カントーって、思った以上に遠かった。ミナキに見せてもらったタウンマップをのぞき込んでいるとわたしは驚きと疲れでため息をついてしまう。指でなぞれば数センチの距離。そうか、これだけの地図の上を歩いたら、これだけの時間と歩き続ける体力とが必要なんだね。

 エンジュを出て二日目。わたしたちはジョウト地方を出てカントー入りを果たした。ミナキが言うには今日の夜に着くらしい。
 はぁ、と思わず出たため息に、お昼ご飯のそばをすするミナキが顔を上げた。


「なんだ?」
「まさか昨日のうちにミナキの家に着かないとは思わなかった……」
「エンジュの隣にタマムシがあるわけが無いだろう」
「それは分かってた! 分かってたんだけど、分かってなかった!」
「だと思った」
「ごめん……」
「何を謝ることがある。良いじゃないか。今まで分からなかったことが、実際に経験してみた分かったんだ。ナマエの栄えある一歩だ」


 にかっ、と眩しい笑顔を見せて、ミナキはまた割り箸でおそばを掬い始める。わたしもおそばをすする。湯気で鼻がすん、と鳴った。


「それに今回はナマエに合わせてゆっくりめのルートを通ったんだ。旅は課程を楽しまなくてはな」
「そうだったんだ……! 知らなかった!」
「ああ。ナマエは夜通し歩くのは嫌だろうと思ってな」
「夜通し!? 何それ! わたしタマムシシティに着く前に溶けちゃう自信ある!」
「そうだろう、そうだろう」


 ミナキは満足げに大きくうなずいた。確かに、旅慣れしていないわたしにゆっくりめのルートを選んでくれたミナキは正しい。と、思う。けどそれはわたしが思い描いていたミナキの家を目指す旅と、ものすごくかけ離れていた。

 こんなに、たくさん出かけるつもりじゃなかったんだけどなぁ……。
 当初わたしはミナキにお世話になるのは一泊二日のつもりだった。一日とか、せいぜい二日。それくらいなら甘えても良いかなと自分でも思えたからミナキにお願いをしたのだけど。ミナキは今、わたしの予想をびゅんと飛び越えてわたしを甘やかしてくれている。
 行くのに二日かかるのなら、帰るのも二日だろう。エンジュじゃない場所に4日もいるなんて、初めての体験だ。

 わたしの口から、もう何度も唱えた魔法の言葉が自然に出てしまう。


「マツバくん」
「………」
「マツバくん……」
「………」
「マーツーバーくーーん!」
「なんだ」
「いやミナキはミナキでしょ」
「ならここにいない人間の名を呼んでくれるな」
「それは……」


 ミナキの言うとおりだけど。でも呼んでしまうのだ。癖みたいにマツバくんの名前を繰り返し呼んでしまう。

 ううん、ぜんぜん癖みたいに、じゃない。マツバくんを意味なく呼ぶのはわたしの立派な癖だ。

 いろいろ不思議でいろいろすごいマツバくんでも、さすがにカントーにまで来てしまったわたしに相づちを打ってはくれない。それを寂しいとは思うけれど、ますますエンジュを出てみて良かったと思う。本人がいなくても呼んでしまうとか、こんなに重症だったとは。


「……マツバが恋しいのか?」
「そうだねー」
「なんだ、素直じゃないか」
「何が?」
「マツバが恋しいという気持ちは、認めているんだな」
「ん? どういうこと? わたしはいつだってマツバくんが恋しいよ?」
「なんだ、そうだったか」
「あれ? わたしなんか変なこと言った?」


 ミナキとどうも話が噛み合わない。
 改めて聞くとミナキはいいや、と顔を横に振る。そうだよね、わたし変なこと何も言ってない。
 そんな意外そうな顔をされるとは。わたしの方が意外だ。


「だってそうでしょ。マツバくん、すごく良い人だもん。今まで家近かったからさ、ずっと一緒にいたけど、それでも良い人だなって思う。普通は長くいるほどぼろが出ちゃったり、合わない部分を見つけたりしそうなのにね」


 わたしは何年もマツバくんの家に、マツバくんの部屋に通い続けているけれど、マツバくんをいやだと思ったことが無い。
 一緒にいる時間が長いだけあって、マツバくんの、わりと細かいところまで知っているつもりだ。

 もちろんわたしはエスパーじゃないから、マツバくんの心は知らないところが多い。マツバくんの全部を知ってるわけじゃない。
でも考え方の癖。髪の毛の色、はね方。耳の形。鼻の色。爪の形。手のひらのすべすべ。背中のライン。マツバくんが体をひねった時の洋服に出来る、柔らかめのしわ。おなかの薄さ。とがったところの無い声。じんわりと暖かい体温。
マツバくんの体を通して現れる、マツバくんというもの。それら全部を、わたしは「いいな」と思っている。
「マツバくんって、いいな」。それをたくさん繰り返して、わたしはそう、マツバくんの字まで、好きと思ってしまった。
そんなマツバくんは……。


