BL


「らりるれろ」


「らりるれろ」
「らりぃうれろ」
「うーん、やっぱり矢野は『り』と『る』が弱点だな。早く言うとくぐもって聞こえる」

 須田先輩はどうしたものかと首を傾げながら、紙に『らりるれろ』と書き出す。

「いつもすみません、僕のせいで…」
「いいんだよ。どうせ放送部の男たちは俺らしかいなくて、練習ものけ者だしな」

 肩をすくめて笑う須田先輩に、表面上だけ頭を下げる。放送部の練習は、声質や音域が似ている人同士で聞き合いながら行う。五名ほどいる女子なら二人一組で分けることが可能だが、僕らは男子二人なため自然にペアとされる。

「でもよかった。矢野が放送部に入ってくれて。俺が一年の時は三年生に一人だけ男の先輩がいてさ。でも春のNコンまでしかいなくて…そっからは俺一人だった。また今年も一人かなって思ってたけど、心細い思いしなくてよかったわ」

 屈託のない笑みを向けられ、思わず硬直してしまう。あぁ、この笑顔を写真に収めたい。心の声を抑えつつ、僕は先程の紙に目をやる。

「あ、そうこれ。俺が一個ずつランダムでどれか指差すから、それ言っていって」
「は、はい」

 須田先輩は人の動向に敏感だ。相手が何を感じているか、快か不快か、何が必要か、何に興味を持っているか、持っていないか。周りからは気遣い上手だと思われているが、ただ単に敏感すぎるだけだ。今だって、僕が須田先輩の話は興味がなく逸らしたいと思ったんだと解釈したのだろう。そういうところも見ていて飽きないが。

「はい」
「ら」
「はい」
「れ」
「はい」
「る」

 実は、ラ行も苦手というわけではない。他の部員と同じくらいの発音はできる。わざと、出来ないふりをしているのだ。

「うん、単体ならいいな。それが文章になるとダメってことは…やっぱり発音の仕方か」

 須田先輩はクリアファイルから数枚の紙を取り出す。そこには人間のシルエットとラ行の発音の仕方が載っていた。わざわざ僕の為に何かの本のページを拡大印刷したんだろう。

「舌先の裏を、前歯の歯茎に近付けて、滑らせるように発音する。こんな感じ」

 と、須田先輩は横を向いて実践してくれた。赤い舌が上向きになり、歯茎を触る。飴玉を舌先で転がしているかのような滑らかな動き。何度も何度も、発声と共に舌は踊る。

「どう? イメージ掴めた?」
「……………………………………………………」
「おーい、矢野?」

 名前を呼ばれ、ハッと我に返る。首を傾げる彼に、必死に手を振って何でもないと答える。ドクドクと心臓と下半身がうずくが、何事もないようにラ行の発音を真似していく。

「もうちょいパッと明るく言ってみて」
「……ら、り、る、れ、ろ」
「うん、だいぶよくなってきたな。あとは文章慣れしないとな…」

 そう言って、彼は手元にあった本を引っ張り出し捲る。様々な作家が書いた短編集は、ちょっとした朗読に適してる。僕の為に、ラ行がほどよく入っていて文章のリズムや切れが良い部分を探している須田先輩は、眉をしかめながら本と睨めっこ。

「須田先輩って、ラ行だけじゃなくて発音全般上手ですよね」
「ん? まぁ発音の仕方は気にしているから人並みには、かな」
「人並み以上ですよ。だからみんな発音で困ったら先輩を頼るじゃないですか」
「ははっ、ありがとな」

 苦手な発音は人それぞれだ。僕はラ行(のフリをしているだけ)だが、文章を読む中で詰まった発音になってしまう時がどうしてもある。そういったとき、部員が一番に頼りにするのは須田先輩だ。彼は特に苦手な発音もなく、文章で引っかかることもあまりない。また教えるのが上手なうえに謙遜している言動は、みんなから愛される。
朗読する候補が絞られたのか、先輩は二つのページを行き来している。褒めても顔色一つ変えない彼に、悪戯心が顔を出す。

