novel2 | ナノ


汐華初流乃には、物心着く前の記憶が幾つか存在する。
朧気でひどく曖昧なものから、その時の色や匂いや音まではっきりと思い出せるものまで、様々だ。
夢は目覚めればすぐに忘れてしまうが、それらはいつでも、目を閉じれば瞼の裏に思い描く事が出来る。
その中でも特に印象深いのは、子守唄を歌う叔母の記憶だ。






「──きらめくきらめく ちいさなお星さま
いったいあなたは なにものなんでしょう
この世界のはるか上の まるでお空のダイヤモンドのように
きらめくきらめく ちいさなお星さま──」
  

Twinkle twinkle little star──日本語名で言うところのきらきら星。
耳心地の良いその声がもっと聴いていたくて、歌が止む度に悲しい気持ちになって泣く自分の側に、叔母が──汐華秋希乃が居てくれた。
身動ぎしか出来ない自分が手を伸ばすと、彼女が小指を差し出してくれて、反射的にそれを掴むと不思議と安心した。
その時の彼女の慈愛のこもった視線や、髪や額を撫でる指先の感触は、歌声と共に脳裏に焼き付いている。

その女性が何故、母ではなく母とよく似た叔母であると確信できるのか──それは初流乃自身がよく理解していた。
母は自分の感情を何よりも優先させる人である為、無駄だと思った事は絶対にしない。必要最低限の事、やるべき事はやるが、それ以上はしない人だ。
子供に食事を摂らせ、身の回りの世話をし、それを覚えさせ、自立出来るように促す事はする。
けれど、幼児語で喋りかけたり童話や絵本を読んだり、目線を合わせる為にかがんだり、そういう事をしない人。
流行りの曲を口ずさむ事はあっても、童謡を歌っている所は一度も見た事が無い。
良く言えば自由でマイペースで、自分の生き方を一切変えない人。悪く言えば、自己中心的で子供にあまり関心が無い人。
一応母なりに情はあるようで暴言や暴力を振るわれた事は一度も無い。が、特別可愛がられた実感も記憶も無い。
幼少期はそれに寂しさを感じる事はあったが、母の性質を理解してからは気にならなくなった。
自分の周りには世話係の人間が何人か居たし、それに何より、彼女が居た。




「はるくんのここは、お星さまみたいだね」


そう言われた事が嬉しくて、星を好きになった。
首元にある星形の痣を鏡越しに見るのも好きだった。
たくさんの我儘を言ってぐずって困らせても、何度も愛情深く抱きしめてくれた彼女のことが、大好きだった。




「実は私、はるくんのおねえちゃんじゃなくて、おばちゃんなの」

「おば…?」

「そ、この子の姉は私。この子はアンタの叔母」

「お、おば、おばちゃんじゃない!おねーちゃんはおばあちゃんじゃないよ!」

「確かにおばあちゃんでは無いかな…」


関係性が理解出来ない年頃まで叔母ではなく姉だと勘違いしていたのだが、誤解が解けた後も彼女を姉と呼び続けた。
日本を出てイタリアに移住してからも、彼女の呼び方はそのままだった。
名前呼びもヅィーア(叔母)呼びも、しっくりこなかったからだ。


「やだ!おねえちゃん!おねえちゃんがいい!!」

「泣く程にショックだったの…?お姉ちゃんのままでいいよ、大丈夫だよ」


泣く初流乃の背中をとんとんと優しく撫でる彼女と、それを笑う母と、苦笑いする義父。
その四人で共に暮らしていた頃は、比較的に生活は上手くいっていた──かのように思えたが、初流乃にはその頃から義父に苦手意識があった。
あの女王様気質で奔放な母の伴侶としては適した男だったのだろうが、義父は子供との接し方が分からない人間だった。
加えて、まだイタリア語が殆ど喋れなかった初流乃とのコミュニケーションが上手くいく筈もなく、内気な性格との相性も悪かった。
母や叔母が居ない時、義父と二人きりになると酷く居心地の悪さ感じていた。

そして、叔母が高校の進学と同時に寮に入って暫くしたある日に、事件は起こった。







「──…痛かったね…気付くのが遅れてごめんね」

「ううん…1回しかたたかれてないし…」

「1回でも、痛かったでしょう」

「…ん」


義父に殴られた。吹っ飛んで頭をぶつけたショックからか、その後の記憶が少し抜けている。
殴られたその日か翌日か、直後だったかは定かではないが、寮で暮らしていた筈の叔母がいつの間にか自宅に居て、険しい顔で義父を叱り付けていた。
その場に母も居たような気がするが、会話の内容は覚えていない。
それよりも、見た事が無い程怒っている叔母の表情の方が、よく覚えている。
初流乃が呆然としている間に、彼女はそのまま自分を家から連れ出してくれた。


