A
背の高い、大きな体に似合わない細い文字。ブルーブラックのペンで書かれたその言葉が私の視界でうっすらと滲む。
「・・・まーじで」
最初のカード、汚れてた。
いつからあったのだろう。いつまでも私が気付かないから、私の鍵隠したのかな。
あの男でもイラつくことってあるんだなあ〜・・・。
鍵はもうって・・・一度しか失くしてないじゃん。
「ふふふ・・・」
唇からは笑いが漏れて、私はカードを手にしてずるずると座り込む。
文字を指でなぞる。
妻へ。
「ふふっ・・・」
座り込んで笑っていた。時々涙声になったけど、小さくずっと笑っていた。
カーテンを締め切った薄暗い部屋の中だったけど、私の見ていた景色はキラキラと光って薄いシルバーのクリスタルが揺れているようだった。
こんな素敵な宝探し。
あの面倒臭がり屋が、一体どんな表情で―――――
いつもの足音がドアの前まで続いてきて、やがてガチャリと音がした。
私はそれをヤツの部屋のヤツのベッドの中で聞いていた。
うっすらと目を開ける。
夕方から、ここで眠ってしまったんだ。ついここに寝転んだら、ヤツの香りに包まれて、そのままうとうとしちゃってた。妙に安心する香りだった。
香りの主が帰ってきたんだな、今、何時なんだろ・・・。
動くのが億劫で、もうそのままでまた目を閉じてじっとしていた。
玄関から居間へのドアが開いて、足音が止まった。
ドアが開いている自分の部屋に気付いたのだろう。
どくん、と私の鼓動が耳の中で跳ねた。
タオルケットの下、胸の前で握り締める両手。その左手薬指には彼から貰った指輪。
シンプルなシルバーのリングには幅の狭いのゴールドが走り、内側にはピンクダイヤが嵌めてあった。
紛れもなく、結婚指輪だった。
ドサっと荷物を置く音。そして足音はこの部屋の入口へ。ヤツは真っ暗のままの部屋の中へ進み、ベッド横のサイドランプをつけた。
「都」
声に、ゆっくりと目を開けた。
私は横向きから仰向きになって、目をこする。
「・・・お帰り」
「うん」
「お腹、空いた?」
ヤツはベッドに腰掛ける。タオルケットの外へ出した私の指を見ているのが判った。
珍しく、口元を緩めて目も細める。
・・・・おやまあ、笑ってる、この人。
私はそれをぼんやりと眺める。
自分の仕掛けがようやくちゃんと発動したのを確かめて、どういう気持ちなんだろう。
聞いてみたいけど・・・答えは貰えなさそうだな〜・・・・。
ヤツが低い声で言った。
「・・・空いてる。でも、先に・・・」
「はい?」
「新婚初夜を経験しようかと」
私は両目を瞬いた。
―――――――嘘。本当?これは幻聴?まだ夢の中?いや、でも、確かに聞いた。私、確かに今・・・・
「――――――――・・・面倒臭くないの?」
思わず、ぽろりと口から言葉が零れた。
「うん」
「本当に?」
「本当に」
「全然?」
「全然」
「ちっとも?」
「ちっとも。――――――何、笑ってんの」
私は腹の底からこみ上げる笑いを噛み殺すのに必死になっていた。
「・・・何でもない」
何とかそう答えると、ヤツはヒョイと肩をすくめて言った。
「もういいか?・・・・まったく、面倒くせぇな」
「止めるの?」
「いいや」
ヤツはにやりと笑った。サイドランプの明りで瞳が煌いて見えた。
「面倒臭いから、抱いてもいいですかなんて許可を取ったりはしない」
何よそれ、どういう宣言よ。
くくくく・・・と笑いが漏れる。そしてそのまま、落ちてきたやつの唇を受け入れた。
面倒臭がり男の中身は、驚くほど情熱的だった。予想を裏切る過程と結果に私はただ流されるだけ。
もしかしたらこの人は、一点集中型で物事への集中力が凄すぎるので、力を分散させる為に自分からやる気を潰しているのかも。世界に数人いる天才と呼ばれる人々は賢すぎるが故に先読みが出来すぎて疲れるので、普段は物凄く無口だと聞いたことがある。そこまではいかなくても、結局この人もそのタイプなのかも―――――――・・・・
