指先に乗せて | ナノ


指先に乗せて




 翔がデビューして数年。その間に何本も行われた彼のライブに、春歌はパートナーの作曲家として――そして恋人として、何度も足を運んだ。基本的には関係者席を用意してもらっている。けれど春歌は、一般の席から見ることも好きだった。アイドル来栖翔の一番のファンとして、他のファンと一緒に彼のパフォーマンスを見ることが好きだった。
 そして今日。アンコールまで無事に終えた翔の眩しい笑顔が、スクリーンいっぱいに広がっている。会場に向かって大きく手を振るその姿に、春歌の目には涙が滲んだ。ライブの後はいつもこうだ。曲に込めた想いやこれまでの彼の努力が一気に蘇り、駆け巡る。それでも、最後まで彼の姿を目に焼き付けようと、涙を拭ってスクリーンを見つめる。周りのファンも大きく手を振り、声を掛け、彼の名を叫ぶ。それにステージの上の彼が応え、再び割れんばかりの歓声と拍手が広がる。
 目の前のカメラに気付いた翔が、指でキスを飛ばしたのはそのときだった。



 打ち上げを一次会で切り上げた翔は、自宅への道を急いだ。アルコールが飲める歳にはなったものの、飲み過ぎてしまわないようにと常に自分自身でセーブをしている。万が一、周りに迷惑をかけてしまうようなことがあってはならない。この業界では付き合いが大事だと重々承知しているが、よほどのことがない限り、積極的に二次会まで参加することはなかった。そして、幸いにも無理やり遅くまで連れ回すような人はいなかった。
 それに、今日は部屋で春歌が待っている。ふと気を緩めれば、おかえりなさい、と微笑む姿をつい想像してしまう。「チケット取れました!」と誇らしげに笑っていた彼女は、今日のライブをアリーナから見ていたはずだ。パートナーとして、そしてファンとして、春歌の目にどう映っていたのかが早く知りたい。早く、あの笑顔に会いたい。
 そんなことを考えていると、自然と足取りは軽くなった。気付けば寮は目の前で、自身の部屋の電気が点いていることを確認すると、思わず頬が緩む。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
 パタパタと玄関まで駆けてきた春歌の表情は、いつもよりも高揚しているように見えた。それを見た瞬間、翔の胸にもライブの興奮が蘇る。
「いやー、楽しかったぜ!」
 ピンク色に染まる会場。飛び交うコール&レスポンス。観客がいて初めて完成する翔のライブは、今日も大いに盛り上がりをみせた。楽しいという言葉が、一番的確なのではないかと自分でも思う。
「わたしもすっごく楽しかった! 特にオープニングの……」
 春歌の口からは、次々と感想が飛び出てくる。歌はもちろん、演出や曲順、細かい仕草。自分ではあまり意識していなかったところまで。一度だけ、思わず「よく見てるなぁ」と口にしてしまったことがあるのだが、「パートナーですから」と当然のように返されたことに、恥ずかしさよりもむしろ誇らしさを感じたものだ。
 ソファーに身体を放り出せば、どっと疲れが抜けていく。冷蔵庫からペットボトルの水を持ってきてくれた春歌に礼を言うと、一気に半分ほど飲み干した。春歌が隣にちょこんと腰を掛けると、まだまだ瞳を輝かせてこちらを見つめてくる。
「あの曲のダンス、ソロ部分は俺が考えたんだぜ」
「そうなんだ! いつもと雰囲気が違ったよね?」
「ああ。ハウスはあんまりやってこなかったからな」
 アルコールで若干火照った身体に、冷えた水が気持ちいい。ぼんやりとライブの余韻に浸りながら春歌と共有するこの時間が、翔にとってはとても大事なひとときなのだ。
「……あの……」
「ん?」
「きょ、今日の翔くん、いつもよりかっこよくて……目が離せなくて……」
「お、おう……ありがとな……」