「…はるくん、はるくんが良ければ、暫く私と暮らそっか」

「!…うん…!」

「ひとまず今日は私の寮においで…新しいお家はそのうち見つけよう」


その後、暫くは叔母の住んでいた寮で暮らした。
関係以外立ち入り禁止の女子寮だったので、見つからないようにひっそりと過ごした。といっても、寮生には早々に気付かれていたが、事情を知っていたのか彼女達は皆優しく接してくれた。
短い間だったが、義父の居る家よりもずっと安心して暮らす事が出来た。

その後、叔母の高校に近く、幼稚園も近隣にある物件を見つけて引っ越す事になった。新しい家と住まいでの二人暮らしはとても新鮮で楽しかった。
しかし、新しい園での人付き合いは、また上手くいかなかった。
初流乃は簡単な挨拶程度ならイタリア語を話せたが、主言語は英語と日本語のままだった。
通じない言語で積極的に人に話しかけに行くわけにもいかず、話しかけられても相手が何を言ってるのか分からない為、上手く受け答え出来ない。
大人ならば人見知りかなと許してくれるその振る舞い方は、子供同士では許されなかった。
更にアジア人系の見た目は街の悪ガキ達に舐められて、嫌がらせのように絡まれる事が多々あった。
以前の住まいの近所でも前の園でもそうだったので、母に相談した事があった。しかし母は「自分で何とかしなさい」と言うばかりだった。
初流乃には解決策が分からなかった。
どうすれば良いのか分からず、話しかけられないように俯いて過ごし、馬鹿にされたり追いかけられれば逃げ回り、相手を怒らせないように顔色を伺い続けて。
そのうち言葉を発するのも億劫になって、最終的にそんな自分を疎ましく思った義父に殴られる事となった。

──また、あんな日々が続くのか。ここでも同じなのか。母に放置されたように、叔母にも呆れられ、見放されるのではないか。
そんな事ばかりを考えて、諦め、落ち込み、惨めな気持ちになって。
明らかに暗くなった自分に、彼女は気が付いてくれた。


「今はるくんが悩んでいること…言いにくいと思うけど…お話できそう?」

「………」

「お喋りが嫌だったら、お手紙でもいいよ。どうかな?」

「…ん」


膝に抱き上げられて、抱擁されて、あやすように頭を撫でられて。いつもと同じ優しい彼女の声と香り、そして温もりに安堵して、涙腺が緩んだ。

時間はかかったが、ゆっくりと、初流乃は口を開いた。自分が伝える要領を得ない話を、彼女は親身になって聞いてくれた。
決して否定せず、責めず、呆れたりせずに。相槌を打ち、一緒に悲しんで、悩んでくれた。


「…はるくんは、これからどうしたい?」

「……どうしていいか、わかんない…」

「そっか…そうだよね」


話した事で多少は心が楽になったが、現状は変わらない。
ありのままの自分は弱くて、幼くて、無知で、何も持っていなくて。こんな自分を許して、愛してくれる彼女のような人はとても、限られていて。
「そのままで良いんだよ」という甘い言葉に、流されたかった。そっちの方が、きっと楽だった。
──けれど、このままではいけないと、変わりたいと、思っていたのは、確かだった。