でも考えられたのはそこまでだった。
その夜の間中、私の意識は飛びっぱなしだったから。
半年前のあの春の夜。
私達の物理的距離は約68キロ、心の距離はおおよそ地球1周分だった。
今現在の、この秋の夜。
私達の物理的距離はゼロ、心の距離も(多分)同じくゼロになった模様だ。
明け方、同じベッドに寝転びながら、聞いた。
いつから指輪隠してたの?って。
ヤツは邪魔な前髪を引っ張りながら、ぼそりと答えた。私が家出から帰ってきた後って。親から貰った指輪の話のときに、サイズも判ったからって。
「家に帰ると、真っ暗で、暑かった。ご飯を作ろうと思ってもやる気なんて起こらなくて。かったるくって、うんざりした。明るい声がない。バタバタとうるさい足音も鼻歌もない。隣の部屋に誰もいないって、やたらと気になったんだ。それで思った。自分で考えてるより――――――――」
・・・居心地がよかったんだな、って。
俺は都がいいんだなって――――――――――
日曜日の昼間、私は洗濯物を干しながら、座椅子でダレる彼に聞いた。
「ところで、自分の指輪は?」
「ない」
「――――は?何でないのよ。普通、ペアで買うでしょ」
だって、結婚指輪だろ?
ほとんど寝かけるような状態で、だらだら〜っとヤツは答える。
「・・・試着とかデザインとか文字入れとか、色々言われて面倒だった」
私はつい眉間に皺を寄せる。・・・何だよ、それ。
「買いに行きましょ」
洗濯籠を押しのけて、私は仁王立ちになる。
「・・・・」
「ダメ、行くの」
ヤツはうんざりした顔をむけたけど、無言の拒否は手を振って瞬殺した。
「・・・・必要、ない」
「私にこれから毎日指輪指輪と言われ続けるのと、今日一度我慢して言われた通りにするのとどっちがいいか選んで」
「・・・・」
暫くの沈黙の後、はいはい、と小さく呟いて、ヤツはゆらりと立ち上がる。
うん、人間諦めが肝心よね。私はにっこりと頷いた。
秋の風が空高くを吹き抜ける。髪が舞い上がって、ついでに体も浮かびそうな感じがした。
前をスタスタと歩いていくヤツの背中を見詰める。
もう、あの男はどうしてああも非ロマンチックなのだ。夜の時間とえらく態度が違うじゃないのよ。
あーあ、可哀想な私のお手手・・・。
折角そんなに暑くなくなったのに。
しばらくして私がついて来ていないのに気がついたらしいヤツが振り返った。
「どうした?」
下から膨れっ面で睨みつける。
ヤツはまた表情に疑問符を貼り付けてこっちをじっと見た。
私は右手をぶらぶらと顔の前で振って、ぶっきらぼうに言った。
「一緒に歩いているのに一人の気分よ。私の可哀想な手が寒いって言ってるわ」
ヤツは呆れた顔をした。微かに首を振って、ため息をついた後でやれやれと呟きながら前を向いた。
私がヤツの背中を見ていると、前を向いて立ったままでポケットから左手を出して、握っては開く、を繰り返した。
――――――――おいで。
声が聞こえた気がして思わず微笑む。
私は笑顔で近づいていき、ヤツの指に自分の指を絡めた。そして引っ張って、一緒に歩き出す。
横顔を盗み見ると、ヤツの視線は前を向いたままだったけど口元がゆるんでいるのが判った。
うくく、とつい笑い声が漏れてしまう。
いけない、また呆れた顔で見られる前に、笑い声を止めなくちゃ。
でもこんな、楽しいことって滅多にないよね。
やっぱり笑うのを止められないままで、駅まで歩いた。
プリズムが煌く秋の空を見上げる。
風が通り抜ける。私は目を細める。
そしてぺろりと舌を出してみせた。
・・・・やるじゃん、神様!
「鉢植右から3番目」完。
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