天の川に積もる星
『__また、梅雨明けの予報は例年通りとなっており、もうしばらくは雨の日が続きそうです。今夜も例外ではなく、空は厚い雲に覆われて天の川をみることは難しいでしょう。続きまして___』
去年も今年も来年も。
七夕はきっとずっと雨が降る。
天の川に積もる星
滝のように勢い良く雨が降っている。降っているというより落ちているみたいだ。作業していた手を止めて窓の外を眺めた。
梅雨。
先日やっと七月に入ったところで、夏休みまではまだもう少し日にちがある。雨雲から時折覗く青空は私に夏の気配を感じさせるのに。気配は感じても夏の匂いはしなかった。空から落ちる雨は夏の匂いも音も全て掻き消す。
誰も居なくなった放課後の教室で、一人窓の外を眺める。そこだけ聞けばなんてロマンチックなんだろう。妹が読んでいた漫画に同じような場面があった。
別に私は部活で忙しい彼氏を待っているわけではないし、クラスメイトに虐められて隠れて泣いているわけでもない。
視線を窓の外から手元へと落とし、止まっていた作業を再開させた。
私は学園ドラマでいうクラスメイトAくらいの人間だから、人気ものの彼氏も心優しい学級委員長も来やしないのだ。
そもそも私に彼氏はいないし学級委員長は女だ。そこにラブロマンスなんてあるわけがない。
そう思って黙々と作業をしていれば、静かに教室の後ろのドアが開いた。振り返った私は一瞬固まり、問いかけるようにその人の名前を呼んだ。
「矢島くん……?」
小さな声に反応したように、矢島くんは長い黒髪を邪魔そうに後ろへ払ってゆったりと私の方に歩を進める。
女の子ですら嫉妬しそうなほど艶やかな髪は全て矢島くんの肩のあたりで揺れていた。
「ナニしてんのよ。こんなとこで」
私の隣に来た矢島くんが私の手元を覗き込むように顔を近付けてきたので、慌てて両手でそれを隠した。だけどすぐに手を退ける。隠す必要はないんだと思い直したから。
「矢島くんこそ。帰ったのかと思った」
「アタシは予備の傘を取りに来たのよ」
「忘れたの?」
「まさか」
フン、と矢島くんは鼻で笑う。
「なによ、アンタも傘ないの?」
「…も、?」
「一人いたのよ。雨の中傘も差さずに空を見上げてるバカがね」
ほら、と窓の外を指差す矢島くん。その細過ぎない綺麗な指を辿ってみれば、その身体と不釣り合いな大きい傘を差した誰かが校門を出ようとしているところだった。
校門を出て曲がる直前、傘をくるりと一回転させてその誰かが振り向く。女の子だった。
「あれアタシの傘」
「なるほどね」
距離も離れているし、この雨だし、あそこからここなんて見えるはずがないのに、私には彼女が笑ったように見えた。まるでここに私たちがいることを知っているみたい。
「アノ子なに笑ってんのかしらね」
つまらなそうに言った矢島くんを反射的に見上げる。矢島くんにも、そう見えたんだ。
「あの子、知ってるよ。双子のどっちかでしょう」
「双子? あんなのが二人もいるわけ?」
うわあ、と顔を顰めた矢島くんが、少し面白くて私は控えめに笑った。矢島くんとあの子、なんの話をしたんだろう。
「なに笑ってんのよ」
気まずそうなその目付きに気付かないフリをして、私は首を横に振った。
矢島くんは、何故か女装をしている。意識して言葉遣いも変えている。私はその理由を知らないけれど、初めて会ったときから矢島くんはこのスタイルを確立していたから特に違和感は感じていない。学ランを着ていたらむしろそっちの方が違和感。矢島くんは女装もその言葉遣いも含めて矢島くんだ。
「珍しい、矢島くんがそんな顔するの。いつもは誰にでも優しいのに」
「なんかアノ子、見ててイライラすんのよ。ま、もう顔も朧げなんだけどね」
矢島くんはちらりと彼女が消えて行った方角に目をやり、続くように「で、アンタは帰らないの?」と私に視線を投げかけた。
「これ作り終わったら帰るよ」
「てるてる坊主? この大雨だし、もう手遅れなんじゃない?」
「平気」
私は雨を止ませたいわけじゃないから。
がたり、と音を立てて私の前の椅子に座った矢島くんはまた窓の外の校門を見る。矢島くんの表情からは何も読み取れないけど、見方よってはあの女の子のことを考えているようにも見える。
「……」
特に会話もないままで、私はひたすらにてるてる坊主を作った。雨はまだ上がりそうにない。
小さい頃に何度も読んだ絵本はいつもハッピーエンドだった。何事も、最後は幸せで終わるのが一番いい。幸せな終わりじゃないのなら、それは終わりとは言えない。そう考えているのは今も同じ。私はハッピーエンドしか認めない。
夢見がちだ、と周りからよく言われた。
高校生にもなって、と笑われもした。