「じゃあ…強くなるために、特訓しよっか」

「とっくん…?どんな…?」

「少しずつ力をつけるの」

「…ぼく、ちからもちじゃないよ…」

「えっとね…力と言っても、スキルというか…知識とか技術かな。それを持っていると自分自身の自信に繋がるの」

「じしん…」

「少しでも自分に出来る事を増やしておくのは大事だからね…今は分からなくても、後からきっと役にたつよ」

「…よくわからないけど…なにしたら、いいの?」

「そうだね…うーん、じゃあ…まずは姿勢をよくしよう」

「…?うん」

「そう、猫背をやめて…肩を開いて、背伸びするみたいにぴんとして、身体をまっすぐにして、足を揃えて、胸を張って」

「う?う、うん…??」

「うん、そうそう、じゃあそのままにっこり、いつもみたいに笑ってみせて」

「にこー…?」

「ふふ、そうそう。
それで、そのまま“おはよう”って、イタリア語で挨拶して」

「ぼん、じょるの…」

「もっとしっかり、お腹から大きく声を出して」

「ぼ、ボン、ジョルノ!」

「そう、よく出来ました。
今みたいに元気よく挨拶出来るようになろうね」

「?うん…でも…なんであいさつ…?」

「挨拶は大事だよ。声の大きさと、あとは発音の良さも。
でも本当に強くなる為にはたくさん努力が必要だから…はるくんは、がんばれる?」

「…が、がんばる」

「よし、じゃあ、一緒にがんばろうね」

「…うん」

「もっと元気よく!」

「うん!!」


そして、何故なのかよく分からないままに、彼女による言語の授業、立ち居振る舞いや礼儀作法のレッスンが行われるようになった。
発声の仕方、姿勢の保ち方、歩き方、目の開き方、合わせ方、口角の上げ方、笑顔の作り方。
それらがどう強さに繋がるのか分からないままに、初流乃は教わえられる事を必死に覚えた。
レッスンを受けるのは大変だったが、その間陰鬱な事を考えなくて済んだのでそれほど苦ではなかった。


「人から舐められる…下に見られると、コミュニケーションは対等ではなくなるの。
けれど第一印象というのは出会った瞬間から3から5秒で決められてしまう。
見た目、声、言葉のうち一番大事なのは見た目で、見た目と言ってもそれは肌の色や髪色の事ではなくて、身だしなみと表情と姿勢と仕草と態度と目線と…」

「おねえちゃんもっとゆっくり」

「あ、ごめんね、ゆっくり言うね」


コミュニケーションとは、そして非言語コミュニケーションとは、第一印象とは、メラビアンの法則とは何か。
難しい内容だったが、それらは全て初流乃が理解出来るように噛み砕かれて伝えられた。

叔母はその柔和な印象とは逆に、努力と度胸と忍耐力を重んじる人でもあったので、一度始まった勉強は毎日続いた。
一つでも多くの単語や教養を身につける為には、落ち込んだり泣き寝入りしている暇はなかった。
けれど彼女は初流乃に甘かったので飴と鞭の使い分けが上手、というか、飴が多かった。




「たくさんイタリア語でお喋り出来るようになったし、駅前の美味しいドルチェを食べに行こうね」

「うん!」

「今日ははるくんが自分で注文するんだよ」

「え、う、うん…」

「大丈夫、自信を持ってね。初めてのお買い物…かな?頑張って成功させよう!」

「うん…」

「もっと元気よく」

「うん!!」

「お返事はSi(はい)だよ」

「すぃ!!!」

「よし!行こう!」


彼女から学んだことを、初流乃は少しヤケクソになりながらも実践していった。
そうしていると少しずつだが、自身を取り巻く環境は変わっていった。
まず、会話が通じると分かった園の子供達からの異物扱いがマシになった。
話しかけて無視される事もあったが、大体の子供はびっくりした顔をしながらも対話を続けてくれたし、そういう相手の方が多かった。
中には英語が通じる子も居ると分かって、初流乃も驚いた。
日本でインターナショナルスクールに通っていた時の事を思い出し、あの頃の楽しさと積極性も思い出せた。
単語を間違えたりコミュニケーションの取り方を失敗して恥をかくこともあったが、失敗は成功の元だという叔母からの言葉を胸に、一度ミスした事は次から間違わないように気をつけるようにした。
その前向きな姿勢は今までの初流乃には無いもので、園の子供達や先生に至るまで自分を見る目が変わったのを肌で感じた。
いつのまにか、遊び時間に無言で砂を弄るだけの日々は終わっていた。


「人は人の鏡だからね」

「かがみ?」

「苦手だなと思っている相手からは、同じように苦手だと思われたりする事…かな」

「そうなの?」

「話しかけないで、近寄らないでって思っていると相手からそう思われてしまう。
そんなふうに負の感情を隠さず、目や表情や態度で剥き出しにしたままだとそうなっちゃうというか…うーん、ごめんね、難しいこと言っちゃった…今の話はまた今度ね」

「……」


確かに、話しかけ方や関わり方によって、人の反応はそれぞれに違う。
暗い表情と声で話しかければ怪訝な表情をされるし、明るい表情と声のトーンで話しかけた時の反応はその逆になる。
特に初対面の人間だとその違いは分かりやすい。
その事に気が付いた時、ようやく初流乃は理解した。
俯いて無言の人間が、チラチラと視線だけを暗い表情で送り続けている人間が、周りからどう見えて、どう思われるかを。
その事実にかなり落ち込んだが、客観的に自分を見られるようになった事は、成長の一つだと思えた。

