庇うのよ」
「鮮魚のバイトにも未だに言われるぞ。よく手を出しましたね、洋菓子の販売員にって」
まるでそれを誇りに思っているかのような言い方だった。
彼の黒い瞳に私がうつっている。その私が微笑んで言った。
「さて、お風呂に入ってこなきゃ」
え?と呟くように言ってから、夫はビールのコップをテーブルに置いた。
「この状況からお預け?有り得ない」
「いや、だって一日働いたあとで、汗だってかいてるし・・・」
くさいと思うよ、私。
でも言いかけた言葉は途中で遮られた。彼はがっしりと私の後頭部を掴んで深いキスをする。呼吸が止まる。心臓がうるさく鳴り響く。大きな腕に捕まって私はされるがまま。
存分に荒々しいキスをした後で、囁くように言った。
「・・・その匂いに興奮するんだ」
あらまあ。私は笑う。
「まるで獣ね」
「君が?」
くくく・・・と笑い声が漏れる。首筋に唇を受けながら、私は心の中で頷いた。
そうそう、いつだって自分には正直なのよ。だって我慢なんて、私はしないんだから――――――――
ここが台所だとか、テーブルの上のビールが倒れて中身が零れているのだとか、そんなことは彼には関係ない。この人は気にしない。いつだって私を見ている時は、真っ直ぐに、ぴたりと自分の中心に据えてみているのを知っている。
私を好きに転がしながら、彼は耳を舐めて囁く。
「―――――そろそろ―――――二人目が―――欲しいな」
勿論私は返事なんて出来ない。荒波にのまれていてそれどころじゃないのだ。ほとんど夢うつつの状態で、低い彼の声だけが耳の中から脳みそまでを走ってくる。
「・・・今度は――――俺に似た・・・女の子を――――」
彼に似た女の子?それって問題よ・・・私はぼんやりとそんなことを思う。
私をめちゃくちゃにする人間が、この世にもう一人だなんて、マジで、身がもたないじゃないの、って。
現在私をめちゃくちゃにしている男は私を揺らしながら笑う。
声、出しちゃ駄目だろう。このくらい我慢出来るよな?なんせ、小川まりだからな。
桑谷姓を名乗らなくちゃ不機嫌になるくせに、こんな時ばかりは小川と呼びやがる。私は薄目を開けて彼の顔を見上げる。
その瞳は優しく細められ、口元は微笑んでいた。
それだけで。
ぼうっとしながら私も微笑む。
それだけで、私はこんなにも満足なのだ。
気まぐれ短編ホワイトデー編B「女神」シリーズ後半 終わり。
←|
[目次へ]
[しおりを挟む]