こんなはずじゃなかった






吹き荒れる風は早く飛び降りろと言わんばかりに私の背中を押してくる。

廃墟となったビルの屋上に辿り着いた頃には、セーラー服の白と紺色のスカートは汚れてしまった。唯一汚れを逃れたスカーフは凛として赤を保っており、血の色と良く似たそれから目を反らした。



借金にまみれた父は母と弟を殺し、一家心中を完了させる為にはあと二人を残すのみとなった。それは父本人と、遅れて家に帰ってきた私。
帰るなり血塗れの包丁と同じく赤くそまったワイシャツを着て出迎えてくれた父を、一瞬ではあるが父と認識することが出来なかった。
『お母さんと涼太は先にいったよ』
優しくそう告げた父は一歩踏み出し、お前がいったら俺もすぐに行くからと言う。
身体中に走った危険信号は考えるよりも先に私の体を動かし、たった今入った玄関から出て扉を閉めた。
どんどんと内側から叩かれる扉と同時に、開けろ!とぶつけられる怒り。しまいには扉越しに私を殺そうとしているらしく、包丁を突き立てる音が聞こえてきた。
『そうか、そんなにお父さんのことが嫌いなのか』
途端に静かになった空間は、自身の呼吸の音でさえうるさく感じてしまう。
『……さようならだ、淋』
直後、低い呻き声と表現のしようもないくぐもった音。私の心臓は今までにないくらいに大きく鼓動し、脳に駆け巡る嫌な予感に体が震え出した。
何が重いものが扉にもたれかかったような気配がして、震える膝でその場からゆっくりと離れた。
玄関の扉と地面の僅かな隙間から流れてきた赤い液体に、とうとう私の膝は体を支えることを諦めて崩れ落ちた。



そして気が付くと廃墟の前にいて、あの瞬間に崩れ落ちた足はなんの戸惑いもなく屋上へと向かう。どうしてあの時私は父から逃げたのだろう。逃げずにあのまま殺されていたならば、絶望はあの一瞬だけで済んだというのに。

父の連れ子の涼太と、母の連れ子の私。本当の弟ではないけど、私は涼太が可愛くて可愛くて仕方がなかった。
そんな涼太はいない。あんなに優しかった母も、優しかったはずの父も。私にはもう何もない。私が死んでも悲しんでくれる人も、もうそこにはいないのだ。

「だから、大丈夫……もう、いらない」

視線を落とすと、思っていた以上に地面は遠い。早く落ちてこいと私を呼ぶ母や弟や父がそこにいるような幻覚さえ見え始めてきた。
風は早く落ちろと背中を押し、遠くにある地面には早く落ちてこいと手招く家族がいて、私を止めるものなど、もう――。

「……っ、…」

無かった、はずなのに。
溢れる涙は止まらない。脳裏を過る赤い液体に、恐怖と震えが治まらない。私の体の全てが死というものに恐れを感じていた。
もう何もないはずなのに、早くみんなのもとへ行きたいのに、恐怖が私を邪魔する。


いつの間にか背を押す風は止み、三人の幻覚もいなくなっていた。
死にたくないという感情が奥底から沸き上がり、私は目線を上げた。相変わらず青空はどんよりとしたものにしか私の目には映らないし、この先のことを考えただけで吐きそうなくらいの不安が体を纏うけど、ただ死にたくないという想いだけは変わらない。

「生きよう」

まるで悲劇のヒロインみたいだな、なんて自嘲したその瞬間だった。
強い風が吹き荒れ、油断していた私は宙に投げ出される。ローファーが落ちていくのがやけにスローモーションで、それを見ている私は宙に浮いているかのような感覚。

さっきはあんなに遠かった地面がすぐそこにあって、そして私の頭の中を駆け巡る走馬灯。

あぁ、死ぬんだな。
たったそれだけ。

「こんなはずじゃなかった」

滑稽な私の呟きは、誰の耳にも届かない。

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