少し自信が付くと、地に足が付いたような気がした。
暗く、澱んだ空気をしていると感じていた街の見え方が変わった。
“ネアポリスを見て死ね”と言われる程にこの土地は評価が高いらしいのだが、初流乃はそれがいまいちよく分かっていなかった。
しかし、叔母と買い物に出かけたある日、普段の街並みや景色を明るく感じて、坂道から見える海が綺麗だと、初めて思えた。


「夏になったら、泳ぎに行こっか」

「うん!」

「水着買わなきゃね」

「ぼく、海でおよいだことないからたのしみ!」

「海の水はしょっぱいんだよー」

「知ってる!ともだちにおしえてもらった!」

「そうなの?ふふ…お友達は海でよく泳ぐの?」

「うん!そうなんだ!おなじ組のチェーザレがね…」


少し前まで、自分はこの世のカスだと思い込んでいた事が信じられない程に、日々が楽しくなった。
街の悪ガキにバカにされて馬鹿にし返したら喧嘩になったが、それも一つの成果だった。
今までは好き放題出来る人型の黙ったサンドバッグだと思われていた訳だが、そうでは無くなったからだ。
喧嘩には負けたが、人として扱われた気がした。
知識だけではなく、体力と腕力もつけようと前向きに思えた。
その最中でギャング絡みの事件に巻き込まれたり、尊敬すべき人と出会ったりと、様々な事があった。
兎にも角にも、初流乃は両親から教わる筈の多くの事柄を、叔母とある人物から学ぶ事となった。






「──お姉ちゃん」

「どうしたの、はるくん?」

「これ、あげる」

「わあ…ブローチ?ありがとう…!お小遣いで買ったの?」

「うん!」

「大事にするね」


毎月貰っていた小遣いを貯めて、てんとう虫のブローチを二つ買った。
勿論、叔母の分と自分の分である。お揃いだねと嬉しそうに微笑む彼女の顔を見て、初めてのサプライズプレゼントが上手くいった事に胸が弾んだ。
叔母との二人暮らしは、そうした幸せの積み重ねの日々だった。





「──アンタ、学校でジョルノって呼ばれてるんだって?」

「…そうだよ」

「ふーん、ジョルノって、“昼間”?“日光”?意味的には名前だとおかしい気がするけど…フフ、面白いわね。自分で考えたの?」

「…ううん、お姉ちゃんと考えた」

「良いじゃない。私は最近ご近所ではジョバァーナさんって呼ばれてるのよね」

「ふぅん…ジョバァーナ?じょばな…しおばな?」

「そ」


新居に時折訪れる母は、相変わらず気まぐれだった。
料理を作ったり軽く掃除をしたり、シエスタだけをしに来たり。
叔母はそんな母を咎める事もあったが、それでも母が会いに来る度に嬉しそうだった。
大人達の間で何事かが取り決められたようで、義父が来た事は一度もないが、初流乃もそちらの方が気が楽だった。


「そういえば私もジョヴァンナとは呼ばれた事あるかも。
でも聖人の名前でしょう?ちょっと気が引けて遠慮しちゃって…」

「そう?イタリア人の名前は伝統的なのが多いんだから、気にしなくて良いんじゃないかしら」

「そうかなぁ…あ、あとはショパンナとかシーナって呼ばれたり…頑張ってシオバナって呼んでくれる人も居るけど」

「ふーん、ショパンにシーナね」

「苗字なら…僕はシーノとかシューノって呼ばれてるかも」

「ああ、男女差ね。oで終わるかaで終わるか」


ぽんぽんと続く会話。流れる空気は穏やかを通り越して緩い。
紅茶とドルチェをつまみながら定期的に開催される母達による女子会に、初流乃はよく参加していた。
居心地は悪くなく、むしろ楽しみにすらしている自分が居た。
それは別に母に会えるからという理由ではなく、叔母の手作りのドルチェを食べられるからという事と、何よりも、いつもとは少し違う彼女の姿が見られるからだった。


