ミナキがわたしをカントーに連れていってくれると約束してくれたその日の夜は眠れなかった。全然、全く、眠気が来なかった。自分の胸がとくとくと興奮に波打っていた。これは遠足前の夜の気分。知らない、遠いところへ行くことが体も分かってる。
 目を閉じてもぐっすりと眠ることはできなくて、次の日わたしは珍しく早起きをした。わたしはミナキに言われた通り、荷造りに取りかかった。一日かけて持っていくものを厳しく選んだ。不安はあるけれどなるべく荷物は少なくまとめられた。
 出発は明日だ。明日、わたしはエンジュから抜け出せる。そのバッグを玄関に置いて、わたしは怪しい感じで跳ねる心臓を抑えて布団に潜った。その日の夜も眠れなくて、眠れない夜続きだったわたしは少し寝坊をした。

 大事な時に限ってこういうことをしてしまう。毛先のまとまらない頭のままわたしはカバンをしっかりと肩にかけた。一番丈夫で、歩きやすい靴を履く。靴ひもをしっかりと結んで、さあ立ち上がろうという時、胸は苦しくなった。


「………」


ミナキは出発ぎりぎりまでやけたとうにいると言っていた。とりあえずわたしもやけたとうに行くか。と、一歩玄関から出たところだった。


「ナマエ!」
「マツバくん」


 げげ。今日ばかりはいやなタイミング。ちょうどマツバくんも出かけるところだったらしい。少し視線を斜めに傾ける。道の斜め向かいにマツバくんは立っていた。
 マツバくんは息を弾ませて近づいてくる。


「どこに行くの?」
「ちょ、ちょっとそこまで」
「……そう。これ、貸してあげるよ」


 マツバくんがしていたマフラー巻かれそうになる。芯から冷たくなった指が首を掠めた。わたしはその指から逃げる。


「いいよ、悪いから。鞄の中に入ってるから」
「そう?」
「うん、マツバくんはこれからどこかいくの?」
「今日はいつもより忙しくなりそうだよ」
「あーもー。マツバくんまた、はい、はい、分かりましたって簡単に返事したでしょ」
「そんなに軽くないよ。確かに思ってたより忙しくなり過ぎたけど」
「ほら。言った通りじゃん」


 あ、わたし、また分かったような口利いてる。それでマツバくんに指図しようとしてる。
 わたしのは心配じゃない。本当にマツバくんのため、なんて言い切れないから指図だ。


「……マツバくんの代わりなんてなかなかいないけど」


 なかなかいない、っていうか普通にいないよ。マツバくんみたいな人、世界にひとりしかいない。自分で考えてまた勝手に傷ついた。


「だからその分マツバくんは自分のこと大事にしないと」
「分かった、ありがとう。いつもごめん。明日の夕方からなら僕、家にいるからね」


 来て、なんて言葉がなくても、それはマツバくんの“うちにおいでよ”のサインだ。
 でも、明日の夕方。その頃わたしは多分ミナキの家に居る。


「……うん。何作るの?」


 行かないくせに聞いてしまう。


「決めてない」
「マツバくん」
「うん」
「……マツバくん」
「ナマエ?」


 だめだ、やっぱり、言えない。これからしようとしてること、マツバくんにちゃんと言った方が良いって分かってる。優しいマツバくんは多分わたしを心配するから。でもそれを告白する始まりの言葉が見つからない。情けないと自分で自分をなじった。

 せめてマツバくんを困らせる原因になりたくなくてわたしはミナキを頼るのに。


「ナマエ。明日僕の家、来るよね?」
「………」
「ミナキのところ、そんなに長く居たらだめだよ」
「し、知ってたの……?」


 マツバくんは眉を難しくさせながら、でもどうにか笑っていた。わたしはじんわりと着込んだ洋服の下、汗が滲む。


「なんでそんなこと考えたかとかは、僕には言ってくれないんだよね。ミナキといる方がいい?」
「そういうわけじゃ……」
「そう?」
「ごめん……。マツバくん、怒ってる?」
「怒っているのとは少し違うかな。僕、いつも頑張っていたんだけどな。何にも負けないようにって」
「ま、マツバくんは誰にも負けてないよ!」
「ナマエに言われても」
「ごめん……」


 マツバくんへの応援は笑い声混じりに否定されてしまって、わたしは言葉がなくなってしまった。後ろへじり、と退こうとしたわたしの手を両方とも、マツバくんは握った。
さらさらとした手はわたしのそれを体温をなじませるように握ったりゆるめたりしてくる。


「一日で帰って来て」
「え、一日は無理っぽい……」
「だよね。ごめん無理なのは分かっていたんだけどね」
「ごめん……。それじゃあ、わたし、ミナキ待ってると思うから」
「待って。もうちょっと待って」
「う、うん。なんかあるの?」
「……、うん、ちゃんと見送ってあげるから、待って」
「………」
「ナマエだって、僕のこと聞き分けの言い人間だって思っているだろ」


 言いながらマツバくんはわたしの手を離さない。指のかたち、爪のかたち、10本そろったわたしの指を確かめるように見つめては、それをひとまとめにするように包み込む。
 マツバくんが抱いている気持ちの詳しいところまでは分からない。でも苦しそうだなぁとは感じる。わたし自身が苦しいみたいに、そう感じる。


「ま、マツバくん!」
「待って。もう少しだから、待って」
「わ、わたしはミナキとちょっと遠くを見てくるけど! それはマツバくんには関係無い、わたしの問題だから、ね?」


 予防線みたいなものだった。なんだかマツバくんがすごく思い詰めているように感じられて、その原因がわたしだったらイヤだから、とりあえず言ってみて確認、くらいの気持ちだった。
 もしわたしが原因なら、マツバくん自分を責めないでのサインになると思った。なんというか、悪い意味を込めた言葉じゃなかった。


「なんで?」


 どうにか笑んでいたマツバくんの目が時間を止めた。たった一言の問いかけが無性に怖かった。

 これはバレたか? マツバくんに関係無いなんて嘘だってこと。本当は関係おおありですってこと。


「……っごめんね!」


 結局行ってきますは言えなくて、それがわたしの出発の言葉になった。

 どんどん噛み合わなくなっていくマツバくんとの関係を、これ以上ひどいものにしたくなかった。この辺りで時間を止めておきたくて、流れに逆らいたくて、エンジュの外へ行ってみるのは、わたしのあがき方、第一段階だった。
 まさかこんな出発の前に喧嘩みたくなるとなると思わなかった。わたしはマツバくんの心を乱さないままそっと離れられると信じていた。そしてわたしは強くなって帰ってきて、またはす向かいのお家に住んでるナマエに戻れるっていう計画だったんだけどな。
 こういうの、なんて言うんだっけ。ああ、マツバくんが言ってた言葉で、前途多難、だ。


「ミナキぃ……」


 こらえていた涙は全部ミナキの手袋に拾われた。


「先が思いやられるな」


 そうとも言う。




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