それでも私はずっと、みんなが幸せになればいいと思っている。例えば帰り道に虹が見えたとか、コンビニに好きなアイスが置いてあったとか、そんなものでもいい。
みんな、幸せになってしまえばいい。
そのほうが絶対に楽しいのに。
誰だって幸せになりたいはずなのに、周りはそれをありえないことだと笑い飛ばす。
「願い事は、星になって天の川の底に沈むんだって」
てるてる坊主に顔を描きながら言う。矢島くんがこちらに顔を向ける気配がする。雨が窓に当たって弾けた。止むどころか激しくなる一方だ。
「なによそれ。アンタが考えたの?」
「そう。さっき考えた」
馬鹿にする風でもなく、アンタそういうの好きそうだもんね、と頷きながら口の中で呟いた矢島くん。そうなのだ。矢島くんはいつでも誰にでも優しい。
だから珍しいと思った。その場にいなかったとはいえ、女の子に対して面倒臭そうな顔をするなんて。
「アンタ今失礼なこと考えてる? 顔に出てるわよ」
「……川の底に積もった願い事は、そのうち穴をあけるの」
ゆらりと腕を伸ばし、完成したてるてる坊主を蛍光灯に翳してみた。笑って見えるように描いたから口が弧を描いている。うんうん、我ながら上出来。
「川の底にあいた穴からは、水が流れていく。天の川は空にある川だから、流れた水は下に落ちる」
「ねえ……ひょっとしてコレのこと言ってんの?」
コレ、と矢島くんが指差した先は窓の外。で、大きな音を響かせながら降る雨。私は頷いた。
「だから七夕はいつも雨なんだよ」
昼間友達にその話をすれば、雨が降るのは梅雨だからだと言われた。それじゃあ夢がない。織姫と彦星はあの厚く覆われた雲の裏側で、川の水が引くのを今か今かと待ち望んでいるはず。だって二人が会えるのは今日だけなんだから。ラブロマンスは夢があってこそだ。夢がなければ未来に語り継がれない。
「そう、」
やっぱり矢島くんは馬鹿にしなかった。そのまま音もなく立ち上がり窓を開ける。矢島くんの動きに合わせて髪が微かに揺れる。私はその一連の動作を横目で捉えながら、てるてる坊主にビニールの紐を括り付けた。
もっともっと。川の水がなくなってしまうほど、雨が降ればいい。
ざあ、と水とは思えないほど力強く地面や窓を叩きつける雨。矢島くんは窓のさんに弾かれた雨粒を制服に染み込ませながらも、その雨の中へ手を伸ばす。スカートを履いて、私よりも長い髪を靡かせるその姿はとても絵になっていた。顔は外に向けたままで矢島くんが言う。
「一つ質問してもいい?」
「なに?」
「アンタはこの雨が天の川の水だって言ったでしょ」
「うん」
てるてる坊主を机の横に逆さまに吊るしながら返事をすれば、矢島くんは濡れるのも気にせずに、雨に差し出した手を泳がせる。
「まあそれとはあんまり関係ないんだけどね……雨が降るのは空が泣いてるからだ、っていう話は本当だと思う?」
質問と言ったのに答えを求める素振りもなくポツ、と言葉を落とす。そのまま何かを手繰り寄せるように手を動かしていた矢島くんは、しばらくすると急に舌打ちをして手を引っ込めた。
「ほんとイライラするわ……!」
くるりとこちらを向いた矢島くんは「戸締りお願いね」と言った後、てるてる坊主に視線を落として。
「ラブロマンスって何よ」
てるてる坊主に書かれた文字に苦笑を残し、教室を出て行った。
パタパタと怒ったような足音が遠ざかるのを聞きながら、開いたままの窓を閉めるために立ち上がる。
「あ……」
先ほどよりも勢いが強まった雨の隙間に見えたのは、帰ったはずのあの子だった。
閉じられた矢島くんの傘を片手に持って、おそらく自分のだろう水玉模様の傘を差して歩っている。律儀にもわざわざ戻ってきたらしい。窓際に立つ私に気付いたその子が小さく会釈をする。私も会釈を返してから窓を閉めた。矢島くん、あの子の顔、朧げって言ってたくせに。
もうずっと、七夕の日は雨が降っている気がする。織姫と彦星は今頃星が散らばる川を渡っているのかもしれない。水かさの減った川は織姫でも簡単に渡れるはず。
天の川に沈んだ星はやがてその水に溶けて、次の年に雨となって私たちに降り注ぐのだ。織姫と彦星が自分の足で互いの元へ行くように、結局、自分の願いは自分でしか叶えられない。ハッピーエンドへは自分で行くしかない。
それでもみんな、幸せになるべきだ。
昇降口から出てきた矢島くんが彼女に近づくのを見守りながら、私は雨空に祈った。
どうかみんなが幸せになりますように。
そっと瞬いたその瞬間。瞼裏で私の願いが星となり、天の川に沈んでいくのが見えた気がした。
天の川に積もる星【完】
2014.07.10
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