「日本名はこっちだと発音しにくくて聞き取り辛いもんね…何度も聞き返されちゃうし…だから初流くんの通名も考える事になったんだけど」

「私は今後は通名で名乗るつもりよ。そっちの方が楽だしね。
ジョバァーナを気に入っていたけど…シーナの方がかわいいわね。そっちにするわ」

「ええ…?本当に適当なんだから…」

「飽きたら変えるわよ」

「もう…」

「で、あんたはどの通名が一番好き?」

「私は汐華っていう苗字が好きなの。だから自分から通名では名乗らないよ」

「あー…」

「え、そうだったの?」

「もちろん!汐華の汐っていう漢字は夕方の海の満ち引きという意味があってね。華はそのままお花という意味もあるけど煌びやかとか美しいとか色鮮やかな彩りという意味もあって…本当は初流くんの初流乃っていう名前も一文字ずつそれぞれ意味が」

「あーはいはい。ホントに汐華って漢字好きよね。あんたがゴネたせいで入籍の時揉めたの思い出したわ…」

「そうなんだ…」


叔母は母の前ではころころと表情を変える。
普段しない怒った顔や膨れっ面。動作も仕草もどこか幼いというか、子供らしくなる。
初流乃はそんな彼女を見るのが好きだった。
自分の前では保護者として大人として振る舞う彼女も素敵で尊敬しているのだが、気の抜けている時の彼女も好きだった。

──この時、初流乃は気が付いていなかったが、彼女も世間からすれば、まだ10代の子供であった。
彼女にとって母こそが唯一、甘えられる対象であったのかも知れない。自分にとっての彼女のように。
きっとそうだったのだろうと気が付いたのは、随分と後からだったけれど。


「この子せっかくジョルノって名乗るんだし、苗字の方も決めておいたら?」

「それはまあ…初流くんが好きに決めたら良いと思うけど」

「ジョヴァンニかジョバァーノはどうかしら?」

「うーん…」
 
「…僕はジョバァーナにする」

「え、そっちに?女の子っぽくなっちゃうような…」

「だって一番“シオバナ”っぽい呼び方だから」

「…そっかぁ…ふふ」

「フフ、良いんじゃない?ジョルノ・ジョバァーナ…うん、すごくイタリア人っぽいわね」


母の言葉はいつも適当だ。しかし、それをいちいち気にするよりも話半分に聞くというか聞き流すのが正解だ。
初流乃にとって母は既に母親というより近所に住むオバさ…親戚に近い存在だった。
“母”も“姉”も、本来叔母である筈の秋希乃の方が、自分の中ではしっくりと当て嵌まる。
なので最早、母の方が伯母のような認識だった。それで特に問題が無いというか、そちらの方が落ち着いた関係性を保てるというか。
兎に角、当たり障り無く気軽に話すこの距離感が、自分達にとって丁度良かった。





「──初流くん起きて。今日から中学、じゃなくて、えーっと…スクオーラメディアだよ。今起きないと遅刻しちゃうよ」

「……あ!そうだった」

「いつもより30分早くなるんだからね!
さあほら、着替えてね。朝食準備出来てるから、一緒に食べよう」


初流乃は幼稚園から小学生(スクオーラエレメンタリー)、そして中学生(スクオーラメディア)へ。
叔母は高校を出て大学に進学し、卒業が難しいと言われるイタリアの大学を3年程で修業し終える事となった。
翌年には大手の旅行会社に就職して、その語学力を活かして通訳や翻訳の仕事をこなしていた。
彼女は立派だった。学業と育児、そして仕事の両立。忙しく日々を過ごす彼女から、泣き言や愚痴というのを殆ど聞いた事が無かった。
弱みや疲れを見せず、いつも明るくて、笑顔で、些細な事で幸せだと口に出して。
しかし初流乃は、いつからかそんな彼女を見ていると、複雑な気持ちを抱くようになっていた。




「──この一年ですごくおっきくなったね。見上げると首が少し痛いや」

「…姉さんが縮んだみたいだ」

「もう、私だってイタリアに来てから5cmは伸びたんだよ。初流くんは50cmくらい伸びたけど」

「50cmは言い過ぎじゃあ…ないか」

「そうだよ。あんなに小さかった初流くんが…こんなに大きくなって……本当に感無量…」

「大げさだな…」


叔母の、つむじが見える。
彼女を見下ろせるまでに、初流乃の身長はぐんと伸びていた。
ずっと見上げていた彼女の顔が随分と下にある。
それは、不思議な感覚だった。
目線が同じだなと思っている間にそうなって、自分の身体の成長具合に驚いた。
同時に、叔母の小柄さにも驚いていた。
そしてその時ようやく初流乃は、自分がこの小さな叔母を頼りにして生きてきた事を、その在り方を、自覚した。


