雨音に滲む 2 | ナノ


雨音に滲む 2




 パジャマとバスタオルを渡されたときは、この男はもしかして本当にただデリカシーがないだけなんじゃないかと一瞬考えてしまった。妙が風邪を引かないように、と気を遣ってのことだとはわかるのだが、それにしたってありえないだろう。教師が生徒に。男が女に。そんなことを言うなんて。
「シャワーはさすがに遠慮しておきます」
「冷えただろーが。別にガキの身体にゃ興味ねぇからさっさと」
「興味あったらただの変態です」
「……うん、だから興味ないって言ったよね。なんで殴られそうになってるわけ」
 シャワー浴びるだろ?湯船は普段使ってないからやめといた方がいいと思うけど。なんでもないことのようにそんなことを言ってのけたこの教師の眼鏡の奥は、相変わらず気怠そうな色をしていた。
 腹が立った。矛盾してしまうかもしれないけれど、それは女として見ていないと言われているようで。まるで自分だけが意識しているようで。子どもと大人の差を見せつけられているようで。もしかしたら……自分以外の女も、こんなふうに招き入れてるのかもしれないと思って。
 大きく息を吐いて立ち上がる。こっちはこっちで支度があるんだよ、なんて言われたらしかたがない。それじゃあお言葉に甘えてお借りしますね、なんて、つとめて何でもないように告げて。やり場のない気持ちを抱えながら、脱衣所へと向かった。
 戸惑いながらも熱いシャワーを浴びると、そんな気持ちが少しだけ落ち着いてきた。身体が冷えているのは事実であったし、素直に感謝すべきだったのかもしれない。そう今更のように少しだけ後悔するけれど、それでもやはり悶々とした気持ちが完全に消えることはなかった。
 シャワーの音を聞きながら、その気持ちよさに目を閉じていると、ふと身体が疲れていたことを思い出す。少しだけ、眠い。鏡を覗き込めば、いつもより疲れた顔をしているかもしれない。バレないようにとしっかり顔を洗い、瞼を持ち上げる。いつもどおり笑うのよ、妙。自分に言い聞かせるのは、一体誰のための強がりなのか。
 借りた衣服に身を包み、部屋へと戻ると、着替えを済ませた銀八が立っていた。ああ、彼が言う支度とは着替えのことだったのか。そう納得しようとしたところで、ローテーブルの上にあるスープに気付く。
「……」
「サービスいいだろ。ちょっとは見直した?」
「……はい」
 ニヤリと笑う彼に、妙は目を丸くすることしかできなかった。促されるままにそれを口にすると、おいしかったからまた驚いた。本当の支度は、きっとこっち。熱いコンソメスープは、妙の身体を内側からも温めてくれた。
 窓の外は相変わらず雨が降り続いている。先程よりも強くなったかもしれない。窓を打つ音にはげんなりするはずなのに、不思議と居心地は悪くない。……不思議だ。本当に、この人は不思議な人だ。
「……そういえば、今日は七夕ですね」
「あー、そうだっけ」
「そうですよ。先生は、何かお願いしたんですか?」
「……クラスの奴ら全員が、志望校に合格しますように」
「……それ、絶対嘘でしょう」
 彼の、部屋着といういつも以上にラフな格好は、一瞬だけ教師と生徒という関係を忘れさせてくれていた。誰も知らない彼を見ているような、少しだけ特別な存在になれたような、そんな些細な喜び。しかしそれも、一瞬にして現実に引き戻されてしまったのだけれど。
「志村……?」
 窓にはカーテンが引かれている。それでもその奥を見つめるかのように、目を細めてそちらを見やる。ふと思い出した愛の言葉は、今告げるにはとても不適切なもので。
「       」
 それでも小さく紡いでしまったのは、きっと無意識だった。届いてほしかったわけではない。今はそれを、望むつもりはなかった。
「……星、見たかったなぁって」
「あー……そうだな」
 まあ、この街じゃ天の川なんてほど遠いだろうけど。そんなことを述べる彼の姿は、ロマンチックからはほど遠い。
「先生は……彦星っていうより月の舟人ですよね」
「なにそれ、馬鹿にしてんの?」
「してませんよ」
 困ってる人にそっと手を差し出してくれるような。だけど雨の日には仕事をしない、チャランポラン。
ああ、思った以上にぴったりだわ。
「……俺もシャワー浴びてくるわ。テキトーに休んでて」
「あ、はい」
 新しいバスタオルを手に部屋を出る後ろ姿を見送って、完全に帰るタイミングを逃してしまったと気付く。それでも、まだ強く窓を打ち付ける雨の音を聞いていると、もう少しいてもいいかしら……と甘えてしまう。手持ち無沙汰になってしまったけれど、シンプルな部屋をぐるりと見渡すだけでも楽しかった。
 すぐ後ろにあったベッドに背をもたれ、息をつく。予想もしていなかった一日になってしまった。
(こんな日も、たまにはいいかしら……)
 もう二度とこんな日は来ないだろう。それを承知で、そんなことを考える。心が落ち着いてくると途端に眠気が襲い、妙は静かに目を閉じた。寝ちゃダメ、と思うよりも先に、眠りの世界に導かれていた。




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