「マツバくんは、どんな人と幸せになるのかな」


 わたしが思う「いいな」をたくさん持ってる人、マツバくん。そんなマツバくんが好きになる人は、一体どんないい人なんだろう。
その疑問は大人になるにつれて、ゆっくりとわたしの中で生まれた。


「……あれ。ナマエはマツバが恋しいんだよな?」
「そりゃ離れればね。ずっと一緒にいてくれた幼なじみだもん。寂しいよ」
「……前途多難だな」
「なんかよく分からないけど、先が思いやられる?」
「そうとも言うな。ああ、全くだ。先が思いやられる」


 へらりと笑ってミナキは割り箸をおいた。あ、わたしも早く食べないと。すでに伸びかかってるおそばはどっしりと重く割り箸にひっかかった。








 ミナキの言葉通り、その日の夜にミナキの家に到着した。
 エンジュから出て2回目の夜。エンジュの外で過ごす夜は、しん、と耳に痛い。
 さっきまでは隣にはミナキが居て、ずっとくだらない話をしていた。なのに話し声を通り抜けて、静けさが耳につんと痛かった。
 ミナキの家の湯船につかっている今、わたしはそれを痛感していた。静かだ。タマムシシティは都会で、第一印象も人がたくさん居て騒がしいな、だったのに。今だって外の音は聞こえるはずなのに、音が無いみたいで辛いと思った。

 お風呂からあがってタオルを被ったままリビングに行く。リビングではシャツの前をゆるめたミナキが何か資料を見ていた。


「ミナキ……」
「どうした、ナマエ。風呂、大丈夫だったか」
「やばい」
「ん、何だ? 何がやばい」


 わたしは自分の半分塗れた髪をつかんで、さっき感じたことを打ち明ける。


「っミナキんちのシャンプー、すごい髪さらっさらになる!」
「そうか」
「え、なんで!? どういうこと!? ありえないくらいさらさらなんだけど!?」
「良かったな」
「あとわたしの家よりお風呂広かった! ゆったり!」
「ああ、良かったな」


 何か飲むかと聞かれたので、ミナキの飲んでいたお茶をわたしも貰った。


「ありがと、ミナキ。おいしい」
「それは良かった」
「ね、さっき何見てたの?」
「スイクンの資料を見返していた。今回の収穫と合わせて何か発見がないかと思ってな」
「すごい、見せてよ」


 ミナキは快く、家の中に溜めに溜めたスイクンに関する資料を見せてくれた。資料は本当にたくさんあったのだけど、それ以上にすごかったのはミナキの頭の中に詰め込まれた、たくさんの知識の方だ。
 ミナキの夢はスイクンを捕まえ、秘密を解明すること。だからミナキの知ってることはすごく偏ってる。けどミナキの話すことはどれも聞いていて全く飽きなかった。
 だって小さなことも大きなことも、ミナキが熱を込めて語るから。
 わたしはそんなミナキの言葉をたくさん聞いた。心の底からおもしろいと思いながら。でも半分くらいは、耳の中に生まれてしまう寂しさを、ごまかすために聞き入った。それは深夜、ふたりのあくびが止まらなくなるまで続いた。




 本当にたくさん喋った。もう真夜中を過ぎて、朝が近くなっている。ほんの数時間でも眠るべき、ということでわたしたちはそれぞれの布団に入った。
 わたしはミナキのいつも眠るベッドに寝かせてもらっている。ミナキ、こんな軽くて暖かい布団でいつも寝てるんだな。心地よいお布団に頭までうずまり、そしてまた呼んでしまう。


「マツバくん……」


 呼ぶと、返ってくるのはマツバくんじゃない声。床にひいたお布団に寝転がるミナキの声。


「マツバならいないぞ」
「……知ってるし」


 マツバくんがここに居ないことくらい知ってるし、分かってる。なのになんでいちいち言うのとミナキに聞くと、ミナキは言った。
 マツバの居ない夜っていうものがどんなものか、今のうちによく見とけよと、ミナキは言った。言いたいことが分かるような分からないような、ミナキの言葉はぐるぐると、何回もわたしの中で響きわたって、わたしが眠れたのは結局朝が来てからだった。

 翌朝。


「ミナキ。わたしもう一日、ここに泊まりたいな」


 わたしはミナキにそんなことを言い出していた。

 マツバくん。幼なじみの名前のかたちした魔法の言葉。それはまだわたしの中で息をしている。それでもエンジュはずるすると、遠く、帰れない場所になっていく。明日はもっと、帰れない場所になるのだろう。




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