「………」

「どうしたの?」

「…ん、なんでも、ない」

「…?」


低い身長、薄い身体。
そんな彼女に、ずっと守られてきた。
自分は彼女の本当の息子では無いのに。ただの、甥なのに。
この約10年間、彼女から浮いた話は聞いた事が無い。稀にどこかへ遊びに行く事はあっても、この家に彼女の恋人どころか友人が遊びに来た事も無い。ここに来るのは母だけだ。
人間関係で困っている事は無さそうだったのに、勉強や家事や育児や仕事ばかりで、忙殺されていたのだろうか。
それともそこまで献身的に自分の為に生きてくれているのだろうか。
そんな彼女の生き方、その献身──愛に、初流乃は少し──否、かなり、居た堪れなくなった。





「──寮に入る?」

「うん、通学時間の短縮にもなるし…一度一人暮らしをしてみたいと、思って」


ネアポリスの学校には中等部と高等部があり、寮も存在した。
自宅から通える範囲である為、寮を利用する必要は今まで無かったが、そこに入ろうと決めた。
通学時間を時短出来るというメリットは本当で、親元を離れて自立したいという考えも本当だった。
ただ、本当の理由としては、仕事で忙しい日々を送っている叔母に自分の世話をこれ以上させる事に、気が引けたからだった。


「そっかぁ…じゃあ色々と必要な家具とか家電とか準備しなくちゃね。
あ、それとも寮には備え付けられているんだっけ?」

「……」


しかし、いつもと変わらぬ様子で、何の動揺も無くそう言葉を返してきた彼女に、初流乃は少し──否、かなり、釈然としない気分になった。
大した反応が無かったというか、自分が家を出ていく事に関して反応が薄い気がして、彼女らしくないような、気がして。


「……反対、しないんだ?」

「反対?どうして?」

「いや…何となく」

「初流くんが自分で考えて決めた事に、反対なんてしないよ?」

「そう…」

「むしろ自分で自分の行動を選択出来て…自立を考えられるくらいに大きく…貴方が立派に成長している事が分かって、嬉しく思うよ」


そう言って、心から嬉しそうに──どこか、安堵したような顔をした彼女。
それを見て、初流乃の心には何故かモヤッと、良くない感情が生じた。


「……まるで、肩の荷が降りたって顔だ…」

「え?」

「そんなに喜ぶなんて…よっぽど僕に、早く自立して欲しかったって事?
いつまでもこんなお荷物な…おんぶに抱っこの子供が居て、迷惑だった?」


顔を強張らせた彼女から視線を逸らしつつも、勝手に口が動いて、言葉が溢れでた。
わざと捻くれた言い方をしている自覚があったが、止まれなかった。
何故ならそれはずっと、本当は内心、秘めていた問いかけだったからだ。


「そんなにこの家から出て行って欲しかったなんて…そりゃあそうだよね、僕は姉さんの子供じゃあない。
貴女の“姉”の子供…本来なら育てる義務も無いただの甥だ」

「はる、」

「安心して。邪魔者は出来る限り早く出て行くから」


──そんな言葉を吐き捨てながらも、きっと彼女は否定して、愛を囁いてくれるだろう確信があった。
分かっている。期待と希望ありきの幼稚な言動でしかない。
なのに何故自分はこんな無駄なやりとりをしているのだろうか?
そう己を恥じつつも、謝罪も訂正の言葉も喉に引っかかって出てこない。
居た堪れなくなって部屋から出ようとしたタイミングで、彼女が背後からそっと抱きしめてくれた。


「落ち着いて…初流くん」

「…っ」

「お荷物だとか邪魔者だなんて、そんなふうに思った事一度も無いよ…いつからそんなふうに思ってたの…?」

「……」

「私が不安にさせてた…?ずっと一緒に居たのに、気付かなくてごめんね…」


ゆっくりと、こちらを落ち着かせるように話す彼女に、乱れていた呼吸が元に戻っていく。


「本当の子供でなくても…もし仮に血が繋がっていなかったとしても…過ごした年月が変わる事は無いし、貴方への愛も変わらないよ。
私にとって貴方は大切な…本当に大切な…宝物みたいな存在なんだから…」

「……うん…」

「不安にさせた事はごめん…私が喜んだのは純粋に、初流くんの成長が嬉しかったからだよ。
私の手が必要無くても、一人で何でも出来て何処にでも行ける…それくらいに成長した貴方の姿が見られた事が、本当に嬉しくて、誇らしいの」