 自分で言って照れるのは反則だろ、と何度思ったことだろう。何年経ってもかわいい彼女に、心臓がとくんと音を立てる。もじもじと指先を弄るその仕草も、伏せた睫毛が瞬くのも。目が離せないのは、こっちの方だ。
 紅く染まった頬に手を伸ばせば、その熱が伝わる。視線を上げた春歌を正面から見つめれば、部屋の静けさが心地よい緊張感に変わる。唇に触れたのは一瞬だというのに、全身が熱くなるのを感じた。そして春歌もまた、その一瞬の余韻にうっとりと浸る。
「翔くん……」
 目の前にいるのは、今や人気のアイドルで。そんなすごい人が、恋人として、今は自分だけを見つめている。恋人としてのキスをくれる。
「あ……」
「……また、いつもみたいに音が溢れてきた?」
 呆れたように笑う彼に、違うんですと慌てて首を振る。恋人らしい雰囲気を壊してしまうのはいつも自分で、大抵の理由は翔が言ったとおりだ。
「その、ちょっと思い出してしまって」
 まだ夢の中にいるかのようなふわふわした感情の中で、それでも鮮明に思い出せる。脳裏に焼き付いて離れないのは、今まで見せてこなかった、彼のアイドルとしての新しい仕草。見た瞬間の驚きと、ファンの黄色い声。帰ってくるまでの間に、何度も何度も思い出していた。
 首を傾げる翔に、春歌は小さなお願いをする。
「翔くん……あれ、もう一度やってくれませんか……?」
「あれって?」
「あの……その、最後の……カメラに向かって……」
「カメラに?」
「はい」
「…………あー……」
 しばらく思案したあとに、翔もようやく思い出す。春歌のキラキラした瞳を正面から受け止めきれず、つい視線を逸らした。
 なぜ急にあんなことをしたのかと言われれば、特に深い理由はない。今まで自分がしたことはなかったものの、他のアイドルもやっていることで、何も珍しいものでもない。だけど今日、その瞬間に起こった歓声を、翔自身も感じていた。
 楽しかったライブのラスト。ステージを降りる前に、もう少しだけファンに何かしてあげたい。そんな自然な気持ちで身体が動いたのだ。
「あれやんの? ここで?」
「……やっぱりダメですか……?」
「いや、ダメってわけじゃ……」
「じゃあ、わたし向こうで立ってますね!」
「へ? あ、おい!」
 そう言うなり、あっという間に春歌は部屋の隅へと移動する。とはいえ、ここは寮の一室だ。ほんの数メートルの距離にもかかわらず、春歌の琥珀色の瞳はキラキラと輝き、まるでアリーナからステージを見つめるファンの一人だ。
(……こんな顔してんだな……)
 春歌とは、普段どうしてもパートナーとして接することの方が多い。だが彼女は、ファンの一人だとも言ってくれる。そもそもアイドルが大好きなのだ。今はもう、ただのファンとしてそこに立っているのだろう。
 翔はペットボトルを置いてソファーから立ち上がると、春歌をまっすぐに見つめた。恋人としてではなく、アイドルとして。そうだ、今は彼女だけのアイドルとして――そう思っていたはずなのに、部屋の隅で、両手でサイリウムを振るような動きをする彼女に、どうしても愛おしいという感情が湧く。
 すう、と一つ深呼吸。三本の指先に乗せた想いを、まっすぐに届けた。
「……!」
 両手で頬を覆う彼女のその反応に、きっとそれは届いたはずだ。けれど、カメラ越しではなく、たった一人に向けてのそれは、想像以上に恥ずかしい。
「つ、次は春歌の番だからな!」
「えっ! そんな、わたしにはそんなこと……!」
「……いいから。春歌はこっち、な?」
 指で自身の唇にトンと触れれば、ますます彼女は頬を染めた。




16.01.23.
そのまま抱き寄せてちゅーされてちゅー仕返していちゃいちゃちゅっちゅさせるとこまで考えてました
プリライの興奮を忘れないために




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