ロマンチスト | ナノ


ロマンチスト(3Z)




 日誌を書いていた私に「ちょっくら出てくる」と言って一時間が経った。わざわざ声をかけてくるのが珍しかったからか、なんとなく時計を見てしまう。日誌はとうに書き終えており、あとは帰るだけ。特に待っている理由はないのだけれど。
(どうせ屋上で煙草でも吸っているんでしょう……)
 予想はついている。だからこそ、行ってみようかどうしようか、迷ったまま時間が過ぎてしまったのだ。待つ理由もなければ、行かない理由もない。だからこの場から動けずにいる。
 なんだか自分の気持ちみたい。そう思ってしまったのは、窓から差し込む夕陽がセンチメンタルな気分にさせたせいだろうか。自分の気持ちに素直にはなれなくて、なれそうにもなくて、きっとなってはいけなくて。だって、私は高校生で、彼はその担任。どう足掻いたところで事実を変えることはできないとわかっているからこそ、自分の気持ちに素直になるどころか、今屋上に行く勇気すらないのだ。行ってどうするの、と心の中でもう一人の私が問う。
(……帰ろう)
 ばかみたい、と、ようやく立ち上がり鞄に手をかける。
(日誌……)
 ここに置いていこうか、職員室に持っていこうか。そんなのきっと、どちらでもいいに決まってる。それでも迷う。
 あと一ヶ月もすれば卒業してしまう、とカレンダーを見る度に思う。卒業してからも顔を出しに来た先輩といえば、部活動の後輩指導や大学を卒業してからの進路報告など、明確な理由がある人たちばかり。ふらっと顔を出しに来ただけ、なんて人はきっといない。どちらかといえばふらっと来てもおかしくないのは先生の方で、それならいっそ、先生も今年で転勤になってしまえばいいんだわ、なんて不穏な発想に至った自分に苦笑する。
 気付けば、日誌を片手に階段を昇っていた。
 屋上へは何度か来たことがある。一度階段に足をかけてしまえば緊張などなくて、辿り着いた先のドアノブにそっと手をかける。窺うように覗いた先には、先程よりも熱を増したように思える赤い夕陽。空気の冷たさには身震いしたが、銀色の髪がふわふわと揺れているのを見つけ、歩を進めた。
「……よォ。まだいたのか」
「もう帰るところです。なかなか戻ってこないから、直接届けてしまおうと思って」
 日誌を手渡すと、銀八はパラパラとページをめくる。ちゃんと読んでいるのかどうなのかは怪しかったが、妙はその姿をぼーっと見つめた。少しだけ見上げる形になるその先の、手元に視線を落としている彼の表情はよく見えない。けれど、夕陽に染まるその姿に、悔しいけれど目を奪われていた。自分よりも年上の、おとこのひと、だ。
 それを意識した瞬間に目が合って、心臓が跳ねる。
「なに? 見惚れてた?」
「そ、そんなはずないでしょう! そのニヤけた顔を鏡で見てから言ってくださいっ」
「へいへい」
 めんどくさそうに、けれどこころなし楽しそうに返事をしたように見える。見透かされたようで恥ずかしくて、妙は夕陽へと視線を逸らした。パタンと日誌を閉じた銀八も、同じように夕陽を見ながら手すりに体を預ける。
 ふと思い出したように、彼が口を開いた。
「なァ、知ってるか? かつての偉人はI love youを月が綺麗ですねと訳したそうだ」
「……それくらい知ってます」
 馬鹿にしてるんですか、と軽く睨むが、彼の視線は空から外れない。
「貴方の隣で見る月は美しい、ってことらしいな」
 その表情はいつになく穏やかで、何を考えているのかわからなくて。
(……それを……私に言って、どうしたいんですか……)
 ぐるぐると胸の中を巡る想いを、口にしてしまいたくなる。きっとまたいつもの気まぐれなのだろうとわかっているのに、その言葉に意味を見出したくなる。なんで、どうして、私に言うの。
「なぁ、志村。月は綺麗に見えるか?」
 視線が絡まる。捉えられたかのように、身動きもできなければ口を開くこともできない。熱が集まる頬を、髪がくすぐる。風はこんなにも冷たいのに、体の真ん中の部分だけがやたらと熱い。答えが見つからない。
(月……)
 ゆっくりと瞬きをしてみても、先生はそこにいて。綺麗だなと思ったはずの陽は、少しだけ落ちていて。
「……今は、まだ月なんて見えませんから」
 ようやく、それだけが出てきた。それもそうだ、となんでもないことのように受け流され、妙は無意識に詰めていた息をやっと吐き出すことができた。
 きっとこんな息苦しさを覚えていたのは自分だけで、深い意味などなかったのだ。それでも、ここに来てよかったと……ここに来て、この質問をされたのが自分でよかったと、そう思う。ここで見た景色は、確かに綺麗だったから。
「……ああ、でも知ってます?」
 さすがに冷えてきたのか、帰ろうとするその背中に声をかける。ふわふわと揺れる銀髪も、風にはためく白衣も、それを照らす夕陽の色も、綺麗だけれど。
「透き通るような青い空に浮かぶ、白くて細い月。朝にしか見られないそれも、とても綺麗なんですよ」
 彼が見た景色は、いったいどんな月だったのかしらね。
 ぽかんと口を開いたその人に、妙は微笑んだ。




14.03.02.
一緒にいるから綺麗に見えるんじゃなくて、綺麗な景色を一緒に見たいと思うのです
朝でも夜でも、いつまでも




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