「……ラ行上手な人って、キスがうまいって言いますよね」
「………………………………………………………………えっ?」

 彼の手が、ピタリと止まった。視線も本から僕へ移動。何を言われたのか理解できていない、という呆けた顔に、自然と口角が上がってしまう。

「キスですよ、キス。先輩、ラ行上手じゃないですか」
「……キ、キス……ラ行…?」
「そうです。先輩って、キス、上手なんですか?」

 投げかけられた質問に、呆けた顔は真っ赤に染まった。これが誰かに見られることがなくて良かったと心の底から思う。僕らが発音練習をしている場所は、部室の一番奥の小さな部屋。他の部員は扉の向こうの広い部屋を使っている。
 チラリと扉を見て、誰もこちらに来る様子がないことを確認し、須田先輩に向き直る。

「先輩、顔真っ赤ですよ? そんなに過剰反応しなくても、先輩だって彼女とそういうことしたことあるんじゃないんですか?」
「あ、う、うんうんうんうん当たり前だろ! 彼女くらい……」

 いなかったようだ。
 中学、彼に惚れた時。彼は図書委員で人とあまり関わろうとせず、自分の中だけの世界を大切にしていた。きっと友達がやっとで彼女はいなかっただろう。だけど人は何があるかはわからない。先に彼が高校へ行ってしまったときは、彼女の一人や二人ができてしまうことは覚悟していたが、杞憂だったようだ。現に彼は、いい人であることに徹しているだけだ。

「じゃあやっぱり、先輩はキス上手なんだろうなぁ…」

 独り言のように呟き、ちらりと視線を動かす。視線の先の彼は、頬を染めて唇を固く閉じ、俯いている。

「ちょっと、トイレ行ってきますね」

 さすがに意地悪をしすぎたか、と僕は席を外すことにした。須田先輩の曖昧な返事を背に、自身のうるさい心臓を落ち着かせる必要を感じた。
 須田先輩に彼女がいないにせよ、男を好きになることはないだろう。男から向けられる好意も、心地よく思ってくれはしないはずだ。トイレで用を足していると、運動部の男子生徒が数人入ってきた。この人たちも、自分が同じトイレにいる男子から恋愛対象で見られるなんて、考えもしないだろう。僕は顔を上げることなく、手を洗ってトイレを出た。
 別に、彼の恋人になれなくてもいい。ただあと二年、彼の卒業まで。近くにいて、いろんな表情を見られればそれでいい。

 部室に戻ると、女性陣がいなくなっていた。恐らく外へ発声練習にでも行ったのだろう。とすると須田先輩も行ってしまったかもしれない…と思ったが、奥の部屋に彼は残っていた。彼のことだ、後輩の僕を待っていたのだろう。だが、温かくなった心はガラス越しに見えた姿によって霧散された。
 須田先輩は先程と同じように座っているが、その手には手鏡が握られていた。難しそうな顔で、彼は自身の舌を出して左右にくねくねと動かす。発音練習かとも思ったが、奇妙な舌の動きがその可能性を絶やした。舌はちょろっと出ては引っ込みを繰り返すと、今度は唇を舐めるようにゆっくりと這う。そしてとうとうそれは顔を出し、見えない何かと絡み合うようにうねる。

 これは、キスの練習だ。


―――ガチャッ―――


「あっ…………………」

 須田先輩は間の抜けた声を出して数秒僕を見つめると、一気に顔を赤くさせた。まるで赤いチューリップのように、耳まで真っ赤だ。素早く手鏡を机に置き、手を膝の上に行儀よく乗せては体を丸めて顔を隠してしまった。僕は大股で近寄る。少し手を伸ばせば届くという距離まで来ても、彼は顔を上げない。僕はしゃがんで片膝をつき、彼の頬に触れ視線をこちらへ誘導させる。だが目は合わない。それでも僕は言葉を紡いだ。

「僕で、練習しますか?」

 赤いチューリップと、視線が重なった。






End



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