笑顔の行方 | ナノ


笑顔の行方




(また、難しい顔してる)
 大量の書類を前にして一人で仕事を続けるマネージャーの姿に、環は眉をひそめた。近頃ずっとこの調子だ。MEZZO”の活動が軌道に乗り、IDOLiSH7の露出も増えてきて、仕事の量は確実に増えている。喜ばしいことだと彼女は張り切っているが、その小さな背中に抱えるには大きすぎる――ような気がする。
 結局、アイドルである環には、マネージャーである彼女の仕事はわからない。ただでさえ、自分は普段から真面目とは言い難い性格だ。たとえば一織や壮五であれば、多少は彼女の相談相手になれるのかもしれない。けれど、自分にその役目は務まらない。そのくらいの自覚はある。
(……でも、やだ)
 大きめのスケジュール帳を手に、時には電話を掛けながら、彼女はひたすら目の前の仕事をこなしていた。きっと、環がこんなに近くにいることにすら気がついていないのだろう。そのことに、心の奥がモヤモヤする。
「環くん、急いで!」
「……おー」
「それじゃあ、マネージャー。いってきます」
「いってらっしゃい! お気をつけて!」
 壮五の声にはっとして、紡はようやく顔を上げた。壮五と環は、今日もMEZZO”としての仕事がある。初めは紡も同行する予定だったが、ただでさえ多忙なのに無理はさせられないから、と壮五が断りを入れたのが数日前の出来事だ。そして案の定、今日の彼女にそんな時間はなさそうだった。
 いってらっしゃい、と壮五に告げた紡は、続いて自分にも同じように声を掛ける。目が合ったのは、なんだか久しぶりのような気がした。
 今の自分にできることは、まずはきちんと仕事をすることだ。きっと、それが大事なんだ。環は自分に言い聞かせるようにして、壮五の背中を追い事務所を後にした。

 それから数日後、久しぶりに事務所で会った彼女は、まだ難しい顔をしていた。マネージャーとしてIDOLiSH7の傍にいるときには、けしてそんな様子を見せない。いつもどおり、元気にマネージャー業をこなしている。けれど一人になったとき、ふと気になって覗き込むと、きまって眉間に皺が寄っていた。目が合うと、あ、と気まずそうに焦って表情を変える。けれど、一瞬遅い。鏡写しのように環の表情も変われば、紡は困ったように眉を下げた。
「えっと……」
 環さん、と彼女が名を呼ぶ前に、その頬に触れた。否、加減しながら抓った。ふに、とした感触を指先に感じ、そのまま少しばかり横に引っ張る。柔らかな頬は力をかけたとおりに伸び、彼女の表情を変えた。
「た、たまきひゃん?」
 大きな目をさらに丸くして、紡は目の前の男を見上げた。口がうまく動かせず、もごもごと名前らしきものを呼ぶ。環はそれに、真っ直ぐな視線だけを返した。
 紡は慌てながらもその手を払うなどはせず、されるがままになっている。中途半端に浮いた手が、彼女の困惑を物語っていた。
「……」
 別に、その行動に理由なんてない。ただ、なんとなくというか、思わずというか。思い詰めたような、その顔を見たくなかっただけ。けらけらと笑ういつもの笑顔が見たかっただけ。……とはいえ、今は環の手によってまた違う形に歪められているのだが。自分でやっておいてなんだが、普段のかわいらしい顔が台無しだ。
「…………ぶっ」
 自分から仕掛けたにも関わらず、堪えきれず先に手を離した。おもしろくなってしまい、つい噴き出してしまう。
「な、なんなんですかっ!」
「いや、だって、おもしろい顔してっから」
「そうさせたのは環さんですからね!」
 笑いを押し殺しきれない環に、紡が怒るのも無理はなかった。しかし、本気で怒っているわけではないこともわかる。もう、と頬を膨らませる彼女は、どちらかといえば拗ねているに近いだろう。そんな表情ですらなんだか新鮮に感じて、環はほっと息を吐いた。
「なあ」
「……なんですか」
 わざと不機嫌そうな声で答える紡に、環は変わらず上機嫌のまま呟いた。
「プリン、買いにいこ」