彼女に手を引かれて、椅子に座る。
向き合って座ると、彼女の瞳が潤んでいるのが見えた。


「本音を言うと寂しいよ…でも、子供が巣立つのを引き留めるのは、保護者としては…違うと思うから。
独り立ちしようとする子の背中を押して応援するのが親だと、思うから…叔母という立場で何をと思われるかも知れないけれど…」

「……」

「貴方が大切だから、貴方の意見は尊重したいの」

「……、ごめん…」


叔母からの真摯な告白に、初流乃は顔を覆って俯いた。
今更ながらに自分の言動があまりにも思春期というか、ただの反抗期のクソガキ過ぎて、顔が熱い。
彼女の無償の愛を信じたいのに、信じられなくて、勝手に苛立って、試すような言葉を吐いた。
こんな試し行動、赤ちゃん帰りした幼児かメンヘラが行う事だ。
それでも一瞬自分が見放されたように思ってしまったのは、思春期特有の精神的な未熟さと余裕の無さによるものだろう。
だから、見限られたのでは無く信頼されているのだと納得出来て、初流乃は本当にほっとした。
子供では無く、大人として認められているような気がして。
誇らしさと同時に──寂しさも生まれて。彼女の言っている事が、よく理解出来た。


「ただ…もし我儘を言っても許されるのなら、私は貴方が安心して帰って来られる実家というか…そういう存在というか、居場所のままでいたい。
子離れしてないって思われるかも知れないけれど…」

「そんなの、我儘でも何でもないよ…ただの事実だ」

「そっか…良かった…ここはその為のお家だからね。
疲れたり、嫌な事があって休みたいと思ったり、寮生活が合わないと思ったら、いつでも帰って来て良いんだよ」

「…姉さんは本当に僕に甘いよね…」

「ふふ、そうだね…本当は…もっと甘やかしたいくらいなんだけどね」


そう言って微笑む叔母。
慈愛に満ちたその瞳が優しく細められて、胸が暖かくなった。
愛おしいと思われて、大切だと想われて、心が通じている感覚がした。

彼女は本当に、自分にとってこの世で一番大切な人だ。
姉のような母のような、叔母であり、保護者であり、自分を全力で想ってくれている、愛しい人。
眩い、宝物のような人。


「……アキノ…」

「……え、…えっ!?なに、どうしたの」

「……前から考えていたんだ…姉さん呼びは…そろそろやめようかなって」

「…あ、うん、そっか…」

「…以前、姉さんの事を人に話していたら、僕に“ネイサン”っていう男の恋人が居ると思われた事があって…」

「……ふ、ふふ…っそれ私も勘違いされた事あるよ。
姉さんの事話してたら人名だと思われてね」


くすくすと笑う彼女の頬に手を伸ばすと、あっさりと届いた。昔は屈んで貰うか、抱き上げて貰わないと届かなかったのに。
頬を擦り合わせる挨拶すら、お互いが立ったまま出来るようになったのは最近だ。
そして、彼女よりも身長が高くなってしまった今、今度は初流乃の方が少し屈んで頬を寄せなければ出来なくなった。
そんな小さな叔母に、自分は今までずっと、本当にずっと、身も、心までも守られてきた。
だからきっと、今度は自分の番だと、そう思った。
親愛のハグと頬擦りをしながら、これからは、大きく成長した自分の方が彼女を守る番なのだと、そう思った。







































──その彼女が、自分が15歳になる誕生日の直前に、失踪した。






































 





「……………」


方々を探し尽くした。余裕などかなぐり捨てて、必死で探し回った。
もう何日もシャワーを浴びていなかった。
休もうと思っても気が全く休まらなくて、睡眠は殆ど取っていなかった。
眠気がやって来ない程に胸の動悸がおさまらなくて、食事も喉を通らなくて、摂取したものはほぼ吐き出していた。

雨で全身濡れ鼠になり、ついに体力的に限界を迎えてしまって、一旦捜索をやめて、家主の居なくなった時宅に、帰還した。
──もしかしたら叔母が帰って来ているかも、なんて、理想は現実にならず、シンとしたリビングで暫く、立ち尽くした。

──彼女の香りがする。
そう、ぼんやりと思って、少し冷静になった。
家の中を自分の不快な匂いや泥まみれの靴で汚す訳にはいかないとも、思って。
なんとか、重い足を引きずって、シャワールームに足を運んだ。

久々に身を清めて、服を着替えた。
あとは食事と睡眠を取っておくべきだと思いつつも、なかなか、出来なかった。
家の中は叔母の私物で溢れている。それらがどうしても目に入り、思い出と共に現在の彼女の有様を想像してしまい、最悪の結末が頭に浮かんで、息が乱れた。


