またあした 人間は記憶が薄れるなんて言葉を使うけど、それってどういう感じ? 静かな部屋に響いていたシンセサイザーの音が止んだかと思うと、美風先輩はぽつりと呟いた。互いに仕事を進めながらも、穏やかな空気が漂っていると思っていた。それを破る、唐突な問いかけ。気になって譜面から顔を上げれば、先輩は手元に視線を落としたまま、シンセサイザーの縁を指でつぅとなぞる。その仕草をぼんやりと見つめた。 何と答えるべきかわからず、首を傾げた。はっきりとした理由は浮かばないのに、どこか先輩らしくない質問だと感じてしまって、妙な不安を覚える。 「どう、というと……?」 震えそうになってしまった声は頼りない。そのせいかはわからないけれど、先輩はゆっくりと顔を上げた。まっすぐに向けられた視線。いつもと変わらない、透明感のある瞳。大好きなその色に見つめられることが、今は少しだけ苦しかった。 「ボクは、ボクが壊れるか博士が変に弄らない限り、記憶が消えることはない。1か0、って言えばいいのかな。正確には、それもデータの蓄積のうちの一つと考える方が正しいんだけど」 淡々と告げられた事実に、こくんと頷く。美風先輩がソングロボであることはとっくに知っている。周りにバレていないように、先輩の振る舞いや行動だけ見ればとても信じられないことではあるけれど。 「でも、人間はそうじゃないんでしょう?」 だから、続いた言葉に、咄嗟には頷けなかった。きゅっと喉の奥が詰まる。おそらく先輩がそれを気にされているわけではないとわかっていても、だ。 時々こうして突きつけられると、どうしていいかわからなくなってしまう。だからといって黙ったままでいるわけにもいかず、なんとか声を振り絞った。 「…………そう、ですね」 結局、間をあけても出てくる言葉はそれしかなくて。やるせない気持ちにはなっても、イエス以外の答えはない。それはもちろん先輩も知っていることで、うん、と表情も変えずに頷いた。 「薄れていく記憶は儚いものとして象徴されることが多いけど、ボクにはそれがよくわからない」 そう告げた先輩は、悲観するでもなくただ淡々としていて。未知なるものへの興味ではなく、ヒトとしての感覚を知りたいと願う心は、姿とは裏腹に切実なものなのだろう。 人間にとって記憶が薄れていくのは当たり前のことで、どういうことなのかと言葉で示すのは難しい。それでも今向き合わないと、きっと後悔してしまう。 (−−じゃあ、先輩のこれまでの記憶は、すべて残っているのでしょうか……?) ふと頭に浮かんだ疑問は、答えを聞くのが怖くなってやめてしまった。先輩との思い出はたくさんある。けれど、わたしの中に記憶として残っているのはきっとほんの一部分にすぎなくて、交わした言葉の一言一句を覚えているかといえばそんなことはあるはずがない。そんなことは当たり前で、今まで気にすることもなかった。 でも、先輩は逆なのだ。一度記憶したデータは、よほどのことがない限り消えることはない。それが当たり前のこと。 「古い記憶から順番に薄れていくわけでもないんでしょ? 優劣があるのかな」 「そうですね……優劣と言っていいのかはわかりませんが、印象深いものは残りやすいといいますか……」 たとえば、初めて会ったとき。一緒に作った曲。それから……キス、も。 人の記憶は変化しやすいから、自分の都合のいいようにすり変わっているかもしれない。表情や、声色、触れた温度。けれど、それも含めて大切な思い出なのだと思っている。消えない記憶とどちらが羨ましいかなんて、正直わからない。 「でも、あの、どうして急に……?」 「なんとなく気になっただけだから、気にしないで。人の気持ちというものを、ボクはもっときちんと理解したいんだ」 その時に先輩が浮かべた穏やかな微笑みは、また一つわたしの記憶に刻まれる。たとえそれが、永遠に続くものではなくても。 「記憶は薄れるのに、それでも思い出を増やしたい?」 「だからこそ、です。もっともっと、たくさん幸せな思い出を作りたいんです。色褪せない思い出を」 先輩と一緒に。 −−だから、またあした。 17.07.31. 「フォロワーさんからリプ来たタイトルでSS書く」というタグでリプをいただきました 藍春で「またあした」です 約1年お待たせしてしまった上にお祝い感はゼロですが、リプをくれた方のお誕生日祝いに →back |