 近所のコンビニで王様プリンを買うと、二人はそのまま近くの公園に立ち寄った。すべて環のマイペースな提案ではあったが、紡にも特に断る理由はない。仕事は相変わらず立て込んでいるが、ちょっと公園でプリンを食べるくらいの時間はある。並んでベンチに腰掛けると、紡は小さく息を吐いた。
(……なんだか、久しぶり)
 近頃は、こうやってのんびりと空を見上げる時間もなかったような気がする。目の前のことばかりに夢中になって、視野が狭くなっていた。大きく息を吸って、そのまま吐き出して。全身の力を抜けば、ようやく青空の眩しさが身体に沁み渡る。
 紡はちらりと隣を盗み見た。コンビニの袋からそわそわプリンを取り出す環は、こちらの様子などさっぱり気にしていない。一瞬、もしかしてわざと連れ出してくれたのかな、という考えが浮かんでいたけれど、自らその考えを否定した。環は仲間想いの優しい人ではあるが、今はすっかり王様プリンに夢中だ。きっと本当に、プリンが食べたくなっただけなのだろう。だけどそんな子どもっぽい姿もなんだか彼らしくて、目を輝かせながらスプーンで掬う様子に、くすりと笑みを浮かべた。
 袋の中から、残っている方の王様プリンを取り出す。いつものプリンと期間限定の両方を買っていたが、紡の分として残されていたのは期間限定のいちご味だった。ほんのりとピンク色に色づいたプリンを口にすれば、微かにいちごの香りがする。
 あ、おいしい。
 王様プリンのとろんとした食感に、いちごの甘さが馴染んでいる。初めて食べたそれは、思っていた以上においしかった。
「へえ。俺も食べたい」
「わっ」
 ずい、と顔を近づけてきた環に、紡は反射で身体を引いた。無意識のうちに、おいしいという言葉を口にしてしまっていたのだろうか。彼が基本的に人との距離が近いことなんて慣れたつもりでいたのだが、あまりにも突然だとやはりびくりとしてしまう。ドキドキと心臓が煩い。こうしてあらためて見ると、アイドルをしているだけあって、環は整った顔をしているのだ。
「……じゃあ、はい」
 なかなか落ち着かない心臓を気にしないようにして、紡はプリンを一口掬った。スプーンをそっと持ち上げ、彼の口元に運ぶ。なんとなく顔が見られなくて、スプーンの先ばかりを見つめていた。
 ぱくり、と。それは一瞬で彼の口に含まれてしまう。ちょうど目の辺りの高さで、喉がこくんと鳴るのが見えた。
「……うーん。悪くねえ」
 もともと手放しに褒めるタイプではない彼なりに、それはおいしかったということなのだろう。よかったです、と微笑みかければ、いつものあまり読み取れない表情で、うんと頷いた。
「んじゃ、はい。マネージャーも」
「……え?」
「え、じゃなくて。食べるだろ?」
 ほら、と気付けばそれは目の前に差し出されていた。戸惑う紡に対し、環は真剣そのもので、スプーンに大胆に乗せられたプリンは、不安定にゆらゆらと揺れている。
「……」
 彼の意図はわかる。今自分がしたことのお返しで、同じようにして食べろということなのはおそらく間違いないだろう。その行動に特に深い意味はなくて、だからこそ環らしいお返しだと思う。
(……けど、するのはともかく、されるのはちょっと……)
 いや、かなり恥ずかしい。
 なかなか口を開けることができず、プリンと環を交互に見つめた。だんだんと環が焦れてきているのはわかるのだが、紡の羞恥心も簡単に拭えるものではない。
「あーっ! おちる! はやく!」
「えっ、あ、はいっ……!」
 環が突如出した大きな声に、つい身体が反応した。零れ落ちそうなプリンを、ぱくりと一口でくわえる。――その瞬間、卵とバニラの香りが、ふわりと口の中に広がった。
 まだドキドキと心臓が鳴ったままであることを自覚しながら、紡はゆっくりと身体を離す。こくん、とそれを呑み込んでも、口の中には甘い味が残っていた。まるで初めて食べたかのような錯覚を覚えながら、目の前の彼を見上げる。
「……おいしかった?」
 何事もなかったかのように、柔らかな笑みを浮かべて彼は尋ねた。王様プリンを食べるのは初めてではない。それがおいしいことくらい知っているし、実際に今もおいしかった。けれど味わうどころではなかったし、それなのにやけに甘く感じたような気もする。
「み……」
「?」
「見られたら困るので、もうこういうことしちゃダメですよ……」
 何と返事をしていいのかわからず、視線を落としながら呟く。何を言っているんだろうと思うのに、それでもまだ動揺して、うまく言葉が見つけられない。相手に向けて言ったのか自分に向けて言ったのかもわからないくらい、だんだんと言葉尻が小さくなってしまったのがその証拠だった。
「あー、そっか」
 しかし環は、その言葉を素直に受け止める。紡の言葉を気にも留めず、それもそうだな、と再び正面を向いて、自分のプリンを口にする。
 間違えた、と紡は感じた。反射的に彼の袖を引っ張る。
「あの……っ」
「んー?」
 こちらを見た環の表情は、悲しんでいるわけでも怒っているわけでもない。彼が何を考えているのかはわからないけれど、それでも何か言わなくてはいけない気がした。
「……その……ありがとうございました。おいしかったです」
 口に出してからようやく自分でも納得して、環の顔をきちんと見上げた。あの優しい笑みに返すべきは、マネージャーとしての言葉ではなくて、小鳥遊紡一個人としての感謝でよかったのだ。素直にお礼を口にすれば、一拍遅れて彼の口元にも照れたような笑みが浮かぶ。紡もつられて、ほっと息を吐いた。
「あんた、やっぱり笑ってる方がいい」
「……環さんとプリンのおかげですね。ご心配おかけしてすみませんでした」
 ああ、やっぱり環さんは優しい人だ。
 思いがけず掛けられた言葉に、自然と顔が綻ぶ。数少ない言葉に垣間見えた真意は、ゆっくりと心を溶かしてくれた。




17.03.04.
たまつむを知れば知る程、衝撃を受けてばかりです
笑った顔が見たいってピュアだなとか、かわいいって言えちゃうんだなとか
恋に無自覚なたまつむかわいい




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