認知
冬島を離れたモビーディックは、再び雄大な海原を進んでいた。
そして、名前の記憶は、少しずつ少しずつ戻ってきていた。
「名前、悪いんだがサッチのバカから書類もらってきてくれねぇかい」
マルコの使いで、彼のところを訪ねた時だった。
「サッチさん、マルコさんが書類が出てないって困ってましたよ」
そう伝えれば、彼は眉を八の字にして、まだ出来てねえと笑う。
「もう、いつもそうなんだから…困ります」
返ってきた彼女の言葉に、サッチは思わず固まる。"いつも"とは、どういうことだ。目が覚めてから、彼女は一度たりとも書類を取りに来たことはないし、誰か遅刻常習犯かすら知らないはずだ。
目の前の彼女は、何も変わった様子はない。
「思い、出したのか…?」
「え、?……なんとなく、前にもこんなことあったかなぁって…」
「そうか…!」
恐る恐る尋ねれば、彼女は困ったように笑った。すべてを思い出したわけではないが、ぼんやりとでも頭に浮かんでいることに、サッチは安堵した。
そして、彼女自身も記憶が薄ぼんやりとではあるが戻ってきているのを感じていた。虫食い穴のように所々が戻ってきているために、妙な感覚だった。
「……うーん……」
もう少しで、何もかもが思い出せそうな気がする。でも、どうすればいいのか 。
ブラシの場所、サッチが書類提出の遅刻魔であること。そういうことは、なんとなく思い出せた。
しかし、自分がどんな人間だったのかは全く思い出せない。この船の家族と、どのような関係を築いていたのかさえ。
甲板の隅でごろんと寝そべり、空を見た。カモメが悠々と飛んでいる。
暖かな日差しに、次第に眠くなってくる。うとうとしていると、横から声が聞こえた。
「こんなとこで昼寝か?」
「…まあ、そんなところ……」
そっか、と笑ったエースも、ごろりと横になった。
「俺も昼寝する」
「……うん…」
こうして並んで眠るのは、いつ以来だろう。ゆっくりと、まぶたが降りた。
「ありゃりゃー、」
「これは…」
ハルタとビスタが、顔を見合わせた。
甲板に、紺の髪が散らばっている。持ち主はすやすやと眠っており、その横には我らが末っ子エースも寝ている。
「なんか、起こすのかわいそうだね」
「ああ、」
二人の寝顔は実に幸せそうだ。起こすこともせずに、それをじっと見つめているハルタたちに気がついた船員たちも、寄ってくる。
「二人とも子どもみたいだな」
「そうだなー」
周りががやがやとうるさくなっても、二人は起きない。
「へへへ……」
突然笑ったエースは、未だ夢の中だ。
「どんな夢見てるんだろうね」
ハルタが、にんまりとしているエースの頬をつついて呟く。どうせ弟絡みのことなのだろうと思った。
「ちょっとちょっとー」
「うげ、サッチ」
「うげって何だよ、うげって」
またうるさいのがきたよとハルタがため息をつくと、その"うるさいの"が口を尖らせた。
「末っ子ちゃんと妹が寝てるって聞いたからさ」
可愛い寝顔を拝見しに来たの、とサッチは笑う。並んで眠っている二人の寝顔を見つめるその目は、優しさをたっぷりとたたえていた。
「サッチって、すごく兄ちゃん気質だよね」
「そうだな……」
ハルタとビスタの呟きも耳に入っていないのか、彼はひたすらにまにまと妹たちを見ている。
何やら真剣な表情のマルコが船内から出てくるのはそれからすぐ後のことだった。
「あ、マルコ。見てみろよ」
何かを手に持ったマルコを呼ぶ。
「可愛い寝顔だねい……って、それどころじゃねぇよい」
そう言って、彼が見せたのは手配書だった。
「どういうわけだか、今さら手配書が回ってる」
「……なんでだろう」
「用心するにこしたことはないな」
今よりもどこか生気のない名前の顔が、マルコの手の中にはあった。
20130226