「(どうして、こんな事に)」


寮暮らしで、最近顔を合わせていなかった。だから、自分の誕生日の夜は、一緒に食事をしようと、約束していたのに。
4月16日、午後18時丁度。
帰宅したこの我が家に、彼女は居なかった。
部屋が暗かったから、サプライズでもしてくれるのかなと思って入った室内は、人気が無くて、温度が無くて。
冷蔵庫の中には下味が付けられた肉や寝かされた生地がそのままで、どれも完成はされていなくて。
混乱して、何の冗談かと、ドッと冷や汗をかいて。探し始めて何度も、家に彼女が戻ってこないかと確認しては、居なくて、どこを探しても、姿がなくて。

──あれから、約二週間。
何かの手違いか、連絡の行き違いか、食い違いかも知れない、という事はなかった。
彼女は初流乃の誕生日に無断で居なくなるような人でも、誰にも何の連絡もせずに旅行に行くような人でも無い。
何らかの事件に巻き込まれてしまったのは、確実だった。
警察に頼っても地元のチンピラを脅しても伝手を使っても自分の足で探し回っても、成果は無かった。
不可思議な程に、彼女の行方は不明のままだった。
おかしな事が他にも多くて、訳が分からないままに、疲れ果てて。
母にも相談したが、「あの子なら生きているわよ。多分北の方に居るわ」などと、いつも以上に適当な事を言ってきたので思わず激怒して以来、そのままだ。


「アキノ………」


こちらを見て愛おしそうに目を細めて笑ういつもの彼女の姿を思い出そうとして、余計に耐えられなくなって、頭を掻き毟った。
あの笑顔が、永遠に失われたかも知れない。そんな事、耐えられない。耐えられるわけがない。
最早、祈るしかない。
最悪の結末を迎えていたとしても、せめて、変わり果てた姿になっていたとしても。
お願いだから、せめて、せめて、また、大好きな、あの──


「────ッ!!!」


爆発的に内から噴き上がってきた感情に、思わずドンッと近くの壁を殴った。
ギリギリと拳を握り締め、歯を食い縛り、大声で叫び出そうとする自分を抑え込む。
凄まじい吐き気と頭痛までしてきて、気が狂いそうだった。


「頼む、お願いだ、生きていて、お願いだから……しなないで…」


勝手に震える声、口から溢れ落ちる言葉。
過呼吸で視界がチカチカする中、ふと、自分の吐いた言葉に既視感を感じて、昔の記憶がフラッシュバックした。


    












『──私…がんばる、から………はるくんも、つよくなろうね…』


それは昔、日本で住んでいた時の記憶。
当時の事なんて殆ど覚えていないのに、小さな自分を抱え上げる彼女の細い腕の感覚とその時の様子が、蘇って


『──…しなないで……………だれにも、ころされないで…』


下から見上げた大粒の涙。
はらはらと降ってくるそれが、自分の頬にぽつりと当たって、流れていった。















「──…ねえ……さ…」


──どうして、何故、こんなタイミングで思い出してしまったのだろう。
感涙から涙ぐむ事はあっても、嘆き、苦しみ、辛そうに泣く彼女の姿など、表情など、見た事がなかったのに。
しかも、あんなに追い詰められた顔で、あんな言葉を吐きながら。

その答えを、初流乃は知らない。
ただ、思い出してしまったその泣き顔が何度も何度も脳裏に浮かび、消えなくて──消せなくて。
書斎から見つけた“とある手紙と写真”も相俟って、もう、ますます、思考回路はぐちゃぐちゃで。

そのままじっとなど、居られなかった。
胸元の虫のブローチを、無意識に握った。
彼女と揃いのそれ。自分が買った初めてのプレゼント。お揃いの品。
それを壊さないように、けれど縋るよう強く握り締めながら、初流乃はゆらりと立ち上がった。


「……」


部屋の明かりを消して、玄関の扉を開けて、外に出る。
時刻は深夜2時。雨はいつのまにか止んでいて、辺りはシンと静まり返っていた。

誰も居ない自宅の鍵を掛ける。
そこに背を向けて、初流乃は暗闇の中を歩き出した。


進むべき道も、分からないまま──



























その時、ブローチがとくりと脈打っていた事も、自分の髪の生え際が金色に染まっている事にも、初流乃はまだ、気がついていなかった。


















  

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