失うことの淋しさを初めて、教えられた。それも強制的に。
鋭利なナイフは人の肉をいとも簡単に引き裂いていく。時には果物を。時にはチーズを。切る為にある道具は、人体だって平等に革を剥ぐ。突き立てれば臓物まで届き、口から血が出て、待っているのは悪けりゃ死だ。
そんな当たり前のこと、知識としては知っていた筈なのに、目の前で呑気に笑う男にも、それが与えられるなんて想像、あの時まではしていなかった。様々な可能性を考慮していかなければいけないのに、いつの間にか、その柔らかな熱に絆されるかのように、味方だと思っていた(いや、敵としてカウントされていなかった)ヴィータから死を屠るようになるとは。
可能性として頭の片隅にはあったのだが、それが現実になり、まさか近くに居た自分が防げないなんてさ。
あの時は、デレない彼女が庇って死なずには済んだが。戦闘以外でも、人は死ぬ。当たり前のことだ。脆いヴィータの身体は例外なく。追放メギドであっても死んでしまうのだ。ただのヴィータなら尚の事。そもそも、攻撃されなくても、病気や老いで死んでしまうのだ。知っていたはずだろう。この目で見てきたのだから。移り変わる世界の中で。関りを持ったヴィータがどれだけ死んでいったか。情報としてではなく、事実として。知っていたし、受け入れていた。特に悲しいとも寂しいとも思わなかった。脆弱な生き物だと嘲笑うことはあっても、執着することも、興味を惹かれることも無かった。「そんなもんだろ」これくらいの気持ちで。ヴィータの死と関わってきた。
なのに初めて、怖いと思う。
口にはださねぇぜ。びっくりするほど、ダサいし。知られたくない感情だ。
初めて、これが失うことの淋しさなのだと知った時、事実を受け入れられなかった。心の中に突然、真っ黒な色をした泉が湧き出したような衝撃だった。もし、屈託なく笑い泣き、くだらないことを言い合う、男がいなくなってしまった時、俺はそれを受け入れられるんだろうか。
事故による死亡でも、戦闘による死亡でも、病気による死亡でも、老衰による死亡でも。どんな形であれ死というものは、コイツには与えられるのだ。遠くない未来。俺からすればほんの一瞬。瞬きをして欠伸をするくらいの時間に。さぁさぁ死にましたよ! という事実を突き立てられた時、受け入れられるのだろうか。
受け入れ、淋しさに慣れていくのだろうか。目の前にいる男の忘れる筈がない強烈なイレズミまでもが風化していき、露出の高い個性的な服装の形までも思い出せなくなる。ソロモン王の英雄譚を聞きたい追放メギドが現れた時、俺はそれを事細かに記憶できるのだろうか。いや、そんなのは得意な奴に任せておけばいいんだろうけど。
俺自身が、アイツとの思い出の中で生きたいと願った時に、記憶は甦るのか。
蘇らなかったときに、俺はなんと感じるのだろうか。他のヴィータ達に思うように「そんなもんか」と一言吐いて終わるのだろうか。
それは、それはなんて寂しいのだろうか。
忘れたくはなかった。今、この場で繰り広げられる、柔い気持ちを。初めて抱いた淋しさや切なささえも。抱き抱えていたかった。こんなの俺の柄じゃねぇって分かっていても、さ。目の前の男を、失くして記憶に閉じ込めたくなかった。


「バラム、どうしたんだ思い悩んだ顔をして」
目の前で片手に青りんご。片手にナイフを持ち、器用に皮を剥くソロモンは俺の顔を覗き込んで尋ねた。ヤッベ、そんな顔に出てた? とナイフから連鎖して柄にもないことを考え、思い悩んでしまった自分をわずかに恥じ、焦った。
「いや、こんなに美味そうな林檎なのに醤油かけねぇんだなって」
「本当に美味しいって思ってるのか」
顔にはバラムの味覚だけは信頼できないと書いてあり、腹は立ったが上手く誤魔化されてくれたことに心の中で拍手しておいた。
机の上には籐の籠いっぱいに八百屋から貰った青りんごが積み上げられていた。今朝、八百屋の女将さんが暴漢に襲われていた所を、無謀にもこのイレズミ男が止めようとしたので、俺も僅かに手助けをした。その時のお礼にと、貰ったものだ。幾つかは林檎パイに、幾つかはジャムに。幾つかは果実のまま食べるらしい。今はジャムにする分の皮を剥いている最中だ。俺が考え事をしている間に、既に相当の数の林檎の皮を剥いたらしい。鍋の中には山ほど果肉が放り込まれていた。
「指切るなよ」
「切らないよ。あのさ、本当に醤油つけて食べたいんなら一個、生のまま持っていってもいいからな。バラムの手助けがあったから、あの場を無事納められたんだから」
「なら、一個。労働の報酬にいただきますか」
「もちろん」
籠に手を伸ばし林檎を取るふりをして、ソロモンの腕を掴んだ。ナイフを握っていた手を掴んだので、驚き、危ないだろう! と少し怒っている。そのままこっちに引き寄せると、ソロモンは思わず手からナイフを離し机の上に投げた。
「バラム?」
唐突な行動に疑問符を浮かべこちらを見ている。呼吸をする息が、瞬きする眼球が。腕から伝わる温度や心音が生きていることを教えてくる。この入れ物がダメになったら。魂だけでも繋ぎとめておけないだろうか。違う入れ物を探して、俺と一緒に生きてくれないだろうか。記憶になんか、ならないでさ。ダメかなぁ。結構、いい案だと思うんだけど。そんなこと口に出したら怒るだろうな。否定するだろうなぁ。だから、言いはしないけれど。
ガブ、と指先を噛んだ。少し塩っぽくて林檎の果実の香りがした。爪先を緩く噛んで、ささむけから肉に触れると、ソロモンは眉を細めた。がぶがぶと何度か噛んでやると、呆れた顔をしてため息を吐き出し「バラム」と名を呼ぶ。
「つまねぇ、反応だな、オイ」
「いや、どんな反応すれば正解なのか分からないって。なにがしたいんだよ」
「はは」
「笑ってごまかしただと」
「林檎、貰ってくな」
初めからそうしてくれよ、とソロモンは呆れた声色で呟いた。籠の中に入った林檎の果実はひんやりしていて、死体を彷彿させた。